唐史話三眛

唐朝順宗・憲宗→宣宗→德宗時代の流れを、私見を付け加えて
記述していきます。ご異見があればよろしく。

嶺南節度使史 その9

2021-02-15 10:00:46 | Weblog
◎.光啓二年[886]
◎. 鄭續は?
◎.5月 [朱玫により擁立された僞皇帝(嗣襄王)により淮南節度使高駢の佞臣である
右都押衙和州刺史呂用之が檢校兵部尚書兼廣州刺史嶺南東道節度使に任用されるが不任]

光啓三年[887]
◎.? 裴璩が嶺南東道節度使となる。

文德元年[888]
◎2月.[親衛軍の將保鑾都將陳珮檢校司空廣州刺史嶺南東道節度使に任ぜられるが遥領である]

龍紀元年[889]
◎. 裴璩は?

大順元年[890]
◎. 戸部侍郎劉崇龜が検校戸部尚書嶺南東道節度使となる

景福二年[893]
◎.3/6月 [親衛軍の將捧日都頭陳珮が再度特進同平章事廣州刺史嶺南東道節度使使に任ぜ
られ軍權を解かれた。軍權の皇帝への回収である。名目的な任命で赴任していない]

乾寧二年[895]
◎. 節度使劉崇龜が卒した。
◎.7月(三年正月說あり) 特進戸部尚書兼京兆尹嗣薛王知柔が檢校司徒兼廣州刺史
御史大夫充清海軍節度嶺南東道觀察處置等使となる。
◎. 嶺南東道節度を號清海軍節度とする。
◎.12月 節度使薛王知柔は湖南に至るが、廣州牙將盧琚、譚弘□等は入部を拒否した。
封州刺史劉隱は端州で弘□を、廣州で琚を殺し、知柔を迎え入れた。知柔は隱を行軍司馬とした。

乾寧三年[896]
◎.7月 [崔昭緯派として宰相を逐われた中書侍郎同平章事崔胤が金紫光祿大夫檢校尚書
左僕射同平章事兼廣州刺史御史大夫充清海軍節度嶺南東道觀察處置等使になるが、
朱全忠に依頼して、その圧力により9月復相]

光化元年[898]
韶州刺史曾衮が舉兵し廣州を攻め、將王鐐が應じた。清海行軍司馬劉隱が撃破した。
韶州將劉潼の乱も平定した。

光化三年[900]
◎.12月 節度使嗣薛王知柔が卒する。
◎. 崔胤により逐われた開府儀同三司守太保兼門下侍郎平章事充太清宮使修奉太廟使
弘文館大學士延資庫使諸道鹽鐵轉運等使齊國公徐彥若が檢校太尉同平章事廣州刺史充
清海軍節度嶺南東道管内觀察處置供軍糧料等使として出される。唐朝が赴任させた
最後の節度使である。

天復元年[901]
◎.12月 節度使徐彥若が卒する。
◎.12月 後継として行軍司馬劉隱が自稱留後となる。

天復二年[902]
虔州刺史盧光稠が嶺南を攻めて韶州を陥し、潮州を囲んだ。清海留後劉隱がこれを破り、
韶州を奪回しようとしたが、光稠將譚全播に敗れた。

天復三年[903]
◎.2月 [吏部尚書同平章事裴樞が一時、檢校右僕射同平章事兼廣州刺史清海軍節度嶺南
東道觀察等使となったがすぐ門下侍郎同平章事に戻った。意味不明である]

天祐元年[904]
◎. [兵部尚書崔遠が清海軍節度嶺東觀察使として彥若の後任となったが、荊南まで来て
隠の自立を知って戻った]
◎. 劉隠は朱全忠に通じて贈賄し節度使に任じられた。

天祐二年[905]
◎.3月 劉隠に加同平章事。

天祐四年[907]
◎.5月 唐の滅亡により、劉隠は後梁朱全忠の下につき、兼侍中大彭王となった。
[以降 五代十國の南漢國]
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嶺南節度使史 その8

