唐史話三眛

唐朝順宗・憲宗→宣宗→德宗時代の流れを、私見を付け加えて
記述していきます。ご異見があればよろしく。

陳少遊/陳少游伝

2019-03-31 09:46:51 | Weblog
有能な行政官であるが、權倖に贈賄して地位を築いた。晩年に方策を誤ったが処罰はされなかった。
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陳少遊/陳少游伝
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少游は博州博平の人。

祖儼は安西副都護。父慶は右武衛兵曹參軍。

少游は若くして聡明で学業優秀、老荘に通じて崇玄館學生で抜きん出ていた。

宰相陳希烈が推す所となり、渝州南平令。政績優秀。

至德中.河東節度王思禮の參謀となり、大理司直・監察御史・殿中侍御史等を帯して節度判官。

寶應元年.金部員外郎。

尋授侍御史迥紇糧料使となり、檢校職方員外郎を帯する。

僕固懷恩河北副元帥判官となり兵部郎中兼侍御史。

晉州刺史

同州刺史[不任]

また晉州刺史

鄭州刺史。

少游は行政に長け、財貨を集積し、權幸に進奉して昇進していった。

澤潞節度使李抱玉副使御史中丞陳鄭二州留後。

永泰二年.隴右行軍司馬檢校左庶子御史中丞。

大暦元年.桂州刺史桂管觀察使になるが遠隔地で暑熱であることを嫌い、宦官枢密使董秀に秀が驚愕するような莫大なワイロを申し出た。そして炎熱の地に赴任すれば再び会えないのではないかとほのめかし宣州刺史宣歙池都團練觀察使に変更させた。

大暦五年.越州刺史兼御史大夫浙東觀察使。

大暦八年.揚州大都督府長史淮南節度觀察使。

加銀青光祿大夫,封穎川縣開國子。

吏員をよく働かせ安定した業績を上げ、税収を増加させた。
また自家用の財寶も集積した。
宰相元載と結び、宦官駱奉先、劉清潭、吳承倩ともつながっていた。
元載が失脚するといち早く裏切り、代宗皇帝のお覚えも極めて良かった。

大暦十一年.汴宋李靈曜の自立を伐った。

德宗皇帝が即位し、檢校禮部尚書、兵部尚書を加えられた。

建中三年.淄青李納が自立すると、海密等州を攻めたが功はなかった。檢校左僕射,賜實封三百戶。

軍事費の増税の功績で加同平章事。

当時の宰相關播,盧杞とも結託し次々と栄誉を加えられた。

四年十月,少游は德宗皇帝が奉天へ遁走すると、度支汴東兩稅使包佶を脅して集積された賦稅を奪った。

淮西李希烈が汴州を陥し、江淮に侵攻しようとすると、少游は懼れて希烈に通じた。

その交通は壽州刺史張建封に阻止され、希烈は將杜少誠に命じて壽州を攻め、淮南を取ろうとしたが果たせなかった。

包佶が入朝と少游の非を訴えると、少游はあわてて財貨を集めて上納した。

宣武劉洽が汴州を回復すると,少游と希烈の交通が暴かれた。

興元元年十二月.少游は懼れて疾となり卒したる年六十一歳。贈太尉。
宦官達と深く結託していたためその罪は追及されなかったようである。
死後その將王韶は自立しようとしたが、浙江節度韓滉に威嚇されてできなかった。
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劉總伝

2019-03-30 09:00:42 | Weblog
朱滔の後、劉怦-濟-總 と三代続いた幽州軍閥。父兄を殺して継承したが懊悩し、ひたすら仏教に帰依して、唐朝に帰属した。劉氏は唐朝の將軍として継続した。

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劉總伝
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總は幽州節度使濟の第二子。

性は陰険で策謀を好む、瀛州刺史.行營都兵馬使として饒陽に屯していた。

元和五年は唐朝に協力して成德王承宗を伐っていたがはかばかしい成果はなかった。

七月.總は留守を預かる兄緄が自立して唐朝に承認を求めたと虚報を流し、濟に殺させた。
そして軍を混乱させ、懊悩している濟を毒殺して自立した。

九月.唐朝は実情を知らず、成德討伐の継続を期待して總の継承を認めた。起復受幽州長史充幽州盧龍軍節度使。

封楚國公

檢校司空を加える。

十一年.承宗が再び反し、總は武強を制圧し、樂壽を包囲するがそこで逗留し軍費を稼いだ。

十一/十月.敵を増やしたくない憲宗皇帝はやむをえず同平章事として優遇した。

淮西・淄青が平定され、成德が帰服すると、總は独り幽州のみが孤立した状況と、自分が父兄を殺した罪状に懊悩し、僧侶數百人に日夜祈禳させていた。
また不眠に悩みうなされることも多く、僧服を着てひたすら仏に頼った。

