古墳:探訪

全国の前方後円墳を中心に訊ね歩いています。

福岡県古賀市・船原3号墳

2014-08-30 07:59:44 | Weblog
福岡県古賀市谷山1167の丘陵上にあります。
馬見塚古墳とも呼ばれています。
かっては3基の古墳があったそうですが、今はこの3号墳が残るだけです。







全長40m、 後円部径24m・高さ3.5m、 前方部先端幅18m・高さ2m 二段構築の前方後円墳です。

造り出しはありません。
墳丘の北から東側にのみ周濠があります。
墳丘には葺石が施されていたとみられています。
どんな種類かはっきりしていませんが、墳丘に埴輪の配列がなされていました。

後円部中央にある埋葬施設は、全長12mの巨石を用いた複室の両袖型横穴式石室です。
石材の表面はベンガラで赤く着色されていたそうです。
倭製変形五獣形鏡や金銅製単龍環頭太刀・刀剣・槍・鏃・馬具・玉類・砥石・須恵器 などが出土しています。
ちなみにこの古墳は、古墳時代後期(6世紀末~7世紀初頭)の径20mの「円墳」だとも言われています。





この古墳が一躍注目されることになる発表がありました。
2013年4月18日、古賀市教育委員会が「この古墳に隣接した埋納坑から、古墳時代後期の金銅製馬具一式がそろって見つかった。」と発表しました。


圃場整備事業の折、この船原3号墳の墓道入口から5m離れた場所で見つかったそうです。
上記写真のテントが張ってある付近です。
埋納坑は 長さ5.2m、幅0.8m、深さ0.7m ほどの細長いものだそうです。
鉄製壺鐙・輪鐙・金銅張の鞍・辻金具・金銅製轡引手・雲珠・杏葉・馬鈴・馬冑・馬甲・蛇行鉄器・鉄製の鋤先や鎌などの農具・馬具の下に敷き詰められていた漆塗りの弓6点以上 などが出土しました。
馬具は少なくとも4組以上埋納されているそうです。
付近からは鉄鏃60点が埋められていた穴も見つかっています。
馬冑(馬用の冑)は和歌山市の「大谷古墳」と埼玉県行田市の「将軍山古墳」出土に次ぐ3例目の大変貴重なものです。
また「金銅製轡引手」は、国宝に指定されている奈良県斑鳩町にある「藤の木古墳」出土のものなど4例しかないそうです。
いづれの出土品も国宝級のものだそうです。

発掘に当たっては、船原方式といわれる方法で行われたそうです。
従来の遺物だけを掘り出す方法ではなく、周りの土ごと掘り出す方法がとられています。
土中に残っているかもしれない残滓をも見つけることを考慮に入れてのことです。
今後この方法は全国の発掘現場に広がりそうだとも言われています。

調査は現在も継続されています。

兵庫県尼崎市・水堂(みずどう)古墳

2014-08-23 08:02:04 | Weblog
兵庫県尼崎市水堂町1丁目25-7の「須佐男神社」境内にあります。
弥生時代中期・後期の集落跡に築造されています。
JR神戸線・立花駅の西約650m、徒歩約8分のところです。
墳丘は削平を受けていて、特に前方部は原形をとどめていません。







全長60m、 後円部径30m・高さ5m、 前方部先端幅50m・高さ?m の前方後円墳です。
前方部を南に向けています。
後円部には、尼崎市に数多いスサノオ社のひとつ「須佐男神社」の社殿が建てられています。


社殿は平成7年1月の阪神淡路大震災で倒壊し、平成10年に再建されたものです。


本殿裏には「古墳保存館」があります。


墳丘の周りには幅20mの周濠があります。
墳丘に葺石は施されていなかったものとみられます。
埴輪の出土はなく、墳丘に埴輪の配列はなされていなかったようです。

1962年(昭和37年)に発掘調査が行われています。
後円部から粘土槨に覆われた割竹形木棺(ヒノキ材)が見つかっています。
木棺は長さが約7m、幅が約1mあり、内側には朱が塗られていたそうです。
その木棺内側からは、頭を北にした人骨と歯の骨粉状のものが見つかっています。
頭部の真上にあたる部分には「三角縁波紋帯三神四獣鏡(径23cm)」が置かれていたそうです。
体の東側には直刀が、西側には短剣と直刀が、足元に当たる部分には鉄槍が置かれていたそうです。
また頭の北側には鉄槍・竹製(漆塗り)の櫛・鉄鏃が詰った胡籙(ころく)・ヤリガンナ・ノミ・鉄斧 なども置かれていたそうです。
木棺の南側には棺に接するように、土師器の壺が納められていたそうです。
玉類はなかったようです。
これらの出土品は、昭和60年3月30日尼崎市の文化財に指定されています。
「三角縁波紋帯三神四獣鏡」は、奈良県天理市にある「黒塚古墳」や神戸市にある「西求塚古墳」出土のものと同型鏡として知られています。