2021-02-14 11:34:58 | Weblog
咸通元年[860]
◎. 蕭倣 転出先不明

咸通二年[861]
◎. 江西観察使韋宙が嶺南節度使となる。

咸通三年[862]
◎.5月 嶺南節度を嶺南東道節度に、邕管を嶺南西道節度とし、韋宙は嶺南東道節度使となる。蔡京の対雲南蠻政策による制度変更である。
◎.12月 安南蔡襲が雲南蠻の侵攻に対処するため増援を求めたが、韋宙は来寇は邕管のほうだと主張して認めなかった。

咸通四年[863]
◎.正月 雲南蠻は安南を襲撃し、都護蔡襲以下が潰滅した。
◎.8月 韋宙は再び邕管が攻撃されるとし、藤州に派兵した。

咸通五年[864]
◎.3月 雲南蠻は邕管を攻囲し唐軍は大敗したが、経略使康承訓は勝利したと報告。
◎.7月 韋宙は康承訓の虚偽を弾劾し処罰させた。

咸通八年[867]
◎.12月 韋宙は嶺南経略の功績により、検校尚書左僕射同平章事を加えられた。嶺南節度使として最初の使相である。

咸通九年[868]
◎. 韋宙は鎭で卒した。
◎.5月 文官邕管經略使鄭愚が廣州刺史充嶺南東道節度觀察處置等使となった?。

咸通十二年[871]
◎. 鄭愚は不明。
◎.12月 能政で知られた檢校戸部尚書汴州刺史御史大夫宣武軍節度使鄭從讜は宰相に任用されることを怖れられ廣州刺史嶺南東道節度觀察處置等使に遷された。従讜は現地兵を登用し軍備を強化した。しかし暑熱を厭い帰任を求めた。

乾符元年[874]
◎.5月 鄭従讜は刑部尚書となった。
◎.5月 吏部侍郎韋荷が檢校禮部尚書廣州刺史嶺南東道節度使となった。

乾符三年[876]
◎. 韋荷?

乾符四年[877]
◎. ?李迢/巖が嶺東節度使に

乾符六年[879]
◎.5月 黄巣軍が福建を通って南下し廣州を陥し、節度使李迢/巖を捕らえ、郡県を掠奪した。
◎.5月 黄巣は捕らえていた浙東観察崔璆・嶺南節度李迢に強いて、故郷である天平節度使を求めたが却下され、さらに嶺東節度使を求めたが貿易の利を重視する唐朝は認めなかった。
◎.8月 鎮海節度使高駢は全軍を率いて廣州の黄巣を討つことを求めたが認可されなかった。この頃朝廷では宰相鄭畋・盧攜等が事ごとに争って、無能な僖宗皇帝は裁決できなかった。
◎.10月 炎暑の廣州では、暑さに慣れない黄巣軍は多く病死し、衆は北上帰郷を求めた。やむをえず黄巣は崔璆・李迢を帯同し北上して湖南に入った。
◎. 黄巣の棄てた廣州に?鄭續が入り嶺東節度使となった。
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嶺南節度使史 その7

2021-02-11 10:00:42 | Weblog
長慶四年[824]
◎.10月 鄭權は卒した。
◎.10月 謹厚ではあったが宰相としての器量がなかった檢校兵部尚書
鄂岳觀察使崔植[字公修.宰相祐甫の養子]が檢校吏部尚書兼廣州刺史
御史大夫充嶺南節度觀察經略使となる。

寶暦二年[826]
◎. 崔植は戸部尚書へ
◎.11月 戸部尚書判度支胡證が檢校兵部尚書兼廣州刺史充嶺南節度使
となる。

太和二年[828]
◎.10月 収斂して巨富を築き胡證は卒した。為に太和九年甘露の変が
起こると、神策軍の兵士は掠奪し、胡宅に乱入し子の殷を殺害した。
◎.10月 副元帥李晟の子だが晟・愬・聴などの兄弟達とは違い文官を
めざした江西観察使李憲が檢校左散騎常侍兼御史大夫嶺南節度觀察等
使となる。吏才があり能政・守法で良政を敷いた。