長慶元年二月.配下の譚忠復が幽州節度を唐朝に返すことを勧め。總もただ現状を逃れたい一心から、幽州を三分割して唐朝に帰属させることを請願して受入れられた。
これにより河北三鎭すべてが唐朝に帰属し全国統一が完成した。
しかし当時の穆宗皇帝は無能であり、宰相崔植、杜元穎は戦略のない財務官僚と文官であったため、ただ戦費の節減をねらうだけであった。
幽州の分割も瀛莫二州を分離するだけで、巨大な戦力を幽州に残し、文吏である元宰相張弘靖を赴任させ、しかも將士を慰撫する資金をけちった。

三月.總は檢校司徒兼侍中天平節度使に転じさせ、僧籍を与えて賜號大覺とした。
しかし總はすでに出家して鎭を棄てて脱出し定州/易州界で暴卒した。贈太尉。
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劉従諫伝

2019-03-29 20:34:10 | Weblog
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劉従諫伝
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劉悟の後を継ぎ昭義節度使を世襲した。専権を極める宦官勢力と対立し続けたが、卒後は宦官と李徳裕に滅ぼされた。

從諫は淄青節度使李師道を殺して帰朝した昭義軍節度使悟の子。

寶暦元年八月の悟の死後、十一月.將作監主簿より,起復雲麾將軍守金吾衛大將軍同正檢校左散騎常侍兼御史大夫充昭義節度副大使知節度觀察等留後となる。
本来昭義節度使は河北の諸鎭と違い世襲を認めた例はなかった。從諫は淄青以来の悟の親兵を率いて自立し、その禁を破った。宰相李絳は反対したが、李逢吉や宦官王守澄は収賄してこれを是認することにした。

二年三月/四月.金吾上將軍檢校工部尚書充昭義節度等使として正任になった。

文宗が即位して檢校司空に進んだ。

太和二年八月.成德王廷湊を臨城、昭慶に破った。

三年七月.義成節度使李聽が史憲誠の後任として魏博へ入ろうとしたが、大敗した時に派兵して救った。

父悟は苛酷であったが、従諫は寛厚で麾下の人望が厚かった。
また本来は忠誠であったが、六年十二月入朝し唐朝の政治が腐敗していることを知り専権を振るうようになった。

七年正月.同平章事を帯びる。

七月.宰相李徳裕は、河北三鎭との連携を断つため宣武節度使への移動を計画したが文宗皇帝は認めなかった。

九年十一月.文宗皇帝と李訓達が宦官勢力を除こうとして返って敗れ、宦官達は宰相王涯[李訓とは共謀していなかった]等四人を殺害し、専横を極めた。文宗皇帝は圧迫され、文官宰相鄭覃や李石はいかんともできなかった。

從諫は王涯と結託していたため納得できず、開成元年二月.使いを送り涯の罪名を問い、兵を率いて入朝すると脅した。専権していた宦官王守澄・仇士良は懼れて宰相に遠慮するようになった。
検校司徒を与えられて慰撫された。

開成四年八月.文宗皇帝の母蕭太后の弟を宦官達がでっちあげていたことも糾弾した。
宦官達は憤慨したが從諫の正論と武力を懼れて事をごまかすしかなかった。

會昌二年.回鶻を伐つため出兵を請うたが宦官達は阻止した。

従諫は宦官仇士良が武宗皇帝に寵遇され、結託した宰相李徳裕が勢力を強めることを憂いていたが、
會昌三年四月に卒した。四十一歳。贈太傅。

從諫は宦官と対立し、王涯親族など亡命者を匿い、法を無視して唐朝の専売していた鐵・鹽を私販していた。しかしその存命中は宦官達は咎めることができなかった。

從諫の死後、甥稹が継ごうとしたが、宦官勢力は李徳裕と結びこれを滅ぼした。
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裴均伝

2019-03-28 14:37:20 | Weblog
文官であるが兵事にも通じ、宦官と結託して高官となった。

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裴均伝
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均は字君齊。宰相光庭の曾孫、度支郎中倩の子。

