世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

天使タティエルの話

2012-08-19 06:58:52 | 薔薇のオルゴール

白い石英の光の糸を、綿のように絡めたような雲の原が、どこまでも広がっていました。天からは星々の光が糸をひいて静かに落ちてきて、まるで光の雨が音もなく降っているかのようでした。

天使タティエルが、右腕の脇に金色の表紙の本を持って、雲の原を歩いていると、向こうから、静かな風に乗って飛んでくる大きな白い浮島のようなものが見えました。タティエルはそれを見つけると、背から白い翼を出し、自分も空を飛んでその島に向かいました。近付いて見てみると、それは浮島ではなく、小山のように大きな白い魚でした。

これは、天魚といって、雲の原に棲んでいる不思議な生き物のひとつでした。全身を真珠のように白い鱗におおわれ、容は鮒に似ていて、尾びれは三つに分かれ胸びれは透きとおった翼のように大きく、天魚はその翼をゆったりと動かしながら、雲の原の上を静かに飛んでいるのでした。タティエルは天魚の前まで飛んでくると、正面からその顔に向かって挨拶しました。近くから見ると、天魚の眼はまるでタンザナイトのような深い青でした。見ようによっては、海の色を固めて作った宝石のようにも見えました。とても清らかに澄んでいて、たれやら知らぬ、美しいお方の愛がその眼の中にひっそりと花のように棲んでいるような気がするのです。

「ふう」とタティエルは、天魚に向かって言いました。すると天魚は表情を変えぬまま、「るう」と言って、大きく口を開けました。タティエルは天魚にお礼を言うと、ゆっくりとその口の中に入って行ったのです。

天魚が口を閉じると、タティエルの周りは真っ暗になりました。でもタティエルには暗闇の中にある道がわかりましたので、静かに闇の中を歩いていきました。しばらくすると、だんだんと周りが明るくなり、やがて、まるで薄い銀の紙を壁に張り付けたような小さな扉にぶつかりました。扉には不思議な紋章が緑色の線で描いてあり、タティエルはその紋章に向かって深々と頭を下げると、顔をあげ、小鳥の声で一節の呪文を歌いました。すると、扉は静かに開いて、タティエルを中に導きました。タティエルは吸い込まれるように、扉の向こうに入って行きました。

扉の向こうには、不思議な風景がありました。そこには薄いオリーブ色の広々とした草原があり、上を見ると、月の光を溶かして空全体に塗ったような白い空が見えました。白い空は高いようにも低いようにも見え、太陽も月もなく、ただ空全体が白く光って草原を照らしているようでした。草原の真ん中には、深紅のそれは大きな翼をした天使がひとりいて、青瑪瑙の四角い机の前で、小さな琴に弓をあてて演奏前の音の調整をしていました。

その深紅の翼の天使を囲んで、草原の上や、また草原の上を吹く風の上に、それぞれに、赤い花の形をした椅子や、月光の糸を編んで作った敷物や、トルコ石を綿のように柔らかくして作った四角い座布団など、思い思いのものに座った天使たちが、たくさんいました。タティエルは、少しでも前の方に座りたかったので、天使たちの間を少しの間迷いながら、ようやく前から三列目ほどのところに空いたところを見つけ、ほる、と言って呪文を唱え、そこに蛋白石の布袋に鳩の羽を詰め込んだ小さな座布団をつくり、ゆっくりとその上に座ったのです。

今日は、とても大事な模擬実験が、この天魚の講堂で行われることになっていました。深紅の翼の天使は、琴がようやく正しい音を鳴らし始めたので、講堂に集まった天使たちに、深く頭を下げて挨拶をしました。天使たちもまた挨拶しました。広い会場に天使たちはそれはたくさん集まっていました。タティエルは、胸の鼓動が少し早くなるのを感じました。模擬実験とは言えど、これは神の導きによって行われることですから、結果がどんなことになるかは、誰にもわからないのです。