太和三年[829]
◎7/8月 李憲は卒した。
◎.7月 京兆尹崔護が御史大夫嶺南節度使となる。

太和四年[830]
◎. 崔護 不明。

太和五年[831]
◎.2月 桂管觀察使李諒が嶺南節度使となる。

太和七年[833]
◎.3月 李諒は卒した。
◎.正月 大府卿崔珙が嶺南節度使となったが、赴任の挨拶で、
王智興が甘やかし難治の武寧軍節度についての経綸を述べ、
感心した文宗皇帝はただちに檢校工部尚書武寧軍節度使に変更
した[崔珙はよく横暴な武寧牙軍を抑えたという]。
◎.正月 代わりに左金吾将軍王茂元が檢校工部尚書廣州刺史
嶺南節度使となる。

太和九年[835]
◎.10月 王茂元は聚斂蓄財して鄭注に贈賄して涇原節度使となる
[このため甘露の変に巻き添えになりそうになり、資産を宦官に
渡して免れる]
◎.4月 桂管觀察使李從易/從簡が嶺南節度使となる。

開成元年[836]
◎.12月 李從易は卒した。
◎.12月 華州刺史盧鈞が廣州刺史御史大夫嶺南節度使となった。
鈞は廉政で知られ人望が高かった。嶺南は賄帥や宦官達の収奪の
巣窟となっていたため珍しい人事であった。

開成四年[839]
◎. 嶺南の諸州は州縣官は僥倖達の食いものになっていて、
考試などもろくに行われていないという現状であった。

開成五年[840]
◎.12月 盧鈞は戸部侍郎/山東節度使

會昌元年~二年の嶺南節度使は不明。

會昌三年[843]
◎. 高暈が嶺南節度使となる。詳細不明。

會昌四年[844]
◎. 宣歙観察使崔龜從が中散大夫検校禮部尚書兼御史大夫充嶺南
節度等使となる。

會昌五年[845]
◎. 崔龜從 後年戸部侍郎から宰相へ
◎. 河南尹盧貞が嶺南節度使となる。

會昌六年[846]
◎. 盧貞 後年、陝虢観察使に?

大中元年[847]
◎. ? 李玭が嶺南節度使となる。

大中二年[848]
◎. 李玭は鳳翔隴右節度使へ?
◎. ? 李行修[祐の子]が嶺南節度使となる。

大中三年[849]
◎. 李行修は卒した。
◎. 同州刺史韋正貫が嶺南節度使となる。

大中五年[851]
◎.7月 韋正貫は卒した。
◎. 前江西観察使紇干臮が嶺南節度使となる。

大中八年[854]
◎. 紇干臮は慶王府長史に貶された/河陽節度使說。

大中九年[855]
◎. ? 韋曙が嶺南節度使となる。

大中十一年[857]
◎. 嶺南溪洞洞蠻が侵盜した。

大中十二年[858]
◎.正月 韋曙は卒した。
◎.3月 御史中丞福建観察使楊發が太中大夫檢校右常侍
廣州刺史御史大夫充嶺南節度觀察處置等使となった。
發は能政で知られ腐敗しきっていた嶺南の政治を是正する
ことを期待されていた。
◎.4月 しかし腐敗しきっていた牙軍は暴発し、都將王令寰
が乱し、發を執えた。やむをえず婺州刺史に貶せられた。
◎.5月 右金吾大将軍李璲が嶺南節度使となるが、給事中
蕭倣は不適任であると封還し取り消された。
◎.5月 軍人涇原節度使李承勛/承勳[光弼の孫]が嶺南節度
使となり隣道の兵をもちいて乱を鎮圧した。

大中十三年[859]
◎. 李承勛 転出先不明
◎. 宰相司空門下侍郎同平章事蕭倣が同僚に清廉さを疎まれ
嶺南節度使となる。節度使としても清廉で財を築かなかったという。

咸通元年[860]
◎. 蕭倣 転出先不明
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嶺南節度使史 その6