明經に合格。

諸暨尉から各鎭の幕僚を経て才覚を認められる。

壽州刺史張建封のもとで團練判官、淮西李希烈の侵攻を防ぐに功績があり、上柱國,襲正平縣男。

累膳部郎中

荊南節度行軍司馬。

貞元十九年五月.前任の節度使裴冑の死後、江陵尹.御史大夫.節度使に昇進。

西川劉闢の叛に黔中・荊南を堅守して、檢校吏部尚書を加。

宦官竇文場に通じて德宗皇帝に気に入られる。

宰相に擬せられるが諌官の阻止に逢い、元和三年四月.尚書右/左僕射判度支。
倨傲のため官界の評判は極めて悪かった。

すぐ九月.檢校左僕射同平章事山南東道節度使に出される。封郇國公。

四年.銀器一千五百兩を進奉して諌官が弾劾。

宦官等權幸と通じ、専権収斂に励んだ。

六年五月.卒,年六十二,贈司空。
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張獻誠伝

2019-03-27 11:00:17 | Weblog
史朝義から比較的早期に帰服し、割拠せず要地を返還した。

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張獻誠伝
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獻誠は陝州平陸人。

奚・契丹征討に大功のあった幽州節度使守珪の子。

父が貶されて以降、幽州節度に仕えて将[左淸道卒.檀州刺史]となる。
節度使安禄山にとっては恩人の子にあたるので厚遇された。

天寶十四年,安祿山が反すると麾下の獻誠も従った。
十一月.攝博陵太守。

その後史思明にも仕えて乾元二年.汴州[僞兵部侍郎.汴州節度使]を守った。

寶應元年十月.史朝義が東都で敗北し汴州に来るが、獻誠は入れず、州をもって唐朝についた。
唐朝は喜び特進試太常卿.汴州刺史防禦等使.南陽郡公/汴州節度使

その後、左威衛大将軍.寶應軍左廂兵馬使.鄧国公を帯びた。

來朝して、漕運の要地である汴州を唐朝に返し、開府儀同三司梁州刺史充山南西道觀察使に移された。

廣德二年十月/十一月.京師の南の山岳に據していた南山賊帥高玉を捕らえた。

永泰元年正月.檢校工部尚書。

永泰二年正月/二月.劍南東川節度觀察使を兼ねて封鄧國公。
三月.西川崔旰[寧]が節度使郭英乂を殺し反したのでこれを伐ったが、梓州で大敗した。

大暦三年四月.獻誠は疾を以って、堂弟試太常卿兼右羽林將軍獻恭に山西節度使を譲り引退した。
檢校戶部尚書知省事。

八月/九月,疾をもって致仕を請願、まもなく卒した。年四十六歳。

寬裕で機略があったとされる。成り行きから安史賊に属したが、唐朝への叛意は少なかったようだ。
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白孝德伝

2019-03-26 11:47:00 | Weblog
安西胡出身の將軍。將才は不明だが勇猛果敢だった。

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白孝德伝
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孝德は安西胡人。

驍悍で膽力があり、乾元中.李光弼裨将。

二年十月.史思明が河陽に拠る光弼を攻め、驍將劉龍仙をして挑戰させた時に
これを倒して有名になった。

その後、戰功を重ねた。

元年.建卯月.河中で軍乱が起き都統李國貞や北庭行營節度使荔非元禮が殺された、孝德は乱兵に推されて北庭行營節度使になった。

廣徳元年十月.吐蕃が京師を陥した時、鄜坊節度使として郭子儀に従い京師回復に従事した。

廣徳二年.檢校刑部尚書邠寧節度使。

永泰初.僕固懷恩が回鶻・吐蕃を率いて来寇したとき、郭子儀に従い渾瑊と共に破った。
功により昌化郡王。

その後も連年の吐蕃来寇より邠州を守った。

大暦元年.検校刑部尚書に遷る。

十四年九月.太子少傅に至る。

建中元年.卒する,年六十六,贈太子太保。
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李惟簡伝

2019-03-25 13:57:30 | Weblog
成德李惟岳の乱の巻き添えにより苦難の道、朱泚の乱により復活という波乱の
人生を歩んだ。

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李惟簡伝
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惟簡は成徳節度使寶臣の第三子。

建中二年.王武俊が自立した寶臣の子惟岳を誅した時、惟簡も捕らえて京師に送った。
[自ら京師へ奔ったという説もある]