深紅の翼の天使は、琴をあごと肩の間にはさみ、弓をとって、一節の青い風のような曲を奏でました。すると、どこからか、ぽたりと雫が落ちるような音がして、深紅の翼の天使の前に、水晶水を固めた、大きくて透きとおった丸いボールのようなものが現れたのです。講堂の天使たちが、風のように、さやりとさわめきました。天使たちは微笑みを流し、講堂の風の中に愛がたくさん溶けてゆきました。それで皆は本当に幸せな気持ちになりました。その水晶水の玉を見るだけで、何やら嬉しくてならず、胸の奥から愛が次々と泡のように浮かびあがってくるのです。

深紅の翼の天使は、琴と弓を机の上に置くと、青瑪瑙の机の上に浮かぶ透き通った玉を指差し、そよ風のような声で、「これが、卵子です」と皆に説明しました。そうです。今日は、遠い遠いはるかな昔、神が行われた、人間の女性の創造の一部の、模擬実験が、ここで行われるのでした。水晶水の透き通った玉は、大昔に神が創られた、卵子の模型なのでした。模型と申しましても、神がどうしても教えては下さらない秘密のこと以外は、ほとんど、本物と同じでした。卵子というのは、ご存知ですね。女性のおなかの中にある、赤ちゃんの卵のことです。

深紅の翼の天使は、卵子の模型を、指さしたり、くるくる回したり、風でやさしくなでたりしながら、卵子の構造やその創造についてみなに深い知識を教えました。タティエルは、持ってきた金の本に、その言葉を一言ももらすことなく書いてゆきました。卵子の創造は、それはそれは深い愛に満ちた奇跡でした。深紅の天使の話を聞いているうちに、皆が、神の愛の深さに心を動かされ、歓喜のため息が幾つも流れました。中には神をたたえる歌を歌いだしてしまうものもいました。タティエルはただ、幸せに酔いながら、一心に、深紅の翼の天使の言葉を聞き取り、どんな小さな言葉も逃さず、金の本に書き写してゆきました。

やがて深紅の翼の天使は、講義の第2章を始めることを告げました。タティエルは目をきらめかせて、自分の細い光のペンを握る手に力をこめました。

深紅の翼の天使は、まず卵子に、白い小鳥の金色の声を、入れました。すると、それはとても楽しくて、豊かな、おもしろいものになりました。次に彼は、赤い薔薇の花弁の中に潜んでいる、小さな香りの蜜を入れました。すると卵子は、それは美しい真心の香りを放ち始めました。その次には、三つの白い星の光を丸めて作った小さな飴を入れました。飴が卵子の中に溶けてゆくと、卵子はとてもやさしい愛に染まりました。
タティエルはどきどきしながら実験を見ていました。深紅の翼の天使が、卵子に何かを入れるたびに、卵子はどんどんすばらしく、美しく、よいものになっていきます。一体どれだけの愛をこめるつもりなのか、タティエルはもううれしくてなりませんでした。神はこんなにも、人間を愛していらっしゃるのか。そう思うと、涙さえ目に浮かぶのでした。

深紅の翼の天使は、他にも、野の百合の忍耐の微笑みや、青い蝶々の小さな光を入れました。すると卵子は、とても忍耐強くなり、小さなものに愛をそそぐ心が大きくなりました。そして次に天使は、白い薔薇の知恵を入れました。すると卵子はたいそう賢いものになりました。

深紅の翼の天使が、琴を鳴らし、第3章を告げました。タティエルはまた、ペンを握る手に力をこめました。持ってきた厚い金の本は、いつしか全部のページが文字で埋まってしまい、タティエルは急いで本の厚さを二倍に増やして、新しく書くところをこしらえました。

水晶水で作られた卵子の模型は、ほぼ完成していました。というより、天使にできることは、ほぼ終わっていたのです。これ以上のことは、神でなければできないというところまで、後二、三歩というところまで来ていました。
深紅の翼の天使は、再び琴と弓をとり、それを静かに奏でました。草原の上の風に甘くも、少し苦い香りが流れました。タティエルは、かすかに、胸が小さく割れるような痛みを感じました。ああ、と悲哀のため息をついて、一筋涙を流しました。これから起こることはもう分かっていたからです。

