古墳:探訪

全国の前方後円墳を中心に訊ね歩いています。

福岡県行橋市・八雷古墳

2019-07-27 05:50:42 | Weblog
福岡県行橋市長木宮ノエン758、観音山から二塚・下崎にかけて延びる標高20~30mの低丘陵上にあります。
八雷神社境内です。






全長74m、 後円部径40m・高さ7.1m、 前方部先端幅76m・高さ7m  の前方後円墳です。
後円部に段築はありませんが、前方部は二段構築です。
前方部を南に向けています。
後円部に比べ前方部が極端に大きく、先端部幅は墳丘全長より長くなっています。

                (奥が前方部)


                 (前方部)



                (奥が後円部)


                 (後円部)


後円部墳頂は平坦になっています。


くびれ部付近は八雷神社社殿で削平されています。




造り出しはありません。
墳丘の周りには幅10mほどの盾形をした周濠があります。


その外側には幅7mほどの周堤があります。


墳丘に葺石は施されていなかったようです。
円筒埴輪や家形埴輪・武人埴輪・農民埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
内部主体や副葬品については不明です。

大阪府羽曳野市にある「白髪山古墳(伝・清寧天皇陵)の相似形➡三分の二の比率」として知られています。

古墳時代後期・6世紀前半頃の築造と推定されています。

昭和56年2月2日、行橋市の史跡に指定されています。

福岡県行橋市・隼人塚古墳

2019-07-20 05:31:59 | Weblog
福岡県行橋市高瀬欠塚239の台地上にあります。
硯山の南西麓・勝手神社南東約200mの個人のお宅敷地内です。

全長(現状)39m、 後円部径(現状)17m・高さ(現状)5m、 前方部先端幅(現状)13.5m・高さ(現状)3m  の前方後円墳です。
墳丘裾部が全体的に削平されていて、実際よりはやや小規模になっています。










                 (後円部)





                 (前方部)


昭和56年から57年(1981年~82年)にかけて、行橋市教育委員会による環境整備にともなう調査が行われています。
後円部には、南側に開口する大型複室構造の横穴式石室があります。


石室は全長が約7m、羨道は狭く長さ1.4m・幅1.37m・高さ1.3m、 前室は長さ1.6m・幅2.2m・高さ2.78m、 玄室は長さ約4m・奥壁幅2.2m・高さ3.6m の長方形をしています。
前室は玄室の3分の1の長さで高さも低くなっており、羨道との境に框石が置かれています。
玄室は盗掘を受けていて、床面も破壊されていたそうです。
それでも空玉1個や金環1個・丸玉6個・鉄鏃30本以上・刀子1・馬具片などが出土しています。
前室及び羨道部は盗掘を免れていて、直刀3本・馬具1セット・鉄斧2・砥石1・須恵器高坏1・堤瓶3・坏1 などが出土しています。











古墳時代後期・6世紀後半頃の築造と推定されています。
少なくとも1回、6世紀末頃に追葬が行われたようです。

昭和48年7月1日、行橋市の史跡に指定されています。

福岡県行橋市・石並古墳

2019-07-13 05:32:33 | Weblog
福岡県行橋市稲童石並の標高約9mの海岸段丘上にあります。
「稲童20号墳」とも呼ばれています。

全長68m、 後円部径58m・高さ5.5m、 前方部先端幅20m・高さ?m  帆立貝形の前方後円墳です。
西側の後円部は二段構築です。
短くて低い前方部は自然地形を利用しています。















墳丘の周りには幅6mの二重の浅い周濠が廻っています。


墳丘には海岸から運んだ礫を使った葺石が施されています。




後円部の頂は径17mほどの平坦面があり、その周りで円筒埴輪や須恵器が採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。
主体部は未調査につき不明です。
ただ、昭和30年に墳丘測量調査が行われています。
墳頂平坦面の一部が窪んでいて、石室が崩れて凹んだのではと推測されています。




この石並古墳の周りには17・18・19・21号の陪塚とみられる4つの円墳があります。
北側にある直径22mの21号墳は発掘調査が行われていて(19号墳も実施されている)、未盗掘の竪穴系横口式石室が見つかっています。
金銅立飾付眉庇付冑(国内外初の出土例)、三角板鋲留短甲並びにその付属具、横矧板鋲留短甲、各種鉄製武器、鉄製馬具、農工具、内行花文鏡、玉類(勾玉11個・管玉26個)など多数が出土しています。



25基が確認されている「稲童古墳群」を構成していて、その盟主墓です。

古墳時代中期・5世紀後半頃の築造と推定されています。



「稲童古墳群」
行橋市稲童の海岸部・瀬戸内海西端の周防灘に面した、北から長井・石並・塚原・江ノ向と続く南北1.2Kの標高5~10mほどの海岸段丘上に築かれています。
一部破壊されたものもあるようですが、25基の古墳が確認されています。
昭和34年と39年に発掘調査が行われています。
その結果4世紀から6世紀にかけて「石並古墳」に眠る首長系譜の累積墓として、連綿として増墓されたようです。




福岡県苅田町・石塚山古墳

2019-07-06 05:55:31 | Weblog
福岡県京都郡苅田町富久町1丁目、周防灘を望む傾斜面にあります。
西側の山脈から延びた舌状低丘陵上の先端です。
苅田町役場の隣です。

全長約130m、 後円部径80m・高さ9.5m、 前方部先端幅40m・高さ3m  前方部二段・後円部三段構築の前方後円墳です。
前方部を海側(東)に向けています。
その前方部は、先端が撥形にやや広がっています。








(後円部)






前方部に浮殿神社拝殿が、くびれ部に本殿と境内社が建っています。

         (バチ形に開く前方部にたつ神社鳥井)


                   (拝殿)


                   (本殿)







造り出しはありません。
墳丘には人頭大の葺石が施されています。




埴輪の出土はありません。
ただ築造当時は、墳頂に複合口縁壺などの土器が樹立されていたようです。
後円部墳頂は径23mほどで平坦になっていて、その中央に埋葬施設(石室)があります。


石室は主軸を前方部に向ける竪穴式石槨で、割竹形木棺が納められていたようです。
寛政8年(1796年)4月21日に開口、銅鏡10数面・剣・矛・鏃などが出土したとの記録があるそうです。
現存する銅鏡(三角縁神獣鏡)7面・素環頭太刀片・銅鏃1は近くにある宇原神社が所属しています。


銅鏡はすべて中国製(魏代)三角縁神獣鏡で、京都府木津川市の椿井大塚山古墳、奈良県天理市の黒塚古墳、大分県宇佐市の赤塚古墳の出土鏡と同范鏡で、昭和28年(1953年)3月31日、素環頭太刀片・銅鏃を含め国の重要文化財に指定されています。
1987年の苅田町教育委員会の発掘調査では、石室は大破していたそうですが、銅鏡1面(細線式獣帯鏡片)・装身具(琥珀製勾玉1個・碧玉製管玉4個)・武具(小札革綴冑片・靫片)・土器(飯蛸壺など)などが出土し町の文化財に指定されています。
これらは町の歴史資料館に展示されています。
石室内は床や壁面が赤く塗られていたようです。

古墳時代前期・3世紀末から4世紀初頭頃の築造と推定されています。

昭和60年1月31日、国の史跡に指定されています。