2021-02-10 10:00:40 | Weblog
元和三年[808]
◎.4月 趙昌は荊南節度使へ転じる。
◎.4月 戸部侍郎楊於陵が嶺南節度使となった。
賢良方正直言極諫試験において牛僧孺、皇甫湜、李宗閔等が、宰相李吉甫の政治を糾弾
したため、吉甫はそれを優等とした翰林學士裴垍、王涯等を排斥した。
於陵もまたそれに坐して出された。

元和四年[809]
◎.この頃 嶺南諸州の大半の刺史は名目だけで欠員となっていて、判官より選んで知州
事としていた。また判官も左遷されてきた流人が多かった。

元和五年[810]
◎.7月 楊於陵は吏部侍郎へ
宦官嶺南監軍許遂振は廉直な於陵と合わず、誹謗中傷を上申を繰り返し3月解任させた。
憲宗は帰京してきた於陵を閑職にしようとしたが、学士裴垍等に実情を教えられ要官で
ある吏部侍郎に任じ、かえって遂振を左遷した。 
◎.3月 宰相としては無能で太子賓客となっていた鄭絪が檢校禮部尚書廣州刺史嶺南節度使に。

元和八年[813]
◎.5月 廉政であった鄭絪は工部尚書へ。
◎.12月 桂管觀察使馬總が嶺南節度使に。

元和十一年[816] 
◎. 馬總は刑部侍郎へ

元和十二年[817]
◎. 桂管觀察使崔詠が嶺南節度使に。
◎.7月 崔詠は卒した。
◎.7月 国子祭酒孔戣が廣州刺史兼御史大夫嶺南節度使に。
詠の後任に憲宗は節倹を上奏していた孔戣を選んだ。戣は廉政をしき、人身売買
を禁じ、吏員の不法を抑えた。

元和十四年[819]
◎. 桂管・容管領域で盛んに蕃族討伐が行われ、二管は疲弊したが、嶺南孔戣は
派兵せずは安定していた。しかし安南で楊淸が反し、討伐することとなった。

元和十五年[820]
◎.9月 前嶺南節度使孔戣は吏部侍郎に。
◎.9月 將作監崔能[字子才.從の兄]が廣州刺史兼御史大夫嶺南節度使に。

長慶三年[823]
◎. 崔能は卒した。
◎.4月 敏腕であった工部尚書鄭權は宦官に贈賄して檢校右僕射廣州刺史
嶺南節度使となった。妾が多くて工部尚書の給与では養えないという理由
には、宦官達も呆れかえったようである。当然赴任して聚斂贈賄に努めた。

長慶四年[824]
◎.10月 鄭權は卒した。
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嶺南節度使史 その5

2021-02-09 10:00:49 | Weblog
興元元年[784]
◎.9月 前嶺南節度使元琇は戸部侍郎へ
◎.3月 前饒州刺史[蘇州刺史から転じるが不任]杜佑[字君卿]が御史大夫
廣州刺史嶺南節度觀察使となる。
嶺南は従来兼五管經略使であるが、当時の人事担当者が疎漏であったために
抜け落ちた。これにより嶺南は五管を管掌しなくなった。
佑は廣州の道路を広げ火災の危険を防いだ。また朱厓黎民を討った。

貞元三年[787]
◎.3月 杜佑は尚書左丞/右丞へ移った。
◎.3月 溪洞の人心を安定させていた検校右常侍兼御史中丞容管経略使李復
[字初陽]が御史大夫嶺南節度經略觀察處置等使となる。安南の姦吏李元度、
胡懷義を誅し乱れていた統治を復し、陶瓦を教え、蠻獠を綏撫した。

貞元五年[789]
◎.10月 李復は判官姜孟京と崖州刺史張少遷を派して乾封年間[666~68]
より山賊が占拠していた瓊州を回復し都督府を置いた。

貞元八年[792]
◎. 功績により李復は檢校工部尚書宗正卿へ
◎.9月 竇参の党として失脚していた太子賓客薛珏/玨[字溫如]が嶺南節度使となる。

貞元十一年[795]
◎.正月 薛珏は卒する。
◎.正月 溪洞を制圧していた邕管経略使王鍔[字昆吾]が御史大夫
嶺南節度觀察使となった。軍人ではあるが吏才も備えた鍔は商利・交易
の利を貪欲に漁り巨富を築いた。

