古墳:探訪

全国の前方後円墳を中心に訊ね歩いています。

群馬県前橋市・王山古墳

2018-06-30 08:20:45 | Weblog
群馬県前橋市総社町100-1、利根川に架かる中央大橋の西詰・大渡町交差点脇北東側にあります。
王山公園内です。
「総社町1号墳」と呼ばれることもあります。













全長75.6m、 後円部径50m・高さ4.5m、 前方部先端幅63.1m・高さ3.9m  二段構築の前方後円墳です。
積石塚に前方部を付設してつくられています。

(後円部)




(前方部)






後円部基壇上の積み石はすべて河原石で築かれています。
二ヵ所その石積み状況がわかるような施設が設けられています。





墳丘の周りには盾形をした周濠があります。
円筒埴輪や盾形埴輪・人物埴輪・大刀形埴輪などが採取されて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。

昭和49年(1974年)度に発掘調査が行われています。
後円部中央にある埋葬施設は、南東側に入り口を持つ両袖型横穴式石室です。
全長16.37m、羨道の長さ12m、玄室の長さ4.37m・幅1.63mの単室構造です。
石室の壁面は赤い顔料が塗られていたそうです。
石室は盗掘を受けていて、現在は埋め戻されています。
ガラス製勾玉、ガラス製小玉、金銅製帯金具の破片、素環状鏡板付轡、須恵器片などが出土しています。

古墳時代後期・6世紀前半頃の築造と推定されています。

昭和59年3月12日、前橋市の史跡に指定されています。

群馬県前橋市・総社二子山古墳

2018-06-30 07:03:41 | Weblog
群馬県前橋市総社町植野368の独立丘陵頂にあります。
「総社町11号墳」とも呼ばれています。



全長89.8m、 後円部径44.2m・高さ7.5m、 前方部先端幅60m・高さ8m  二段構築の前方後円墳です。
前方部を西に向けています。
その前方部は後円部に比べかなり発達しています。



(前方部)












(後円部)








墳丘の周りには周濠があります。
墳丘に河原石による葺石が施されています。
円筒埴輪や形象埴輪が採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。

主体部が二つ確認されています。
前方部にある埋葬施設は、自然石を使用した横穴式石室です。
全長が8.76m、玄室の長さが4.27m・幅2.22mの単室構造です。
銀装頭椎大刀、直刀、鉄鏃、長頸鏃、刀子、瑪瑙製勾玉、六鈴釧、金環、須恵器などが出土しています。
石室は江戸時代には開口(南方向)していたそうです。









後円部にある埋葬施設は、横穴式石室です。
榛名山二ツ岳産の角閃石安山岩を加工して造られています。
全長が9.40m、玄室の長さが6.88m・幅3.40mの単室構造です。
現在も開口しているのか確認できませんでした。

惣社古墳群を構成しています。

古墳時代後期・6世紀末頃の築造と推定されています。

昭和2年4月8日、国の史跡に指定されています。


「惣社古墳群」
5世紀後半から7世紀後半にかけての古墳群です。
榛名山の裾野・南北約4Kmにわたって分布しています。
古い順に「遠見山古墳(前方後円墳)」、「王山古墳(前方後円墳)」、「惣社二子山古墳」、「愛宕山古墳(方墳)」、「宝塔山古墳(方墳)」、「蛇穴山古墳(方墳)」の6基が現存しています。

群馬県前橋市・前橋八幡山古墳

2018-06-23 05:47:31 | Weblog
群馬県前橋市朝倉町4丁目9-3、広瀬川右岸の台地縁辺にあります。
八幡山公園内に保存されています。
「朝倉八幡山古墳」とか「上川淵村67号墳」とも呼ばれています。

全長132m、 後方部一辺長64.5×70m・高さ11.91m、 前方部先端幅59.5m・高さ7.85m  の前方後方墳です。
東日本最大の前方後方墳です。
前方部を南に向けています。







(後方部)






(前方部)






墳丘の周りには幅26.7~35mの方形をした周濠があります。
墳丘には葺石が施されていたようです。
墳丘には特殊器台埴輪の配列がなされていました。
後方部にある埋葬施設は未調査につき不明ですが、竪穴式石室とみられています。
言い伝えによると、大正5~6年ころ村人らによって掘られたそうです。
約1.5mほど掘り下げたところから、長さ数メートルの河原石積みの構造帯があり粘土槨も確認されたということですが、詳細は不明です。
大刀や玉杖などが出土しています。