客省に獄されていたが、

建中四年十月.朱泚が京師で反乱したとき、惟簡は德宗皇帝のいる奉天へ奔った。

德宗皇帝は喜び、禁軍將として渾瑊に従わせた。

軍功があり,遷太子諭德,加御史中丞。

山西への幸に従い,「元從功臣」號を得て,封武安郡王。圖形淩煙閣,賜鐵券。

後授左神威大將軍,加御史大夫。

轉検校工部尚書天威統軍、検校刑部尚書へ。

元和初,檢校戶部尚書左金吾衛大將軍充街使
長史萬國俊が軍權をもってした横暴を抑えた。

元和六年五月.検校戸部尚書鳳翔尹鳳翔隴右節度使。
吐蕃と常に面して荒廃していた隴州の田數十萬畝を増やし、商人の交通を振興した。

十三年正月/五月.卒,年五十五。贈尚書右/左僕射。
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王国良/王惟新伝

2019-03-24 08:50:54 | Weblog
湖南の蠻族[豪族]から方鎭の將となった。地域に根付いているので
富裕で勢力がある。

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王国良/王惟新伝
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新旧唐書に伝はない。

國良は本は湖南邵州の豪族出身、牙將となる。

大暦五年.觀察使辛京杲は武岡を守らせ、西原蠻の侵攻を防がせた。
しかし京杲は國良家の財産を狙い、これを陥れ死罪にして没収しようとした。

國良は懼れて諸族を誘い、西原蠻と連合して反し、湖南黔中桂管を荒らし回った。

荊、黔、洪、桂諸道兵はこれを討ったが勝てなかった。

大暦十四年十二月.都官員外郎關播が招撫を命ぜられたが中止になった。

建中元年七月.嗣曹王皋が湖南觀察使となり、その冤罪を認め慰撫した。
そして単騎その城塞を訪問して兄弟を約した。國良は喜び帰服した。

德宗皇帝は赦し、惟新と賜名した。以降不明である。
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楊子琳/楊猷伝

2019-03-23 10:27:31 | Weblog
体制には入りきれなかった驍将、実力は相当あったようだ。

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楊子琳/楊猷伝
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新旧唐書に伝はない。

永泰元年十一月.赴任してきた剣南節度使郭英乂が、地元の将崔寧に敗北し殺された時、
瀘州牙將として蜂起し、寧と戦った。

二年八月.副元帥として乱を治めに来た宰相杜鴻漸は、寧等を討伐する力は無く、寧や子琳を慰撫して
表面を糊塗した。子琳は瀘州刺史となった。

大暦三年四月.西川節度使崔寧が入京している留守をついて、子琳は成都に突入し陥した。

留守崔寬は子琳と戦うが勝てなかった。
七月寧の妾任氏が兵を率いて子琳を破った。

四年二月瀘州に拠った子琳は揚子江を下り、涪州守捉使王守仙を破り、夔州別駕張忠を殺し夔州を取った。荊南節度使衛伯玉はこれを配下にしようとした。
客の劉昌裔は唐朝に帰順を薦めた。代宗皇帝は子琳を峽州團練使とした。

大暦五年四月.湖南兵馬使臧玠が觀察使崔灌を殺し、澧州刺史子琳は討つが、賄賂を取って帰還した。

六年四月.入朝し.賜名猷.

九年正月.澧朗鎮遏使.勝手に澧州より揚子江を下り鄂州に至った。
入朝命令を受けてまた遡上し復州、郢州を脅かした。
山南東道節度使梁崇義はあわてて防衛にあたった。

三月.洮州刺史隴右節度兵馬使に任ぜられ、対吐蕃防衛にあたることになった。

五月.入朝した。以降は不明である。
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郭釗伝

2019-03-22 09:49:21 | Weblog
元老郭子儀の孫、外戚として無能ながらも優遇された。恭謙であった。

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郭釗伝
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元老郭子儀の子曖と昇平公主の子。代宗には外孫になる。