貞元十七年[801]
◎. 王鍔は刑部尚書へ
◎.5月 工部侍郎趙植[字洪祚]が御史大夫嶺南節度觀察使となった。

貞元十八年[802]
◎. 趙植は卒する。節度掌書記試大理評事張貞元は多額の贈賄をし邕
州經略使に転じる命を受けた。給事中許孟容等はこれを非として任命
を制止した。
◎.8月 御史中丞邕管経略使徐申[字維降]が廣州刺史御史大夫嶺南
節度支度營田觀察處置本管經略等使東海郡公。前使趙植が卒したあと
官規が糜爛していたのを引き締め。清廉な治政を行い、劍南劉闢の乱
には征討の援軍を送った。功績により金紫光祿大夫檢校禮部尚書を加
えられた。

元和元年[806]
◎.3月 徐申は卒する。
◎.3月 安南に長く在任しよく安撫していた檢校工部尚書前安南経略使
趙昌[字洪祚]が検校戸部尚書嶺南節度使となった。
昌は七十歳を超えていたが頗る元気であった。

元和三年[807]
◎.4月 趙昌は荊南節度使へ
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嶺南節度使史 その4

2021-02-08 10:00:54 | Weblog
大暦二年[767]
◎.4/5月 工部侍郎徐浩が、嶺南節度觀察使兼御史大夫として赴任
した。文雅で有名であったが聚斂につとめ貨財を増やし、愛妾に左右されていた。

大暦三年[768]
◎.冬 銀靑光禄大夫吏部侍郎集賢殿學士副知院事となり典選にあたった。
◎.10月 宦官魚朝恩に逐われた廉潔な京兆尹兼御史大夫李勉が廣州刺史
兼嶺南節度觀察使兼御史大夫となった。

大暦六年[771]
◎. 嶺南蠻酋梁崇牽は平南十道大都統と自称して,756年より容州を占拠し、
西原蠻張侯や夏永と連結し、城邑を占拠していた。
そのため従来の容管經略使は容州に入れず藤/梧州に僑治していた。
新任の經略使王翃は私財で募兵し、賊帥歐陽珪を斬り、嶺南節度使李勉に
支援を求めた,武将ではない勉は逡巡したが、翃は撃つと宣言してくれるだ
けで良いと求めた。そして現地の蕃族義州刺史陳仁璀、藤州刺史李曉庭を
動員して容州を回復し、梁崇牽を捕らえた。
また西原蠻を破り鬱林諸州を回復した。嶺南版図の番禺賊帥馮崇道や桂州
叛將朱濟時も十餘州を占拠していたが、勉は將李觀を翃に協力させて悉く
討滅させた。

大暦七年[772]
◎.11月 李勉は工部尚書となった。勉は廉潔で富裕な廣州にいたが私財を
築かず、代宗は極めて信任していた。
そしてすぐ歸附してきた永平節度使令狐彰の後任に補された。
◎.10月 軍人大府卿鄆國公呂崇賁が廣州都督嶺南節度使となった。

大暦八年[773]
◎.3月 部將循州刺史哥舒晃が呂崇賁を殺し、反乱を起こした。
◎.10月 江西観察使路嗣恭を廣州刺史充嶺南節度使封翼國公とし、
晃を討伐させた。しかし嶺南の現地勢力は哥舒晃に与党し、暑熱
でもあり征討は困難であった。

大暦10年[775]
◎.2月 睦王述が遥領嶺南節度支度営田五府經略観察處置等大使。
◎.11月 路嗣恭は流人孟瑤、敬冕を將として起用し廣州に入り、哥舒晃や
その徒党萬餘人を誅殺し京観を築いた。

大暦12年[777]
◎.12月 嶺南節度使兼江西観察使路嗣恭は檢校兵部尚書知省事となった。
代宗は嗣恭の征討の功績は認めたが、廣州を掠奪し莫大な宝物を私物化し
たとして最初は遇しなかった。嗣恭麾下虔州別駕李泌が代宗に取りなして
任用させた。
◎.5月 軍人前安南都護張伯儀が廣州刺史兼御史大夫充嶺南節度使となった。

建中三年[782]
◎.3月 張伯儀は檢校兵部尚書兼御史大夫荊南節度使に転じた
◎.3月 容管経略使元琇が嶺南節度使となった。
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唐史データリンク集  テスト版

2021-02-07 18:28:49 | Weblog
リンクをクリックしてメニュをみてください。内容自体は以前と同じです。
節度使史部分はまだできていません。
反応しない等の問題があればご指摘ください。

唐史データリンク集  テスト版
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嶺南節度使史 その3

2021-02-07 10:00:54 | Weblog
天寶十五載/至德元年[756]-2
◎.正月 南陽郡太守魯炅は南陽節度使として、率嶺南、黔中、山南東道兵を率いて
安禄山軍と戦った。

◎.5月 魯炅軍は敗北し、南陽に籠城した。夷陵太守虢王巨が河南節度使として
嶺南節度使何履光、黔中節度使趙國珍、南陽節度使魯炅を率いてして支援した。

◎.10月 北海太守として安禄山軍と戦ってきた賀蘭進明が肅宗の元に逃れてきた。
功績により南海太守摂御史大夫充嶺南節度使に任ぜられた。
肅宗としては摂御史大夫ではなく、正任の御史大夫に任じたつもりであったが、
進明とあわない宰相房琯は「摂」をつけて格下げした。
しかし進明は赴任せずすぐ御史大夫河南節度使に転じた。

◎.是年 嶺南溪獠梁崇牽は反して容州を陥した。

至德二年[757]
◎.是年 韋利見が廣州刺史嶺南節度使として赴任したようである。

乾元元年[758]
◎.9月 大食國、波斯國兵が廣州城を攻め、刺史韋利見は城を棄てて敗走した。
賊は掠奪して去った。実際は外寇ではなく海賊の襲來であったとみられる。

◎.10月 濮州刺史張萬頃/方須が廣州都督五府節度使として赴任し鎮静化させる。
萬頃は旧安禄山下より帰順した將である。

◎. 置韶連郴三州都團練守捉使,治韶州。

上元元年[760]
◎.10月 浙東觀察使御史中丞趙良弼が御史中丞嶺南節度使となった。 
◎. 張萬頃は県尉に貶せられたようである。罪状は不明。

上元二年
◎. 廢韶連郴都團練使,三州復隸嶺南節度。
◎. 羅、潘二州隸邕管觀察使。

寶應元年[762]
◎. 衛尉卿洪州都督の張休が御史中丞廣州刺史嶺南節度經略觀察等使となる。
趙良弼は太子賓客となった。

廣徳元年[763]
◎.11/12月 宦官廣州市舶使呂太一が乱し、張休は端州に奔った。
◎. 新旧唐書伝には饒州刺史韋倫が韶州刺史兼御史中丞韶連柳三州都團練使
として呂太一の乱の鎮圧を命ぜられ[太一の反間に陥れられ。免ぜられて
信州司馬に貶]とある。新唐書の方鎭表の韶連柳三州都團練使[乾元元年
~上元二年]の記載とは合わない。

廣徳二年[764]
◎. 同州刺史?楊督微が御史中丞嶺南節度使となり大暦二年[767]
4月以前に卒するまで在任した。
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整理分再掲示

2021-02-06 18:34:07 | Weblog
近々にメニュを整理してみる予定です。

唐各皇帝史をPDF形式でデータをアップロードしました。
高祖史
太宗史
高宗史
則天史
中宗睿宗史
玄宗史
肅宗史
代宗史
德宗史
順宗憲宗史
穆宗敬宗史
文宗史
武宗史
宣宗史
懿宗史
僖宗史
昭宗哀帝史
リンクをクリックするとPDFが開きます。

[唐歴史データ]
全節度使データ一覧(エクセルリンク)
封爵データ一覧(エクセル)3183名分
文官宰相一覧(エクセルリンク)
宰相年表[附使相]
中書舎人年表
給事中年表
太子庶子年表
字[あざな 1846名分]一覧
皇族一覧表[皇帝別]
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嶺南節度使史 その2

2021-02-06 09:54:56 | Weblog
天寶三載[744]
南海郡太守は劉巨鱗で呉令光討伐にあたっていた?

