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気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

青木美希 なぜ日本は原発を止められないのか 文春新書2023

2024-04-16 15:04:18 | エッセイ
 青木美希氏は、ジャーナリスト。朝日新聞の社員であるが、記者からは外されたらしい。
 さて、この書物は、原発について、社会、政治、経済から考えようとするとき、必読の教科書といって良いと思う。
 帯には、「安全神話に加担した政・官・業・学そして、マスコミの大罪!」と記されている。
 わたしが思うに、原発とは経済的な代物であり、でなければ核軍備の代替物である。ここでいう経済とは、本来の「経世済民」の意味の経済ではない。本末転倒の利潤追求という意味での経済である。
 いい加減にして欲しいと思う。
 この書物に出てくる自民党の政治家はだれも本当は原発はないに越したことはないと思っているらしいし、官僚も、どうやらそうらしい。東電などの電力会社は、責任をかぶらされ、損失を蒙ることを恐れて廃止を言い出せないだけである。
 原発は、現時点で、その存在自体が大災害であるというべきである。
大災害であるからには、電力会社のバランスシートから切り離し、国家の責任で後始末を続けるほかない代物である。
 石破茂は「核抑止力」としての原発が必要だという論(p.166)でありつつ、「原発ゼロであるほうが望ましいと思っている」(p.185)「安全じゃない、ということがわかったじゃなないですか。要は悩んでいる、というのが正しくて。悩んでいても、考えても、考えても答えが出ない。原発ゼロにしたいです。平和な世にしたいです。その思いはなくしません」(p.188)と述べる。「ゼロにしなきゃ行けないけれども、道筋を示さなければ政治家として責任を取れない。技術をどうするのか、お金を負担するのが納税者か、電力か。誰が負担するのか議論を詰めないと、理想は理想で終わってしまう」と。
(p.189)

 政治家として責任を取らなければならないというこのあたりの議論は、まったくその通りであるが、「わからない」と繰り返すのは逃げでしかない。
 電力料金に上乗せするも税金で負担するも、最終的に国民総体で負担せざるをえないのは同じことである。電力料金に上乗せするのは、民間企業である電力会社を介在することで、ステークホルダーを増やすのみ、それこそ賄賂の温床である形を継続させることに他ならない。
 すっきりと切り離してシンプルに大災害への対処、廃棄物の処分として国家責任としたほうがよい。
 河野太郎や小泉純一郎、元福島県知事佐藤栄佐久(自民党の参議院議員であった)の言っていることもまとめてあり、ぜひ、一読して欲しいが、たとえば、「内閣官房長官や科学技術庁長官、原子力委員会委員長を歴任し、自民党幹事長、政調会長などを務めた」中川秀直は、「かつての私の原発推進の姿勢はまったく間違いだったことを思い知りました。心から深く反省をしています」と語っているという。(p.260)さらに、「中曽根元首相さえ、原発事故後には「原子力には人類に害を及ぼす一面がある」とし、「これからは日本を太陽国家にしていきたい」と発言していた」(p273)
 前民主党代表で、原発事故当時の官房長官であった枝野幸男の語ることは的を射ていると思う。

「おそらく、どうしたらやめられるかを真剣に考えていないから。…やめようとすると、『使用済み核燃料をどうする。民間企業の資産だから法的になんとかしてあげないと電力会社が倒産してしまう』などと様々な難題が頭に浮かぶ。それで思考停止しているのでしょう。真剣に考えたうえでどうしても続けたいのではなく、やめ方がわからないから続けているだけです。
各電力会社は使用済み核燃料を、再利用する『資産』と位置づけてきた。…事実上、脱原発をするには原発を国有化するしかない。廃炉をする主体は国でないとできません。民間の電力会社のバランスシートから切り離さないといけないんです。」p.246

 関係者は、「やめ方がわからないから続けているだけ」であり、原発は「国有化する」ほかなく、民間会社の「バランスシートから切り離さないといけない」という。
 まったくその通りである。
 国防の手段としての核抑止力についても、もちろん、この書物のなかで批判されているが、国防の手段は武器のみではないということと、標的とされうる原発はむしろ危険極まりないものであるということは確認しておこう。
 いい加減に、責任ある政治家は原発を捨て去る決断をしてほしいものである。
 惰性で存続しているだけの、最も唾棄されるべき既得権益である。
 しかし、やめたとしても、子々孫々に至るまで重い負担をかけさせるだけの大災厄でしかない。とんでもない代物である。




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