唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

上元二年  西暦761年

2020-06-12 10:01:40 | Weblog
上元二年  西暦761年
------------------------------
正月乙卯,劉展伏誅。
淮南掠奪の希望に燃えた田神功軍は急速に南下し、分散してしまった展軍を撃破します。ついでに徹底した掠奪も敢行します。現地では文官達[誰も責任をとりません]が逃げた後、牙將李蔵用だけが劣勢の中奮闘していました[後に文官に陥れられて死にます]。

二月己未,奴剌、黨項羌寇寶雞,焚大散關,寇鳳州,刺史蕭栧*死之,鳳翔尹李鼎敗之。
京師付近は蕃族の狩り場となっています。

二月戊寅,李光弼及史思明戰於北邙,敗績。思明陷河陽。
唐朝は反対する光弼に東都回復を命じますが敗北し、史思明は河北を統一しました。

三月甲午,史朝義寇陝州,神策軍節度使衛伯玉敗之。戊戌,史朝義殺其父思明。
朝義即皇帝位,改元顯聖。
勢いに乗った思明は子朝義に命じて陝州を攻撃し、京師突入を図りますが態勢を整えていた唐朝軍に撃破されます。神策軍は宦官魚朝恩が編成した軍です。朝義[思明の長子で人望がありますが、思明からは嫌われています]は責任を問われて殺されることを怖れ、先制して思明を殺し、即位します。

しかし旧將達は安禄山の弟分であった史思明には従ってきましたが、朝義にはなんの恩義も無く、自分の立場を考えて唐朝への歸順を検討し始めました。

三月、李光弼罷副元帥。
敗戦ですから一応責任はとります。しかし唐朝の指示に問題があったわけですぐ復帰します。

四月乙亥,青密節度使尚衡及史朝義戰,敗之。丁丑,兗鄆節度使能元皓又敗之。
山東で史朝義軍は連敗し敗勢が強くなります。

四月壬午,劍南東川節度兵馬使段子璋反,陷綿州,遂州刺史嗣虢王巨死之,節度使李奐奔于成都。
五月、劍南節度使崔光遠克東川,段子璋伏誅。
玄宗が成都在住中に甘やかしていた子璋が交代させられ反します。討伐は容易でしたが、光遠軍の規律が極めて悪く劍南を荒廃させました。

五月甲午,史朝義將令狐彰以滑州降。
ついに朝義軍より大物の降者が現れました。

八月辛巳,殿中監李國貞都統朔方鎮西北庭興平陳鄭河中節度使。
肅宗は失敗に反省せず、文官國貞を都統として、光弼とともに朝義追討に向かわせました。

九月壬寅,大赦,去「乾元大聖光天文武孝感」號,去「上元」號,稱元年,以十一月為歲首,月以鬥所建辰為名。
祭祀好きの肅宗がまた無意味な制度変更を始めました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする