【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

現在誇れること

2017-12-02 07:00:54 | Weblog

 「祖先がすごいぞ」と威張り散らす人は、「祖先のこと以外に自慢するものを持たない」つまり「祖先に比較して自分は情けない子孫である」と大声で白状していることになります。同様に「自分はすごい学歴だぞ」と威張り散らす人は「卒業後に大したことをしていない」と白状していることになります。「本当に大したこと」を“現在"しているのなら、威張るにしてもそちらを鼻にかけるでしょうから。
 「威張っている時点で、大した人物ではない」という見方もありますが。
 ただ、私はいわゆる高学歴の人間だから「学歴」が大したものではないことは実感しています。だけど「学校の勉強程度」のものもきちんと完遂できない人間が組織社会で使い物になるか、という見方ができることもわかっています。組織社会ではなくて個人の才能優先の所だったら学歴なんかたしかに無用ですが、がちがちの組織社会だったら「学校の勉強ができる」は最低限の出発点で、それ以上に複雑な「社会での仕事」がこなせる可能性を示している、という点で「学歴」は使い道があるのではないか、なんてことを思うのです。だって「学校の勉強」って「その程度のもの」でしょ?

【ただいま読書中】『学歴無用論』盛田昭夫 著、 文藝春秋、1966年、300円

 昭和の時代には「学歴神話」が生きていました。戦前の「学生さん」=「エリート」の風潮はそのまま戦後も保存されていたのですが、「戦前の体制」で戦後もそのままやっていけるほど「国際社会」は甘くはなかった、というのが、本書の出発点です。
 神武景気や所得倍増が一段落し、IMFの八条国・関税引き下げを受け入れてみると、日本産業は厳しい国際自由競争の嵐の中に放り込まれてしまいました。そこで「アメリカの経営法に学ぼう」というのが一つのブームになってしまったのですが、著者は「アメリカは多民族国家だから明示的でフェアな『契約』が重んじられるが、日本では『奉公』の概念がまだ生きているくらいの社会だから、アメリカのシステムをそのまま持ち込んでもうまくいかない」と考えます。ついでですが、当時のヨーロッパの経営学はまた違っていて「財務」が一番重視されていたそうです。
 著者は、アメリカ式の雇用法法は、買う方は「どのような仕事か」「権限」「給料」などを明示し、売る方は「自分の経験や能力」を明示、それを付き合わせて双方が納得したら契約になる点で、商品の販売とよく似ている、と述べます。「労働力」という「商品」の売買ですね。当然、雇った後に話が違って使い物にならなかったら即座に馘首ですし、逆に予想外に能力があって本人が要求したら昇進や昇給もあります。
 昭和のこの時代「年功序列」「終身雇用」が日本の「常識」のようになっていましたが、実は明治大正時代には日本でも労働者は流動的に動いていました。それは(熟練工の)「同じ仕事」に対してどの企業でも「ほぼ同じ賃金」が支払われていたからです。ただし労使関係は封建的な「身分」が脈々と息づいていました。しかし社会が近代化し、若年の未熟練工が大量に採用されるようになって「日本式の雇用形態」が根づくことになります。
 著者は「日本の会社の不合理生(「会社の目的」が共有されていない、意味も意義も不明の入社試験、きちんとした仕事の評価がされない、間接費が多すぎる、など)を何とかしないと、日本は国際競争に負ける、とあせっています。これは、実際にアメリカで会社を作ってそれを経営した経験が言わせているのでしょう。そこで登場するのが「学歴無用論」。人を雇用するときに「どこを出た人か」ではなくて「何ができる人か」を評価するべき、という主張です。つまり日本の会社を「サラリーマンの集合体」ではなくて「プロのチーム」にしたい、ということでしょう。とりあえず本書発行の1年前、ソニーでは「履歴書を封印」してしまったそうです。履歴書を見て「この人は大卒」「この人は高卒」とか“判断"するのではなくて「仕事のでき」を評価しよう、ということです。そして著者のこの態度は「働かない重役は追放だ」にもつながっていきます。
 ちょうどこの頃、中間管理職をやっていた私の父親が「なんだかんだ言っても、やっぱり○○大学卒は使える人間が多いんだよな」とぽつりと言ったのを私は今でも覚えています。「よい大学」を出た人間は汎用性が高い、ということだったのかもしれません。