朝倉・広瀬古墳群を構成していて、古墳群中唯一の前方後方墳であり盟主墓的古墳でもあります。

古墳時代前期・4世紀後半頃の築造と推定されています。

昭和27年7月13日、国の史跡に指定されています。
平成15年8月27日、周濠部分が追加指定されています。

群馬県前橋市・天川二子山古墳

2018-06-23 05:22:05 | Weblog
群馬県前橋市文京町3丁目26の独立した丘陵頂にあります。
広瀬川右岸の台地上です。
天川二子山公園内に保存されています。
「前橋二子山古墳」とか「前橋市1号墳」と呼ばれることもあります。

全長104m、 後円部径72m・高さ11m、 前方部先端幅76m・高さ9.5m  二段構築の前方後円墳です。



 

 
                  (右側が前方部)             


(後円部)






(前方部)






墳丘の周りには幅35mの盾形をした周濠があります。
墳丘には河原石による葺石が施されていたようです。
その葺石を保護するため、薄く盛り土が施されています。



円筒埴輪や形象埴輪・人物埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
後円部中央にある埋葬施設は未調査につきはっきりしていませんが、横穴式石室と推定されています。

「朝倉・広瀬古墳群」を構成していて、その古墳群の西北端にあります。
昭和10年の調査時には約150基ほどの古墳が残っていたそうです。
大型の前方後円墳や前方後方墳、それに小規模の円墳からなっています。

古墳時代後期・6世紀中頃の築造と推定されています。

昭和2年6月14日、国の史跡に指定されています。

群馬県前橋市・不二山古墳

2018-06-20 06:05:01 | Weblog
群馬県前橋市文京町3丁目151-6の台地縁辺部にあります。
JR前橋駅の東、そう遠くないところです。
「カチカチ山古墳」とか「前橋市2号墳」と呼ばれることもあります。

全長54.5m、 後円部径31.5m・高さ7m、 前方部先端幅35m・高さ6m  の前方後円墳です。



昭和30年ころからの宅地開発で、前方部と後円部の一部が削平されています。


                 (前方部先端)












                  (後円部端)


墳丘の周りには盾形をした幅3mと4mの二重の周濠があります。
墳丘には河原石による葺石が施されていたようです。
円筒埴輪や器財埴輪・家形埴輪・馬形埴輪・人物埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。

昭和29年群馬大学史学研究室による、後円部南側にある石室の調査が行われています。
石室は、角閃石安山岩で築かれた両袖型横穴式石室でした。
全長8.8m、羨道の長さ4.1m・前幅1.28m・奥幅1.53m、玄室の長さ4.7m・前幅2.6m・奥幅3.05mあります。
石室は盗掘を受けていましたが、それでも冠や直刀、鉄鏃、槍、鉄鎌、耳環、須恵器などが出土しています。
冠は「金冠山古墳」に次ぐ二例目です。
これらの出土品は、現在群馬大学に保管されています。
現在石室は閉じられています。

「朝倉・広瀬古墳群」を構成しています。

古墳時代後期・6世紀後半頃の築造と推定されています。

平成9年4月21日、前橋市の史跡に指定されています。

群馬県前橋市・正円寺古墳

2018-06-16 06:05:46 | Weblog
群馬県前橋市堀之下町155の正円寺裏にあります。
「堀之下二子塚古墳」とか「正円寺塚古墳」「桂萱村66号墳」と呼ばれることもあります。





全長73m、 後円部径46.5m・高さ8m、 前方部先端幅48m・高さ7m  二段構築の前方後円墳です。
前方部を西に向けています。


                (右側が前方部)

               
墳丘南側は正円寺の本堂で一部削平されています。

(後円部)








(前方部)






墳丘の周りには幅14~16mの盾形をした周濠があります。
その外側には堤があります。
墳丘には葺石が施されていたようです。
円筒埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
後円部中央にある埋葬施設は、両袖型横穴式石室です。
自然石の乱石積で造られていて、南に開口した全長が9.7m、羨道の長さ5.8m、玄室の長さ3.9m・幅1.8m・高さ1.7mの単室構造です。
昭和32年に発掘調査が行われていて、調査後は埋め戻されたそうです。
幕末近い時代に盗掘を受けていて、副葬品はなかったそうです。
大刀、鉄鏃、長頸鏃などが出土しています。
くびれ部からも埋葬施設が見つかっていて、竪穴式石槨に箱型石棺が収められていたそうです。
石槨は全長1.7m、幅0.25m~0.45m、高さ0.44mあるそうです。

古墳時代後期・6世紀前半頃の築造と推定されています。

訪ねた時は墳丘上にある桜が満開で、薄暮の時間でしたがとてもきれいでした。


                (後円部)



群馬県前橋市・今井神社古墳

2018-06-16 05:42:15 | Weblog
群馬県前橋市今井町818、荒砥川の東岸・今井神社の境内にあります。
「荒砥村301号墳」と呼ばれることもあります。