天寶四載[745]
◎.5月 刑部尚書裴敦復が嶺南五府經略等使となったが、なかなか赴任せず、淄川太守に貶せられた。
代わって光祿少卿彭杲が任ぜられた。敦復は三載に河南尹から、台、明州を掠奪した海賊呉令光を討
った功績を賞されたのであるが、裴寬派に属するため宰相李林甫の排斥をうけ陥れられた。

天寶五載[746]
◎. 嶺南五府節度經略采訪處置等使攝禦史中丞殿中監南康縣伯張九皋/九章[元宰相九齡の弟]は、
楊貴妃が玄宗の寵愛を受け、ひたすら迎合し、宝物・茘枝を献上して銀青光祿大夫[従三品]を得た。

天寶六載[747]
◎.2/3月 嶺南五府經略採訪使光祿少卿兼南海郡太守攝御史中丞彭果/杲は坐贓により流罪となった。

天寶八載[749]
◎.5月 南海太守劉巨鱗が坐贓により殺された。

天寶十載[751]
◎. 漳、潮二州が福建より嶺南經略使に移管された。

天寶十二年[753]
◎.5月 左武衛大將軍何復光/履光が嶺南五府兵を率いて南詔を撃った。

天寶十三年[754]
◎. この頃、何復光/履光は嶺南経略使となったようである[十五載まで]。

天寶十五載/至德元年[756]
◎.7月 五府経略討撃使を嶺南節度使に昇格させ、廣.韶.循.潮.康.瀧.端.新.
封.春.勤.羅.潘.高.恩.雷.崖.瓊.振.儋.萬安.藤二十二州を領し、廣州を治所とした。
領州は多いが過半は蕃地である。

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嶺南節度使史 その1

2021-02-05 10:48:49 | Weblog

他業が忙しくなったためご無沙汰しています。連日は無理ですが、徐々にアップしていきます。

現在の広東省に設置された方鎭。当地はほぼ生産性の低い暑熱の蕃地であり、唐にとっては
市舶司を置いた廣州の南方貿易の利益以外は重要性のない所であった。所轄州の刺史の多く
も現地蕃族からの登用である。ただ嶺南道地域の統括拠点となり節度使は貿易の利益によっ
て膨大な利益が得られる職であったので官僚達の垂涎の的だった。

開元十年[722]
◎.8月 嶺南按察使裴伷先は安南賊帥梅叔鸞が反乱を起こしたと上奏、驃騎將軍兼内侍楊思
勖が討伐にむかった。思勖は残虐で知られた宦官であった。思勖は嶺南の群蠻を召募してた
ちまち鎮圧し、反者を虐殺し京観[死体を積み上げた塔]を築いた。伷先は責任を取らされ
たのか失脚し流された。

開元十六年[728]
◎.正月 春瀧等州獠首領瀧州刺史陳行範、廣州首領馮仁智/璘、何游魯などが叛して40城を陥し、
行範は皇帝を称した。また驃騎大將軍楊思勖が討伐に向かい、6万人を虐殺し頭皮を剥いだ。

開元二十一年[733]
嶺南五府経略討撃使を設置。廣州都督が兼任する。五府とは嶺南.邕管.容管.桂管.安南を監督する
こと意味する。

開元二十二年[734]
◎.12月 全国が十道に分割され、按察使を置いた。
太常卿廣州事嶺南經略使李朝隱が嶺南道採訪使となった。

開元十年以降の赴任者
裴伷先[10年]-李尙隠[?]-李朝隠[21年] 15年5月には光王琚が遙任された。

天寶元年[742]
◎.当時、嶺南五府經略は綏靜夷獠統をめざし、經略・清海の二軍、桂容邕交を管理し、治廣州、
兵は1萬五千四百人であった。
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