古墳:探訪

全国の前方後円墳を中心に訊ね歩いています。

滋賀県長浜市・岩原1号墳

2020-06-27 05:25:34 | Weblog
滋賀県長浜市湖北町丁野の丘陵から分かれた尾根上にあります。
見晴らしの良い高所です。
すぐ近くの山には姉川の合戦の折の砦跡もあります。

全長35m、 後円部径18m・高さ3m、 前方部先端幅14m・高さ2m  の前方後円墳です。
墳丘は墓所で大きく削平されています。

1989年に発掘調査が行われているとのことですが、資料がほとんどなく築造時期を含め詳細は不明です。

岩原古墳群を構成する1基です。

(後円部)










(前方部)

滋賀県長浜市・乗倉古墳

2020-06-20 05:18:44 | Weblog
滋賀県長浜市乗倉町の南北に連なる岩崎山の尾根上にあります。

全長52m、 後円部径27m・高さ2.5m、 前方部先端幅18m・高さ1.5m  の前方後円墳です。
墳丘は大きく削平されていて、原形をとどめていません。

岩崎山の尾根上にある10余基からなる乗倉古墳群を構成する1基です。
現在残っている10基の古墳の墳頂部はすべて「姉川の合戦」の折、浅井軍の陣所設置のため削平されています。




             (ここから山に入ります)























1989年に発掘調査が行われているようですが、詳細は不明です。

古墳時代前期・4世紀後半頃の築造と推定されています。


「姉川の合戦」
元亀元年(1570年)、「織田信長」と「浅井長政」が死闘を繰り広げた合戦です。
姉川の東(茶臼山古墳や龍ケ鼻古墳など)に陣取った織田信長軍に対峙し、浅井・朝倉連合軍は姉川の西・乗倉山(乗倉山古墳群)の尾根筋に「浅井長政」が、その北に東西に横たわる「大依山」に朝倉孫三郎(景健)が陣を敷きました。


滋賀県長浜市・長浜茶臼山古墳

2020-06-13 05:24:07 | Weblog
滋賀県長浜市東上坂町茶臼山の横山丘陵の北先端にあります。

全長95m、 後円部径55m・高さ8m、 前方部先端幅37m・高さ8m  二段構築の柄鏡形前方後円墳です。
前方部を南東方向(平野部とは逆の横山丘陵側)に向けています。


               (奥が前方部)




湖北地方最大の前方後円墳です。


               (奥は伊吹山)





後円部墳丘上はあの「姉川の合戦」の際、織田信長軍の砦として利用されたため平になっています。


     (右手奥の方に、岩崎山や大依山が見えます・・次週説明)


この古墳は測量調査以外の調査は行われていません。
墳丘には川原石による葺石が施されています。
円筒埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。

古墳時代前期・4世紀後半頃の築造と推定されています。

昭和44年9月12日、滋賀県の史跡に指定されています。

「姉川の合戦」
元亀元年(1570年)、「織田信長」と「浅井長政→信長の妹・お市の方の主人」が死闘を繰り広げた合戦です。
横山丘陵の尾根最高部分(丘陵南東部)には、浅井長政が「横山城」を築いて、岐阜県側から進出する織田軍に備えます。
織田軍は横山城と浅井氏の本城である「小谷城」との連絡を絶つため、横山丘陵上に多数の砦(そのほとんどが古墳を利用)を築きました。
茶臼山古墳のすぐ南にある「龍ケ鼻古墳」の上にも織田軍の本陣が置かれました。
徳川家康の奇襲作戦などで合戦に勝利した織田信長は「横山城」に羽柴秀吉を置き、「小谷城」を牽制します。
秀吉はこの横山城を改修して、天下人への道を決定づけた「賤ケ岳の合戦」へ臨みます。






                   (姉 川)




滋賀県長浜市・垣籠(かいごめ)古墳

2020-06-06 05:14:12 | Weblog
滋賀県長浜市垣籠町塚本の平地にあります。
横山丘陵の西の平野です。
「王塚古墳」とも呼ばれています。

全長約60m、 後円部径27m・高さ3m、 前方部先端幅28m・高さ5m  二段構築の前方後円墳です。
前方部を北に向けています。


               (右が前方部です)


         (左奥の民家あたりが後円部だったところです)


               (前方部先端部)





          (奥の民家のあたりが後円部だったところです)

前方部墳丘上には「両岐王宮」の社がたっています。
一説によると応神天皇の皇子・「稚毛両岐王」の墓との伝承があるそうです。









後円部は明治時代に2回にわたって削平され、すでに消滅しています。
明治15年、土地の所有者が土砂の採取を行ったところ、鉄製の武器類(鉄剣・鉄刀・鉄鉾・鉄棒など)やガラス製勾玉・碧玉製管玉・ガラス製小玉・須恵器などが出土したそうです。
明治35年に再び採土したところ、人骨や鏡(倭製乳文鏡)などが出土したそうです。
埋葬主体部は横穴式石室で、横穴式石室の導入初期段階のものの可能性が高いそうです。

墳丘の周りには周濠があります。
円筒埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。

築造時期は、5世紀末から6世紀初頭頃と推定されています。

昭和44年9月12日、滋賀県の史跡に指定されています。