全長71m、 後円部径44m・高さ7.5m、 前方部先端幅50m・高さ7m  の前方後円墳です。
後円部には「今井神社」の社殿が、前方部には利根左岸十三仏のうち観世音菩薩をまつる「北向き観音堂」がたっています。

(後円部)




(前方部)






昭和55年に範囲確認調査が行われています。
墳丘の周りには盾形をした周濠が、その外側には堤があります。
墳丘には葺石が施されていたようです。
円筒埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
後円部中央にある埋葬施設は、竪穴式石室で組合式石棺が収められていたようです。
今井神社の社殿建立の際に掘り出された、石棺材と思われる石材の一部が境内に残されています。



鉄剣、鉄刀などが出土しています。

古墳時代中期・5世紀後半頃の築造と推定されています。

昭和56年4月17日、前橋市の史跡に指定されています。

群馬県前橋市・大黒塚古墳

2018-06-13 06:01:14 | Weblog
群馬県前橋市下大屋町555-2の独立した丘陵にあります。
丘陵の頂上には、群馬県の重要文化財にも指定されている「産泰神社本殿」など4棟の建物があります。





その産泰神社の後方、上記写真の右手赤い車止めのある道を下った南側斜面裾にあります。
「荒砥村44号墳」と呼ばれることもあります。

全長46m、 後円部径26m・高さ3.5m、 前方部先端幅17m・高さ3m  の前方後円墳です。

墳丘の周りには盾形をした周濠があります。
墳丘には葺石が施されていたようです。
円筒埴輪や人物埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
後円部中央にある埋葬施設は、横穴式石室です。
乳文六鈴鏡、勾玉、金冠、須恵器などが出土しています。


(墳丘に見える高まりは、流れ出た土砂を地元の人が積み上げたもので古墳は奥の竹藪の中です。)









古墳時代後期の築造と推定されています。

群馬県前橋市・前二子古墳

2018-06-09 06:25:20 | Weblog
群馬県前橋市西大室町の大室公園内にあります。
「荒砥村51号墳」と呼ばれることもあります。

全長94m、 後円部径69m・高さ14m、 前方部先端幅65m・高さ14m  二段構築の前方後円墳です。
墳丘の一部は地山を削って造成されています。







(前方部)




(後円部)






墳丘の周りには楯形をした幅10~20mの二重の周濠があり、その外側には堤があります。
墳丘上段には葺石が施されています。
円筒埴輪や人物埴輪・盾持人埴輪・馬形埴輪・家形埴輪・盾形埴輪・蓋形埴輪・靫形埴輪・鉾形埴輪・大刀形埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
並べられていた円筒埴輪の数は、1340本以上あったようです。
後円部にある埋葬施設は、笠懸町天神山産凝灰岩でつくられた両袖型横穴式石室です。
石室は羨道の長さ8m・幅1.2m、玄室の長さ5.7m・幅1.82m・高さ1.36mの単室構造です。
1878年(明治11年)3月には、後二子古墳の石室ともども開口されています。
現在の石室は傷みもあって修復・復元されたものです。
2007年5月には須恵器、土師器が並べられたそうです。














主な出土品として金製耳管、水晶製丸玉、碧玉製管玉、ガラス製青色丸玉、ガラス製緑色小玉、滑石製管玉・臼玉などの装身具、環頭太刀、直刀、鉄鏃などの武器、剣菱形杏葉、辻金具、鞍金具、輪鐙、轡セットなどの馬具、斧、刀子、鋤、針などの農耕具、小像付筒型器台、高坏型器台、高坏、堤瓶、直口壺などの須恵器、高坏、坏、坩、台付壺などの土師器があります。

古墳時代後期・6世紀前半頃の築造と推定されています。

昭和2年4月8日、国の史跡に指定されています。

大室古墳群で一番南にある前方後円墳です。

群馬県前橋市・中二子古墳

2018-06-09 05:58:34 | Weblog
群馬県前橋市西大室町の大室公園内にあります。
「荒砥村229号墳」と呼ばれることもあります。

全長111m、 後円部径66m・高さ15m、 前方部先端幅79m・高さ10m  二段構築の前方後円墳です。
墳丘の一部は地山を削って造成されています。
前方部を西に向けています。
大室古墳群最大の前方後円墳です。








(前方部)





(後円部)





墳丘の周りには二重の盾形をした周濠があり、その外側には堤があります。





墳丘には葺石が施されていたようです。
円筒埴輪や朝顔形埴輪・人物埴輪・翳形埴輪・鞆形埴輪・靫形埴輪・大刀形埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
これら並べられていた埴輪の数は、3000本以上あったと推定されています。
現在堤に埴輪列が復元されています。



後円部にある埋葬施設は、未調査ですが横穴式石室とみられています。

古墳時代後期・6世紀前半頃の築造と推定されています。

昭和2年4月8日、国の史跡に指定されています。