唐史話三眛

唐朝順宗・憲宗→宣宗→德宗時代の流れを、私見を付け加えて
記述していきます。ご異見があればよろしく。

唐朝の皇太子 その14 順宗

2018-04-25 22:12:54 | Weblog
德宗は即位後すぐ長子の宣王誦を皇太子としました。寬仁で学問に励み、書を良くする真面目な人物でしたが。貞元三年には狷介固陋な德宗から妃の母である郜國公主の非行に坐して廃されそうになりました。そこは宰相李泌の強諫により救われましたが。その後は姑息な德宗の政治には批判的でしたがひたすら隠忍を重ねました。貞元末には少壮官僚や王叔文・王伾達が彼に期待して周囲に集まり、二十一年に德宗が重病となると、太子即位を期待しました。しかし太子も又重病であり、なんとか即位はして新政を開始しましたが、数月で子の憲宗に譲るしかありませんでした。そしてまもなく卒しました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

唐朝の皇太子 その13 德宗

2018-04-25 14:49:36 | Weblog
德宗李适は代宗の長子で、奉節郡王から天下兵馬元帥、魯王・雍王となりそのまますんなり皇太子となったわけですが、結構苦労しています。まず母親の沈氏は安禄山の乱で賊に捕らわれ、安慶緒の敗走後は一時解放され、史思明の乱で再び賊の手に落ちて行方不明になっています。元帥として史朝義の征討にあたりましたが、援軍の回紇可汗に屈辱を与えられ、配下達がむち打たれるのをみているしかありませんでした。乱後も吐蕃の来寇で逃亡したり。糧食の不足で兵士達の反乱を懼れたりという状況でした。父代宗は藩鎭の横暴にひたすら耐えて国力の回復につとめましたが、若い适はその下で雌伏して自分の時代をまっていたわけです。彼は性格的には偏狭で好き嫌いが激しく、粗野や直言を嫌う、ある意味暴君でしたが、無知な暗君ではなくわかる時は判るという人物です。大暦14年に代宗が崩ずると即位し、新政を始めましたが、やがて唐の存亡に関わる奉天の役を引き起こしてしまいました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

唐宰相在任表[前期]をアップしました

2018-04-20 09:17:32 | Weblog
唐宰相データにおいて
・在任期間の確認
・宰相交代の相関関係
・官職交代関係 中書令や侍中等の異動
がなかなかわかりにくいため。Excelの表で作ってみました。
最初は年単位で作りましたが、交代の相関関係[誰が解任され、その代わりに誰が補任されたか]とがわかりにくいため、月単位にしました。そのためかなり大きな表になりました。でもExcelですから表示範囲制限などをすると使い物になるはずです。
あまりに大きくなるので、高祖~玄宗までの前期と、肅宗~廃帝までの後期に分けます。当然数年間は重複します。
基本は新唐書宰相表です。

唐史資料集
唐宰相在任表[前期]をアップしています。
[後期]はかなり新紀と旧紀ではかなり差異があり混乱していますので
よく整理して来月になります。
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする