志情(しなさき)の海へ

琉球弧の潮風に吹かれこの地を掘ると世界と繋がるに違いない。世界は劇場、この島も心も劇場!貴方も私も劇場の主人公!

史劇「玉川王子」は準古典的な装いで疑獄事件の狭間で苦悶し果てた薩摩(大和)派の王子の物語!悲哀調の舞台演出は丁寧だったが~!

2023-04-10 20:41:36 | 琉球・沖縄芸能:組踊・沖縄芝居、他
〈疑獄〉という言葉は,元来入獄させるか 否 かが明確でなく,犯罪事実があいまいな事件を意味する。濡れ衣を着せられた罪なき人々が糾弾され、拷問を受け重い罪科を課されたのが「牧志・恩河事件」だった。
  1853年にペリー艦隊が琉球にやってきた。牧志朝忠は通事として、ペリー提督と英語で対話し、状況を乗り越えたことで賞賛された人物、薩摩は重宝した。しかし、1857年に薩摩の島津斉彬が死去の翌年、政変が起こった。列強が押し寄せてくる中で、フランスの軍艦や兵器を琉球を通して購入する計画を推し進めていた斉彬の急死は薩摩藩の政治の指針を変えた。その余波は琉球の政治を突き動かした。清と薩摩(大和)に両属の小さな王国琉球の1609年からの歴史の推移とその中の確執が諸に浮上した政治の軋轢・対立が疑獄事件に発展した事件である。1734年に文学者平敷屋朝敏らが磔になった史実同様、重い王府時代の痕跡である。(以下はステージガイドの転載です。問題がありましたら削除します。)

 

1858年、薩摩に追従し、取り立てられ王府の中軸にいた三司官の小禄親方良忠、玉川王子、恩河親方朝恒、牧志親雲上朝忠が逮捕、尋問された。結果は恩河親方は獄中死、牧志親雲上朝忠は久米島に10年の流刑、小禄は伊江島の照大寺に500日の寺入りになる。そして玉川王子は刑は免れたものの、糸満兼城間切りに蟄居する決心する。しかも小禄親方の娘、妻真乙樽に対して、聞得大君御殿からの御達しがあり、夫婦の縁を切り小禄の殿内に戻すことが定まった。疑獄事件は妻子にも深い傷を与えることになったのだ。

史劇玉川王子はそこから幕が開く。物語はシンプルで玉川王子の悲嘆である。疑獄事件に巻き込まれ、政治の荒波を身に受けて糸満に蟄居し、苦悶の末病気による死に至るまでの物語である。そこに対立構図として描かれたのは、主に女性たちが目に見える形で登場する。玉川王子の物語だが、女性たちがメインの舞台だった。

舞台は全体的に丁寧に描かれ、準古典のようなたたずまいに見えた。音曲はすべて古典である。聴きごたえがあった。冒頭から悲哀のトーンが貫かれる。志半ばに時勢の波間に沈んでいった王子の悲劇ゆえに~。美しい妻との離別の中の哀惜の念が描かれる。

対立やアクションが見えたのは、なんと尚温の妃だった現聞得大君と玉川王子の実母仲西阿護母志良礼との対照的な姿である。女の芝居になっている面白さがあった。
 配役のミスキャストがあった。
80代、90代近いベテラン役者の技量の陥穽が厳しかった。瀬名派孝子さんはセリフを「想い」でとちる。その後で、ぴたっと会場の笑いが止まった。
「玉川王子」では、重要な役柄の森山親方の平良進さんはセリフがよく聞き取れない。口ごもっていて重要なセリフが耳に入ってこない。仲嶺さんも常連の重厚な役柄で抜擢だが、やはりセリフが何とも聞き取りにくい。しかし瀬名派孝子さん、平良 進さん、仲嶺眞永さんの存在感は大きい。

疑獄事件の指南をして無情な刑を下した大里王子役、上原崇弘は若くて威厳がない。玉川王子の兄弟で年上である。仲里按司の東江裕吉は安定していい演技だった。野里親雲上(玉川王子の総聞)の玉城匠は無難に役を演じた。本来大和党と志那党の対立構図がある。大里は薩摩寄りの玉川王子や牧忠・恩河、小禄に重い刑罰を処した当人である。それがその歪さ、嫉妬や腹黒さが描かれていない。

一方聞得大君の中曽根律子さんは、ある組踊の保持者は「いじわるばばーにしか見えなかったね。まったく聞得大君の威厳がなかった」との評価である。
たしかに品位も威厳も失われた演技に見えた。権威を振りかざす醜さが勝った。一方で赤嶺啓子演じる仲西阿護母志良礼は美しく気品があり、人情にあふれた女性として登場した。お二人の対立がこの芝居の面白さでもあった。白と黒の対立がくっきり浮かび上がったのだから~。白と黒の対立は女性陣によって描かれた。男性陣は中庸の美徳で描かれた。残酷な刑罰、濡れ衣を主導したのが、大里王子である。「大和党」の若者たちによる暗殺せんとする場面が挿入されているが、理不尽な残虐さを悔い改めるわけでもなく、最後まで登場している。!!!?大和党の若者たちが切り付けてリベンジする場面があってもよかった。深傷でなくても~。疑獄事件の悪辣さ、権力争いの無情さをアクションで見せることができた。疑心暗鬼の権力闘争があったのである。

女性陣の対立:せりふの中にそれは如実に表出されている。

聞得大君「仲西、汝やぬーさる者やが。此ぬ聞得大君ぉ、尚温王の御妃。汝や尚灝王 ぬ妾どぅやる。~玉川王子ぬ産し親やくとぅんでぃ言ち、どぅーぬ身分ぉ忘てーならんどーやー」

仲西「たり、あまりに無慈悲な御言葉。あんどぅんやれー、世の中ぁ身分しどぅ物事ぉなちいちゃびーるい。義理ん志情ん踏み違ぁんぐとぅし行ちゅしどぅ上下ぬ行いる道ぇあいびらに。」

聞得大君「玉川王子、急じ此ぬ御殿から、真乙金出じゃちやらしみしぇーびり」

表の政治の確執や葛藤はあまり詳細に描かれてるわけではない。つまりこの疑獄事件の残酷さは表象的である。権力抗争の闇(当事者)の悪辣さが描かれない。

一方、演出効果として第一景で聞得大君が部屋の後ろのふすま、舞台中央から登場する場面は良かった。権威や権力者が中央から登場する形態である。
 
第二景、渡地の港:
牧志朝忠(宇座仁一)が薩摩に出航する場面は良かった。玉川王子と最後の別れを惜しむ。妻子に言い残したことばが自殺をほのめかしていて心が凍る。
亀寿(息子)「ターリーさい。ターリーやいち帰てぃめんしぇーびーが」
牧志「亀寿・・・ターリーや、来年ぬ七月ぬ十三日に戻ゆさやー・・・」
妻「ふー・・・。あんどぅんやれー、うんじょー・・・。」(泣く)

この薩摩への出航の場面で牧志の自殺を暗示し、来年の旧盆に戻ってくると、息子に語っているのだ。

丁寧に格式をもって描かれた琉球史劇だが、歴史の流れがつかめていない観客には厳しかったと想像する。「演出の金城真次さんが序章で時代背景などを口頭で説明したら、もっと芝居の中身に入りやすかったかもしれない」と、友人が話していたが、同意できる。

玉川王子の苦悶と死の修羅場を見せられる四景、そして最後葬儀の喪主はだれにするかでもめる場面があり、摂政が国の葬儀として管轄し、喪主は真乙金になる。

終幕、大きな仏像の前の白い棺、愛する王子の顔を一目見て、ジーファーで自害せんとする真乙金。

最後の場面は母親の仲西阿護母志良礼が、我が子の顔をみて哀惜の念を見せる姿で幕が下りる。王府の菩提寺は円覚寺、臨済宗妙心寺派。禅寺には釈迦が鎮座している。ゆえに大きな仏像はそれでよかった。

うちなーの色がしない、との声もあったが首里王府と円覚寺のつながりがある。

女性陣、恩河の妻小嶺和佳子、牧志の妻知念亜紀は安定していい演技だった。真乙金の儀間佳和子は美しく気品があった。第一景で白ユリを生けている場面は優雅で、ユリの色香がその後の物語の筋書きを象徴するようだった。

女の準古典史劇のような作品だった。玉川王子の嘉数道彦は普段、間の者の演技が印象に残っているが、葛藤し、苦悶する王子を演じきった。

コミカル・リリーフの間の者たち(カミジャー/高宮城実人、三良/新垣正弘)の場面はもっと長くし、事変のいきさつを語って観客に背景を喚起させることもできたと思う。彼らの話の中の歌ももちろん牧志恩河事件のすさまじさを伝えているが、もっと流れをかみ砕いてもよかった気がする。ここで笑いが取れるか、ちょっと厳しかった。「ああうとぅるさよ。お城ぬ中ぬ戦やでーじやっさ。聞得大君ん、鬼ぬぐとぅになてぃ、でーじやたんでぃどー。けーてー、わったー百姓はましやさ。」「やさやさ、わったーばーちー、ちゅーん芋ぐゎーやてぃん、すむさ、獄中、拷問し殺さりしやか、じょーいましやさ」「バーチかなさし、寝んだな」とか~。

カミジャー「赤木赤虫が 蝶なてぃ飛ばは 牧志恩河が 遺念と思れ」とー、今首里三平居とーてぃ、うぬ歌知らん人ぉ居らんどー。

首里の巷の人々はそれは獄死し、海に身を投げた牧志・恩河の遺念だと噂が絶えなかったのである。舞台で蝶が飛び交っても良かった。       

重要な役柄の面々がしっかり明瞭なセリフで演じることによって作品の奥行はもっと出たに違いない。

玉川王子の苦悶と病気による死の修羅場の背景に、妻の真乙金の処遇に対しての聞得大君と王子の母や牧志・恩河の妻たちとの対立が表に出て分かりやすい、構図だった。

地謡(歌三線:山城暁、棚原健太、新垣勝裕、箏:安慶名久美子、笛:澤井真理子)は聴きごたえがあった。歌にセリフをかぶせる演出なども新奇で、笛の音色による悲哀のトーンが漂う中、死を演出した作品でもある。

伊江島ハンドー小は、女性の自殺の場面が演じられた沖縄芝居である。
貴族の王子の、酒に逃げ、苦悶の中で幻覚を見ながら愛する妻の名前を呼んで息絶える死が演じられた。そして厳かな葬儀の場面。仏陀が鎮座する円覚寺の中で、王子を母親が見つめ、悲しみにひたる場面で終幕である。

人の志情きが今日から明日ヘの糧である。

金城さん演出おつかれさま。話によるとオリジナル脚本はなく、かなり脚本には手を入れたという。テキストレジは演出家の手腕である。

脚本を2度読んだ。いきなり重罪の刑の発令から始まる。その前景の場面がほしかった。玉川王子の悲哀、苦悶、死に至る史劇。
牧忠・恩河の妻たち、玉川王子の母上、対 聞得大君の対立がアクションとしてはよく見えた。しかし肝心のご政道の醜い対立は抑えられていた。

 脚本の中で紹介された歌がいいので紹介します。すべて古典曲です。
一景:玉川家座敷
 *百名節 浮世なだやすく 渡る身が船や 誠しど漕ぎゆる 思て見れば
 *干瀬節 胸や張り詰まて 伝言葉のならぬ 哀れ振別れの 知らせやれば
  (花道より玉川王子登場)
 *散山節 楽も苦しみも 時んでどい言ゆすが かにんつれなさめ 暮らしかねて (王子と妻の真乙金の別れの場面)

二景: 渡地の港 玉川王子が牧忠との別れにやってきてからこの場面の終わりまで地謡はずっと笛の独奏が続く。

三景: ハンタン山近く
   マルムンの場面。そこに大和党の若者たちが摂政大里王子の暗殺にやってくる。大里王子の登場前に 瀧落菅攪(箏)が流れる。

四景:玉川王子の部屋(糸満の詫び住まい)
   玉川王子の遺言「江戸 徳川将軍家、並びに薩摩ぬ御殿様とぅん 深く 御交じわい結でぃ、御国御栄いぬ道開ちとぅらし。」
 王子が妻の真乙樽のことに思いをこめて遺言したあとで流れるのが
 *七尺節 誰が先なよら 定まらぬ浮世 日々の伝語らひど 遺言さらね 

さらに酒を浴びるように飲んで居眠りするその時流れるのが
 *「遊しゃうんがない節」 里が面影や 朝ん夕さん
  玉川王子「夢か現か 幻か 供に眺めよる 陰も見らぬ」
 *「仲風節」「夢か現か 幻か 供に眺めよる 陰も見らぬ」
   そして臣下に見守られて王子息絶える。

五景:玉川家 座敷(翌日)
   王子の葬儀の祀り主に関して聞得大君と牧志・恩河の妻と王子の母親との対立の談議 (女性たちの対立のアクションの二回目)

六景:寺(玉川王子の葬儀)
 聞得大君が祭壇に向かおうとすると、新しい摂政仲里按司が王からの御下しを伝える。御荼毘の総奉行仲里。御祀りの主取いは王子の内儀真乙金。
全員、ジーファーを取り、懐に入れる。
 *「子持節」あさましや我が身 夢の間の世界に 哀れ思事の 果てや無いらぬ で牧志と恩河の妻たちに支えられ、真乙金花道から登場する。
 大仏像の前に据えられた棺桶の中の王子を見る。しばらくして、祭壇から離れ自害しょうとする。牧志の妻がジーファーを取る。

真乙金のツラネ:
 「朝夕さもよらて あかぬ語らたる 人もいな草の 陰に変わへて」
 *世渡節 朝夕さもよらて あかぬ語らたる 人もいな草の 陰に変わへて

最後母親の仲西が棺の側に行き、棺の中を見て泣く。
 拍子木、緞帳

以上が一景から六景までの音楽の構成である。すべて古典曲である。
重いが、味わい深い演唱だった。

舞台美術は、背景幕の選択が良かった。美術に潤沢に予算が組める国立ならではの良さが感じられた。

衣装が社会的地位を表すことが如実に具現化された史劇だ。
一景で玉川王子と離縁を言い渡された時、聞得大君は黄金の御ジーファーと錦ぬ金襴ぬ衣装をはぎ取る。それらは、御主加那志前の御縁引ちぬ印なのだった。
しかし王子は「此の世の別りぬ形見として持たすのだと、聞得大君から奪い取る。

また二景で、牧志親雲上朝忠が薩摩へ渡地港から出航する際、玉川王子は身に着けていた自分の羽織を牧志にかけてやる。そこでも衣装は重要なシンボリズムになっている。形見の衣装である。
 衣装は身分によって着るものが分けられた王府時代である。階層は衣服で一目だった。当時の衣類がすべて手縫いだったことに驚く。王家の女性たちも下々の女性たちも自ら糸を紡ぎ、手縫いで着物を繕ったのである。すごい歴史だ。

さてこの史劇の評判はどうなのだろうか。昨日話した女性は、「うむこーねーらんたん」と語った。ステージガイドも読まず舞台を観たのである。
面白くなかったということは、脚本の弱さに思える。起承転結が明らかなお芝居ではない。玉川王子の疑獄事件ゆえに衰弱し、病気を患い、死去するまでの物語ゆえに暗いのは台本が暗いゆえでもある。

コミカルリリーフをどう生かすかが次の課題だろうか。

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