ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

トム・アンデルセン著・矢原隆行著・訳 トム・アンデルセン会話哲学の軌跡 金剛出版 2022

2023-06-30 21:48:44 | エッセイ オープンダイアローグ
 副題は、「リフレクティング・チームからリフレクティング・プロセスへ」。
 リフレクティングについては、すでに昨年5月に、矢原隆行氏による『リフレクティング―会話についての会話という方法』(ナカニシヤ出版2016)を紹介済みであるが、重ねて深く学ぶべき方法であることに間違いはない。
 矢原隆行氏は、熊本大学大学院人文社会科学研究部教授で、専攻は臨床社会学など。
 トム・アンデルセンは、ノルウェーの精神科医でトロムソ大学教授。リフレクティング・プロセスの創出者。2007年に、散歩中に事故死している。

【トロムソと言えば 余談】
 トロムソといえば、谷川俊太郎の『トロムソコラージュ』(新潮社2009)である。谷川は2006年にトロムソに滞在して、

「私は一なんだ
 誰かは知らないがあなたも一なんだよ」

と書いた。トロムソの、フィヨルドの奥深く細い湾に小さな漁船が写り、遠景に対岸と、背の高い白い鉄柱で支えられた細長いコンクリートの橋が写り込んでいる写真を手始めに、必ずしも文脈の明らかでないさまざまな場面を切り取った写真が散りばめられた長詩である。
 私は一で、あなたも一なんだという。わたしとあなたは、別個の一であって、決して同一ではない。ユニゾンではなく、ここには、複数の声があるに違いない。
 谷川は、トムのこと、リフレクティングのことを知っているのだろうか?

【トム・アンデルセンの二つの論文】
 さて、この書物の中核は、トム・アンデルセンの二つの論文である。

「第二章は、…一九八七年の論文、「リフレクティング・チーム―臨床実践における対話とメタ対話」の翻訳である。…明解な図式的整理と、その後の実践にも一貫している会話への構えとが共存するこの論文には、今なお汲み尽くされぬ新鮮な可能性が感じられる。」(はじめにⅶ)

「第四章は、アンデルセンの遺稿とも言える二〇〇七年の論文、「リフレクティング・トークといってもいろいろ―これが僕のだ」の翻訳である。…ときに詩のようにすら感じられる滋味掬すべき文章である。アンデルセンの会話哲学と、その実践が導いた現実、人間、そして、ことばについてのさまざまな仮説は、われわれにそれらをめぐって新たな会話の機会をもたらすに違いない。」(はじめにⅷ)

 その前後と中間の3つの章は、矢原氏によるアンデルセンの営みの紹介となる。

【リフレクティングへの歩み】
 矢原氏は、第一章「その前のこと リフレクティングへの歩み」で、ミラノ派からの影響とその脱皮について、次のように記す。

「当時、注目を集めていたミラノ派…との親密な交流は、トムたちの実践に深い影響を与えていく。実際、トムたちはミラノ派のやり方で家族たちとの面接を重ね、当初のスタイルから進化を続けていた…家族療法のエッセンスを学んだのだった。
 ただし、トムは…ミラノ派による…ミーティング中に家族らを置き去りにして、家族のいない密室で専門家だけで議論することに…疑問を感じたという。
 …トムは不快だった。「どうして僕らは、部屋に留まって家族らのいる場で議論し、家族らにそれを聞いてもらわないのだろう。」」(12ページ)

 ミラノ派は、マジックミラーの裏の暗い部屋に控えた専門家たちが、家族の前にいる面接者に情報提供したり、助言したり、指示したり、スーパーヴァイズするという構造であった。これも、家族療法のなかでは、進展した方法であったに違いない。そのうえでさらに、トム・アンデルセンは、暗い部屋から飛び出して、マジックミラーという壁を取っ払ってしまったのだ。
 さらに、アンデルセンは、家族らへの指示を止めてしまう。専門家のみが「正解」を有しているという思い込みを捨ててしまう。