古墳時代前期・4世紀末頃の築造と推定されています。

兵庫県尼崎市・伊居太古墳

2014-08-16 07:59:43 | Weblog
兵庫県尼崎市下坂部4丁目の「伊居太神社」の境内にあります。
境内全体が古墳です。
JR宝塚線・塚口駅の東、徒歩約15分のところです。
墳丘は「伊居太神社」社殿建立により消滅状態です。


                    (手前が前方部です)








                      (後円部)

全長92m、 後円部径53m・高さ3m、 前方部先端幅46m・高さ?m  の前方後円墳です。
前方部を南に向けています。
その前方部南側には「サムライ塚」と[白馬塚」と呼ばれる2基の陪塚がありましたがいまは消滅しています。
尼崎市内最大の前方後円墳です。

墳丘の周りには幅20mの周濠があります。
円筒埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。

1990年(平成2年)に発掘調査が行われています。
墳丘はすでに削平されていて、土師器片や須恵器片など以外に出土遺物は見つかっていません。
鏡や鉄剣などが出土したと伝えられているそうですが、確認はされていません。

古墳時代中期・5世紀末頃の築造と推定されています。


「伊居太(いこた)神社」



  あの「近松門左衛門」のお墓がある近松公園の東側・府道近松線の反対側にある「伊居太古墳」の後円部中央に鎮座。
  祭神 「武甕槌神(タケミカツチノカミ)」 「天児屋根命(アメノコヤネノミコト)」
      「経津主神(フツヌシノカミ)」   「姫大神(ヒメオオカミ)」

  延喜式神名帳にも式内社として掲載されているそうです。
  平成7年1月17日の阪神淡路大震災で社殿が倒壊したため、平成11年4月に新社殿が再建されています。
  現在は家内安全・厄除招福の神として崇敬されているそうです。

兵庫県尼崎市・御園古墳

2014-08-09 07:57:46 | Weblog
兵庫県尼崎市塚口本町8-1-24の平地にあります。
JR宝塚線・猪名寺駅と塚口駅のほぼ中間のところです。
墳丘は御園地区の共同墓地になっていて大きく削平を受けており、周りを三菱電機(株)伊丹製作所に取り囲まれています。






願成寺山古墳と呼ばれることもあります。

全長60m、 後円部径30m・高さ3m、 前方部先端幅30m・高さ2.5m の前方後円墳です。
前方部を西に向けています。

円筒埴輪や盾形埴輪・靭形埴輪・家型埴輪 などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。

1989年に発掘調査が行われています。
主体部が二つ確認されています。
後円部頂中央南にある埋葬施設は、箱型石棺で埋葬されていました。
須恵器などの土器とともに鏡・玉・剣 などが出土したと伝えられていますが、その多くは散逸してしまい、わずかに鉄製環頭太刀などが残っているだけだそうです。
もう一つの埋葬施設についてははっきりしていません。

昭和8年、御園墓地の墓地整理の際(その時墳丘も大きく損われました)、墳丘西側で石棺が発見されました。
両辺に縄懸け突起のある組合式長持型石棺です。
材質は神戸層の白色泥質堆積岩です。
長さ2.15m・幅1.20m・高さ1.10mあり、厚さ約20cmの切り石を底石に4枚、側石に4枚、蓋石に2枚(現在は1枚しか残っていません) 使ってあります。





この石棺は昭和59年3月26日、尼崎市の文化財に指定されています。
現在保存処理(樹脂加工)がされて、出土した場所近くに覆屋が造られそのなかに置かれています。


             (奥に見える赤い屋根の建物が覆屋です)

古墳時代中期の築造と推定されています。

道路から細い路地を少し入ったところにあり、三菱電機の守衛さんに尋ねてようやく辿り着きました。

兵庫県尼崎市・南清水古墳

2014-08-02 07:59:52 | Weblog








兵庫県尼崎市南清水稲荷16の平地にあります。
大塚山古墳の南約200mのところです。
JR宝塚線・猪名寺駅の南東約250mです。
墳丘はかなり削平を受けています。

全長46m、 後円部径40m・高さ3m、 前方部先端幅12m・高さ1.5m 二段構築の帆立貝式前方後円墳です。
前方部を西に向けています。
現在 後円部には「須佐之男神社」の社殿が建てられています。

社殿のそばには「白玉稲荷神」の小さな祠も祀られています。


墳丘の周りには幅14mの周濠があります。
1960年代までは北側の周濠は残っていたそうですが、今は住宅地になっています。
墳丘に葺石は施されていなかったようです。
円筒埴輪などが採取されていて、墳丘に埴輪の配列がなされていました。

1962年(昭和37年)に測量調査が、1990年(平成2年)発掘調査が行われています。

古墳時代中期の築造と推定されています。

住宅地の中に この古墳周りだけが異空間を保っていました。