夜明けの曳航

銀行総合職一期生、外交官配偶者等を経て大学の法学教員(ニューヨーク州弁護士でもある)に。古都の暮らしをエンジョイ中。

Our Trust in Rule of Law

2005年07月11日 | 旅行
事件の翌日、女王と皇太子夫妻が別々に負傷者が収容されている病院を慰問し、フットワークの良さに感心した。

女王がその際のスピーチの中で、テロに屈せず、今までどおりの生活をし、我々の価値を損なわせないことが重要と言ったとき、この言葉が出てきたのに、感動。こういう言葉が王室メンバーからさらっと出てくるところが、さすが、マグナ・カルタの国だわ。(そもそもは王の専横から人権を守るためのものだったのに)

今まで通りの生活をすることこそ、テロを克服する方法、ということが強調されているので、昨日の日曜日予定されていた終戦60周年式典も予定通り行われ、王室全員が出席する式典を見ようと集まった人々で、バッキンガム宮殿前の広場は埋め尽くされた。

マグナ・カルタといえば、実物を大英図書館で見た。
昔大英博物館にあった文書類は今こちらに来ている。

シェークスピアのロンドンの家の抵当権設定証書Blackfriars Mortgage Deed(1613.3.11)もあって、ちょうど不動産登記所を見学した後だったので感激。
“William Shakespeare,(住所), mortgages to Henry Walker,(住所), for £60 a house that he had brought from Walker on the previous day for £140. This secured the balance of the purchase money for the property which stood by the great gate of the former Dominica priory of Blackfriars between Ludgates and the present Blackfriars Bridge”

この図書館には他にも、英国の作家の直筆原稿とか、ビートルズの自筆作詞原稿とか、最古の新約・旧約セットの聖書とか、お宝がたくさんあるのだが、私が思わず落涙したのは、南極探検でアムンゼンに敗れ、かつそこで命を落としたスコット隊長の最後の日記だ。そばにいた見知らぬ男性が「見てご覧、スコット隊長の遺書だよ。すごく感動的だね」と話しかけてきた(英語の発音からして英国人だろうが、英国人は米国人と違ってあまり知らない人に話しかけたりしないんだが)。
最後の言葉は、”For god’s sake, look after our people”(Picture shown)

それから、アンデルセンの生誕200周年ということで、特別展示をやっていた。
私もアンデルセンの童話に親しんで育ったが、結末が悲惨なものばかりなのが不思議だった(無理やりハッピーエンドにするディズニーはすごい!さすがハリウッド![もちろん皮肉]アメリカに留学して初めバークレーの語学学校に入ったとき(ロースクールの前に語学1ヶ月、プレロースクールを、ジョージタウン大学で1ヶ月やった)、Little Mermaidが教材だったので、途中ですでに私や他の日本人が泣いてしまい、教師に不思議がられ、「だって、結末を知っているから」といったら、彼に「ハッピーエンドに決まってるでしょ。だってアメリカ映画だよ」とといわれた)。

しかし、彼の生涯をつぶさに知って理解できた。
デンマークの地方オデンスで貧しい靴職人の息子として生まれ、11歳で父親を亡くし、貧困の中で
“the difficulties, indignities and sense of exclusion that made up Andersen’s childhood underlay every word he wrote: his sympathy for the outsiders, his identification, with the child or an animal such as the duckling or the nightingale, ignored or unheeded above the crows and babble; his vision of life as a solitary
struggle often ending in tragedy.”(“Hans Christian Andersen” Jackie Wullschlagerより。以下、引用は同様)
という人生観を培った。

後にJonas Collinという後援者を得て17歳になってから11歳の同級生に混じって学校に通い始めるが、勉強は苦手で、作家になってからもデンマーク語のスペルも正確にできず(彼と英国で二回会い、二度目は彼を同居させて苦い経験をしたディケンズも、「英語どころか、デンマーク語もちゃんと話せるかどうか怪しい」と述懐している)、校正者が直していたそうだし、後日地図上でコペンハーゲンの位置を正確に示せなかったそうだ。

社会から疎外され、見下されてきたアンデルセンが、作家として比類ない名声を手に入れったことは、「醜いアヒルの子」という作品にもっとも如実に投影されている。

しかし、その名声も彼を癒すことはなく、
“Admiration and fame became a drug for Andersen, who never fully overcame his bitterness at his early hardship, and remained still lonely in spite of his acclaim, nervous in temperament, gawky in appearance, sexually uncertain; he wavered between crushes on men and women, never developing a full relationship with anyone.”

病的なほど疑い深く用心深く、火事になったときにホテルの部屋から逃げ出せるようにといつも9mのロープを旅行中持ち歩いていたそうだ(それも展示してあった)。

アンデルセンは、それまで「年若い大人」としか認識されていなかった子供の「発見」と時代を同じくしたためにもてはやされたという面もあるが、彼のこうした内面が生む暗い物語が、子供に世界に立ち向かう心の準備をさせるからこそ、こうして長く読み継がれているのだと思う。
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