「さらに、ビューロー・ハンセンによって促されたのが、「あれかこれか(either-or)」から「あれもこれも(both-and)」あるいは「あれでもないこれでもない(neither-nor)」へのパースペクティブの変化である。一九八四年の秋頃まで、トムたちはセラピーにおいて家族らに何らかの指示をおこなっていた。「あなた方の状況はこうです。」「だから、このようにしてください」といった具合だ。そうした振る舞いの前提には、専門家こそが「正解」を有しているという思い込みが存在する。…やがて、トムたちの話し方は、「あなた方の理解の仕方に加えて、僕たちはこんなふうに理解しました」「あなた方がしてきたことに加えて、こんなことは想像できるでしょうか」というふうに変化していった。一見、些細なことに見えるこの変化は、リフレクティング誕生への道を拓く大きな変化であった。」(14ページ)

【ポリフォニー、つまり、あれかこれか、ではなく、あれもこれも】
 トム・アンデルセン自身による第二章「リフレクティング・チーム-臨床実践による対話とメタ対話」において、家族メンバーとの対等性を語り、その場のプロセスをコントロールしようともできるとも思わなくなったと語る。

「この種のチーム(つまり、リフレクティング・チーム:引用者)のあり方と、その他の家族療法の戦略的志向チームの間には、数多くの差異がある。われわれは面接を中断し、おかしな冗談を言ったり、けなすような発言をする…ような真似はもはやしない。われわれの実践する新しいやり方によって、自分たちは家族メンバーと対等なプロセスへの参加者だと感じられるようになった。自分たちが治療プロセスをコントロールできるとも、すべきとも感じなくなり、われわれは単にそのプロセスの一部であるとということを受け入れている。そしてまた、家族がこう話すのを聞くのも良い気分である。「ワンウェイ・ミラーの背後のあなた方が私たちについて何を考えているのか気になっていたけれど、もうわかります。」」(54ページ)

 事前には、どんな仮説も立てないという。介入も慎重に避けるようになったと。実際のところ、現場において、これは相当に困難なことに違いない。

「…われわれは事前にあらゆる仮説を立てることなく人々と面接することを選択した。仮説は、家族が今、関心を持っている枠組みからよりも、われわれが関心を持っている枠組みから家族を見るようわれわれに影響を及ぼしてしまうだろう。」(55ページ)

「また、家族メンバーは、自分たち自身で描き、説明したことよりも、われわれの介入の方がより良いものであると容易に信じがちであるため、われわれは介入を慎重に避けるようになった。」(55ページ)

 ものごとは多面的であり、多様である。トムたちは、予め仮説を立てない、コントロールしない、指示しない、正解を争わない。

「膠着したシステムにいるすべての人があれかこれかのどちらかの観点から考えすぎていて、正しい理解や正しい行為が何であるのかを示す権利を巡って争いがちだと言うことである。リフレクティング・チームは、あれもこれもあれでもなくこれでもないという考え方を示そうとしている。…チームのメンバーたちは、問題には多くの様相があり、多面的であるという考え方を伝えている。リフレクティング・チームをながめる者は、家族に限らず誰であれ、同じ問題について多様な視点を共有することに込められた豊かさを見出すことができるだろう、とわれわれは信じている。」(56ページ)(アンダーラインは、原文傍点)

 いま、実は、ミハイル・バフチンの『ドストエフスキーの詩学』(ちくま学芸文庫)を読んでいる。まさに、多様な、多面的な、多声(ポリフォニック)的なものがそこに示されている。
 リフレクティングにおいて、そしてそこから大きな影響を受けたオープンダイアローグの方法において、コントロールせず、指示せず、正解を争わない姿勢が、治療的な効果を持ってしまうという不思議がある、ということである。

 
 


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2 コメント

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「あれか、これか」 (鶴田雅英)
2023-07-27 03:21:55
興味深い紹介、ありがとうございました。とても共感できる話でした。

偶然かどうかは知らないのですが、レベッカ・ソルニットが以下のように書いていて、感銘を受けていたのです。どちらが先でもいいのですが、これは大切な話だと思ったのでした。
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「あれかこれか」の選択問題の正解は、たいていの場合「どちらも」である。逆説的な関係に向き合うには、一貫性にこだわって、一方を切り捨てるのではなく、両方とも掬い上げるのが一番まっとうなやりかたなのだ。
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『暗闇のなかの希望』170pあたり
なるほど (千田基嗣)
2023-07-27 09:42:21
レベッカ・ソルニット、災害ユートピアの人ですね。なるほど。「両方とも掬い上げる」、必要なことかもしれません。

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