「どんな人間でも一生に一つはそれなりの作品が書けるものだ」とはよく聞く言葉である。すなわち誰にも「自伝」なら書けるはずだという指摘である。
私も定年退職を目前にしたころ、自伝である「自分史」というものを書いてみた。言ってみれば自らの人生60年間の総括であり、懺悔の気持ちからでもあった。書き終わって、1度通して読んだだけで、その後改めて読み直したことはないまま今日にいたっている。
先日、諸井薫が書いた本を読んでいると、自分史を書く上での戒めが5項目書いてあった。その中で、強く共感出来たものは次の2項目である。
1.他人に読まれることを考えないこと。確かに他人に読ませるために書くが、これを意識しすぎると、きれい事を目指すことになる。裸になること。
2. 生々しい憎悪や恨みが揮発風化して、それさえも記憶という風景の中の起伏要素にまで昇華しきっていること。往時の敵が今なお敵であるというのは、懺悔に至っていない証拠である。
私が書いた自分史は、他人に読んでもらうことを前提にして書いてはいない。2人の息子がいつの日にか読んでくれて「おやじは、こんな人生だったのだな」と思い、「だからああだったのか、こうだったのか」と、私を理解してくれればいいと言うだけのものである。
さて、2項目目についてである。書いた当時、そんなにひどい生々しい憎悪や恨みがあったわけではないが、長くサラリーマン生活をしておれば、その間若干のことは確かにあった。自分史の中には、そんなことはどこにも書いてはいない。
そんなことを書いてみたところで、そのあたりの機微を正確に表現できるわけはなく、すでに過ぎ去ったことを恨みがましく書く気にもならない。所詮、こんな類の話は自分の心の中にそっと封じ込めておくしかないと思っている。
しかし、今もなお当時のことを思い出すと、心が穏やかでなくなるのは、懺悔に至っていない証拠であると反省はしているが、正直、まだ揮発風化させきっていない私である。
私も定年退職を目前にしたころ、自伝である「自分史」というものを書いてみた。言ってみれば自らの人生60年間の総括であり、懺悔の気持ちからでもあった。書き終わって、1度通して読んだだけで、その後改めて読み直したことはないまま今日にいたっている。
先日、諸井薫が書いた本を読んでいると、自分史を書く上での戒めが5項目書いてあった。その中で、強く共感出来たものは次の2項目である。
1.他人に読まれることを考えないこと。確かに他人に読ませるために書くが、これを意識しすぎると、きれい事を目指すことになる。裸になること。
2. 生々しい憎悪や恨みが揮発風化して、それさえも記憶という風景の中の起伏要素にまで昇華しきっていること。往時の敵が今なお敵であるというのは、懺悔に至っていない証拠である。
私が書いた自分史は、他人に読んでもらうことを前提にして書いてはいない。2人の息子がいつの日にか読んでくれて「おやじは、こんな人生だったのだな」と思い、「だからああだったのか、こうだったのか」と、私を理解してくれればいいと言うだけのものである。
さて、2項目目についてである。書いた当時、そんなにひどい生々しい憎悪や恨みがあったわけではないが、長くサラリーマン生活をしておれば、その間若干のことは確かにあった。自分史の中には、そんなことはどこにも書いてはいない。
そんなことを書いてみたところで、そのあたりの機微を正確に表現できるわけはなく、すでに過ぎ去ったことを恨みがましく書く気にもならない。所詮、こんな類の話は自分の心の中にそっと封じ込めておくしかないと思っている。
しかし、今もなお当時のことを思い出すと、心が穏やかでなくなるのは、懺悔に至っていない証拠であると反省はしているが、正直、まだ揮発風化させきっていない私である。
まさにその通りですね。
ブログに書くことができるのは
「よき思い出」になったものばかり。
書きたいと思っていることでも
まだ拘りがあるうちは書けないものです。
我が家のハチャメチャな暮らしがお恥ずかしいですが、
長男が一人暮らしを始めて
ちょっとネタが少なくなった気がします。
Oさんの優しさは、もまれて身についたものだと思います。
同じタイトルで日経に掲載されていた(今購読していない)内容もそうだった、かなと思い返しています。
自分史。書き残してみたい気持ちと、赤裸々には書けないだろうな・・・となると作文になってしまうのか・・・。
色んな問いかけで、未だに手がけていません。手がけられずにいる、これが正直なところでしょうか。
揮発風化、こちらももう少し時間がいるような。
結局間に合わずに何も残らないのかな~などと。
しかし、そんなことはどうしても書き残すことができません。悔しいからでしょうか。