釗は長身で風采がよく寡言であった。

蔭位により太常寺奉禮郎。

德宗では太子右庶子に至る。

元和初,左金吾衛大將軍充左街使。

九年十一月.檢校工部尚書兼邠州刺史充邠寧節度使。

檢校戶部尚書司農卿。

釗は勢家の出身であるためかえって恭謙であり評判がよかった。

憲宗皇帝の皇后は釗の姉であり皇太子[穆宗]はその子であった。
だが憲宗皇帝はその能力に疑問を持ち[実際に無能であった]、廃位も考えていた。
ところが十五年正月,憲宗皇帝が道教の神丹中毒から病となり、
寵臣である宦官吐突承璀は澧王惲を皇太子に押し立てようとした。
皇太子=穆宗は甚だ心配して釗に相談した。
そこでは釗はなにもするなと助言したことになっている。
しかし憲宗皇帝が宦官に殺された背景には郭氏の蠢動はあったかもしれない[宣宗皇帝はそう思っていたようだ]。

十五年.穆宗皇帝が即位し,姉が皇太后になり外戚となった。
釗は刑部尚書兼兼司農卿。

長慶元年正月.出て檢校戶部尚書充河陽三城懷節度使。

二年九月.河中尹河中晉絳慈隰節度使に移る。

四年七月.兵部尚書となった。

穆宗皇帝が卒した時、敬宗皇帝が幼い[実際は知能が低い]ので宦官達は郭太后の称制を求めたが、
釗は則天武后の先例を懼れて認めなかった。

敬宗皇帝が即位しても外祖父。
兵部尚書兼檢校尚書左僕射。

寶暦元年三月.梓州刺史劍南東川節度使。

文宗皇帝時も外祖父。検校司空を加えられる。

大和三年十一月.雲南王が西川節度使杜元潁の失政により入寇した。
蠻軍は成都外城を陥し危機に瀕した。十二月.唐朝は釗に西川節度を兼任させた。
蠻軍は東川にも侵攻したが、東川軍は虚弱で援軍もまだ到着せず、
釗はひたすら雲南王に講和を求めた。
雲南王もとことん唐と争うつもりはなく釗の要請により撤退した。

正式に成都尹劍南西川節度使に遷り、雲南王と講和した。

まもなく疾を持って辭し、李德裕に代わり、四年十月.檢校司徒太常卿に任ぜられた。

十二月.帰還中に卒した,詔贈司徒。

なんらの才幹はないが、外戚として恭謙で高位を全うした。
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侯希逸伝

2019-03-21 11:03:15 | Weblog
安禄山が率いる范陽[幽州]節度と平盧軍節度は対奚・契丹防衛
のために一体であった[安禄山も前任は平盧節度使]が、その反
乱に際しては立場が別れることになった。希逸は政治性はなく単
なる武人として唐朝に忠誠であった。

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侯希逸伝
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希逸は平盧の人。

長身で武芸があり營州平盧軍[遼東半島]に入り将として保定城を守備していた。

天寶十四年.幽州安祿山が反し、その腹心徐歸道を平盧節度使にした。

至徳二年.希逸は安東都護王玄志と共に歸道を誅した。
唐朝は喜び玄志を平盧節度使とした。

田神功や董泰[李忠臣]を山東に派遣して安禄山軍と戦わせた。

乾元元年十二月.玄志は病卒し、李懷玉を主とした牙軍は希逸を平盧軍使に擁立し、
唐朝は節度使.御史大夫として擁立を始めて認めた。

平盧は安禄山勢力圏に包囲されて孤立し。
ただ渤海を渡って山東半島と連絡できるだけのみで、
禄山に使嗾された奚や契丹の襲撃を受ける苦しい状況であった。
希逸は將士を激励して賊将向潤客、李懷仙等と戦った。

上元二年五月.史朝義の范陽兵,破之。

しかし孤立無援の状況は好転せず、元年建丑月二万の軍属を率いて平盧を脱出して渤海を渡り
建丙月.青州に達した。そこで先発の田神功や能元皓と合同し、兗州や青州に拠点を置いた。

寶應元年五月.唐朝は希逸を淄青六州平盧軍節度使とした。以降淄青節度は平盧軍名を帯びる。

希逸は淄青に入った当初には兵備を整え、隨軍しているその家族の生活再建のために努力した。

寶應二年.諸軍とともに史朝義を平定し,加檢校工部尚書,賜實封,圖形凌煙閣。

乱後、希逸は気が緩み游畋を好み、塔寺を造営するなど政治が乱れた。

そのため人望は兵馬使李懷玉[高麗人.賜名後正己]に集まった。

永泰元年五月/七月.希逸は懷玉を罷免したが、かえって逐われて京師へ逃亡した。
唐朝はその功績を評価して檢校尚書右僕射、のちに知省事として遇した。

大暦末.淮陽郡王。

建中二年七月.病中の希逸は司空に任じられたがその日に卒した。年六十二。贈太保。
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阿跌/李光進伝

2019-03-20 21:27:51 | Weblog
光進・光顔兄弟は河東節度に属する蕃將であり元和年間に活躍した。
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阿跌/李光進伝
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光進は河曲落稽阿跌部の出身で、姓は阿跌氏。父良臣は襲雞田州刺史。

忠武軍節度.守司徒光顔の兄。

祖先は貞觀中に唐に內屬し羇縻州の雞田州を置き、世襲刺史となり朔方軍に隷属していた。

光進と弟光顏は舍利葛旃[姉がその妻]配下となり、葛旃が僕固瑒[懷恩の子]を殺し、
河東節度辛雲京[懷恩の宿敵]に帰した時に従って太原へ移った。

沈着果断で、節度使馬燧に従い、臨洺を救い、洹水で勝利した。

牙將から代州刺史兼御史大夫となった。

元和四年.成德王承宗が反し、河東節度使范希朝は光進を都將/步都虞候として義武軍を支援し
木刀溝の戦いで功績があった。
弟光顔も御史大夫を帯し、「大小大夫」と称された。

五年十月.銀青光祿大夫檢校工部尚書充單于大都護振武麟勝節度支度営田観察押蕃落等使となり、賜姓され、
弟光顏も洺州刺史充本州團練使となった。

八年七月.靈州大都督府長史朔方靈武節度使に移った。

十年七月.卒した、年六十五,贈尚書左僕射。

兄弟仲は良く、親にも孝行であった。
旧唐書列伝では、光弼系と阿跌系の光進を混同している。
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崔光遠伝

2019-03-19 09:05:31 | Weblog
楊國忠の残党であり、軍才はないがうまく立ち回って出世、しかし最後は悪かった。

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崔光遠伝
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光遠は滑州靈昌人。本は博陵の豪族。

祖敬嗣は賭博飲酒を好み、則天初に房州刺史として、中宗が廬陵王に左遷されている時に厚遇し感謝されたが、同名他人に間違われ出世しなかった。

死後に誤りに気づいた中宗は、子の汪に五品、洛州司功を与えたが深酒が元で早卒した。

光遠は汪の子、學術はないが任侠の気があり長身で風采が良かった。
州縣の吏を経て、開元末には蜀州唐安令となり、楊國忠と交遊した。
國忠とともに累遷して左贊善大夫となった。

天寶十一載.國忠派の京兆尹鮮于仲通が推薦し長安令となった。

十四載.京兆少尹に昇進。

吐蕃に吊祭使として派遣された。

十五載五月.派遣から帰還してすぐ、安禄山軍が潼關を突破し、玄宗皇帝は蜀へ逃亡することになった。
國忠は光遠を京兆尹兼御史中丞充西京留守采訪使に押しつけ逃亡した。
その後京師では掠奪放火が横行し、光遠は宦官邊令誠となんとかこれを鎮めた。

安禄山に歸附して赦されてその京兆尹に任命された。

八月.蕃族の同羅が祿山に背いて逃亡し京師は大混乱した。
それに乗じて光遠は長安令蘇震とともに肅宗皇帝のいる靈武に奔った。
肅宗は喜んで御史大夫兼京兆尹.持節京畿采訪計會招召宣慰處置等使として僑治させた。

至德二年閏八月.駱谷に安禄山軍を破った。

十二月.還京に際して功により特進行禮部尚書.封鄴國公食實封三百戶。

乾元元年.兼御史大夫。

五月.河南節度使。

八月.張鎬に代わって汴州刺史兼本州防御使。

十二月.歸降した蕭華に代わって魏州刺史充魏州節度使。
しかし史思明が反して来寇し、魏州を守れず敗走。
唐朝軍総崩れなので処罰されず太子少保になる。

二年八月.襄州將士康楚元、張嘉延が反し荊、襄、澧、朗等州を陥した。
光遠太子少保兼御史大夫持節荊襄招討充山南東道處置兵馬都使としてこれを伐つことになるが、商州刺史韋倫が先に平定した。

三年.鳳翔尹充本府及秦隴觀察使。
賊郭愔等為土賊ほ招撫するが、光遠は博打にかまけて真面目に統治をしなかった。

上元元年.愔等は羌、渾、黨項と通じて韋倫を破り秦隴を荒らした。
六月.光遠はこれを普潤に破った。

二年四月.劍南東川節度兵馬使段子璋が反して節度使李奐を逐い、光遠は兼成都尹充劍南節度營田觀察處置使兼御史大夫としてこれを伐った。

討伐は成功したが、將士は掠奪を重ね、婦女を害するなど亂殺數千人に及んだ。
さすがの肅宗皇帝も罪に問い、光遠は懼れて疾になり,上元二年十月.卒した。
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李光進伝

2019-03-18 08:53:02 | Weblog
兄光弼の京師での代理であったため、さしたる軍功もないのに優遇された。
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李光進伝
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光進[字太應]は契丹酋長の族。

父は楷洛、兄は副元帥光弼。

至徳元年.房琯の將となり安禄山軍に敗北。しかし兄の関係で慰撫。

至徳二年十二月.代州刺史.開府より范陽郡公。

左驍衛将軍.鴻臚卿員外同正.

代宗皇帝が即位、檢校太子太保.御史大夫,涼國公となった。

吐蕃の入寇に際しては副元帥郭子儀の補佐となった。

廣徳中.その後宦官李輔國の配下で禁兵を掌る。

永泰元年.渭北邠寧節度使。

進封武威郡王。

大暦四年六月.檢校戶部尚書知省事。未幾檢校刑部尚書兼太子太保となった

十月卒。

前半は兄の代理[人質]として、後半は宦官禁兵の指揮者であった。
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朱滔伝

2019-03-17 09:32:49 | Weblog
兄に従い唐朝方であったが、華北統一の野望を抱き反したが挫折した。

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朱滔伝
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滔は泚の弟。

大暦三年六月.平州刺史朱希彩が節度使李懷仙を殺して自立したとき、泚とともに活躍、
同姓ともあって信任されて牙軍を統率する。

七年七月.希彩が専横により殺された時、兄泚を擁立して節度使にならせた。

泚は親唐朝政策をとり、対吐蕃防衛[防秋という]に始めて協力し、滔に兵五千を付けて入朝させた、時に二十八歳であった。

九年.泚は入朝し自ら防秋にあたることを乞うた。
代宗皇帝は喜び滔を試殿中監,權知幽州盧龍節度留後兼御史大夫として留守を守らせた。

十年.田承嗣が反し,滔は河東薛兼訓,淄青正己、淮西李忠臣、成德李寶臣とともに承嗣を伐った。

建中二年.成德李寶臣が卒し、子惟岳が自立すると、滔は成德軍節度張孝忠を援助して、惟岳を束鹿に破り深州を囲んだ。

三年二月.惟岳が誅され、滔は功により檢校司徒幽州盧龍軍節度使に正任された。

そして遠隔地の德棣二州を与えられたが、深州を求めていた滔は極めて不満であった。通義郡王,實戶三百。

同じく待遇に不満の恒冀觀察使王武俊が、反していた魏博田悦につくと、
四月.滔も同調し反した。

滔は京師にいる兄泚に密使を送った。泚は同ぜず、德宗皇帝も慰撫して鳳翔節度使を解任し、幽州節度使に復すするだけで収めた。

六月.滔は窮状に陥っていた悅を支援し。武俊・悅とともに連愜山に、唐朝軍を大破した。

十月.滔は冀王を僭稱し百官を置き、李納、田悅、王武俊とともに王となり、淮西李希烈と連合した。

四年五月.神策李晟軍を清苑に破った。

十一月.泚が京師で反して即位し、德宗皇帝は奉天に逃れると、滔は皇太弟と称して勢威を高めた。

十二月.滔は回紇を含め全軍をあげて南下し、淮西李希烈と呼応して東都を狙った。

ところが、興元元年正月.德宗皇帝が自省し、皇帝と称した泚を除く諸鎭に大赦令を出すと、
疲弊した魏博田悅、滔の併呑を懼れる王武俊、自立を確保した李納は王位を捨てて歸順した。
滔は悦の背信を怒って貝州を囲み、三月魏州に迫った。

五月.来援した王武俊は唐朝の昭義李抱真、河東馬燧と共に涇城に滔を大破し潰滅させた。
滔は敗走して幽州に戻った。

六月.泚は誅され。滔は幽州節度使を兼任した武俊に攻撃され、謝罪する立場になった。

九月.唐朝にはこれを伐つ余力はなく、魏博・成德共に併立を望んだため、赦された。

貞元元年六月.失意のうちに卒した。時年四十二,贈司徒。
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