深紅の翼の天使が、指で琴の糸を弾くと、空中に小さな銀のナイフが現れ、それが卵子の中に、すっと落ちて、入ってゆきました。すると卵子は、あまりの痛さに、悲鳴をあげました。草原は、しんとしました。天使たちは息を飲みました。風が悲しみのあまり空を飛ぶのをやめ、草原のうえに布を敷くように倒れ込みました。

深紅の翼の天使は、卵子に「痛み」を入れたと説明しました。なぜなら、女性は、耐えられないことにさえ耐えなければならない宿命を背負っているからなのです。

銀のナイフは、卵子の中で、まるで卵子の全てを壊そうとするかのように、あちこちを切り刻み、壊して行きました。それを追って、薔薇の香りの蜜が懸命に傷を縫ってゆきました。百合の微笑みが卵子の核を抱きしめてともに痛みに耐えました。蝶々の光が、卵子が悲哀に沈んで壊れていかないように、必死に踊りながら美しい歌を歌って慰めていました。

しかし、卵子の苦しみを救うことはなかなかできませんでした。ボールのように丸かった卵子の形は今や、へこんだり、くしゃくしゃになったり、ねじれたりして、とても苦しがっていました。卵子は苦しい、苦しい、と叫びました。そしてあまりの悲しさに、とうとう、決して言ってはいけないことを、言ってしまいました。

「神よ、なぜこのようにわたしをつくったのですか!」

タティエルは突然立ち上がりました。そして右手の人さし指と中指で宙に赤い文字を描き、それに息を吹き込んだかと思うと、自分の胸にいつも熱く燃えている真の赤い星の炎を切り出し、一瞬の迷いもなく、その炎のかけらを卵子の中に放り込んだのでした。

他の天使たちは、びっくりして、一斉にタティエルを見ました。タティエルでさえ、自分のしたことに驚いていました。深紅の翼の天使は、タティエルを優しく見つめ、無言のまま微笑み、静かにうなずきました。

赤い炎は卵子の中に静かに溶けてゆき、卵子の真ん中で星のような赤い結晶に変わりました。卵子は力を得て、くるりと回ると、少し縮んで、自らの痛みに耐えながら、力を込めて、ナイフを吐きだしました。どこからか、かすかに、赤ん坊の泣き声を聞いた者がありました。

卵子は心臓のようにどくどくと鼓動していました。そしてふと、力が抜けたかのように草原の上に落ち、しばし動きませんでした。深紅の翼の天使が、また琴を弾きました。それはこの上もなく美しい愛の歌でした。タティエルは、一体自分は何をしてしまったのか、まだ分からずにいました。ただ、卵子の苦しみが耐えられなかったのです。いや、それをしたのはもしかしたら、自分ではなかったのかもしれません。神の御心の一撃が、自分の心を打って、それをやらせたのかもしれません。

やがて、水晶水の卵子は、いつの間にか動き始めていた風の中に、ふわりと浮かぶと、くるくると回りながらタティエルの方に飛んできました。すると卵子は、天使タティエルの前で、四歳ほどの小さな女の子の姿に変わり、とてもかわいらしく、丁寧にお辞儀したのです。そして女の子は、タティエルに言ったのでした。

「すみませんでした。神にとても無礼なことを言いました。心から神にお詫びします。助けて下さってありがとう」

タティエルは微笑み、やさしく女の子の頬をなでると、人間にもわかる言葉でやさしく言ったのです。
「あなたを愛していますよ」

すると女の子は頬を染め、もじもじとしながら微笑んだかと思うと、卵子の容に戻り、深紅の翼の天使の元へ飛んで帰っていったのです。

深紅の翼の天使は言いました。今日ここで行われた実験で起こった一つの現象は、未来を占う大切な道標となるでしょう。わたしたちはここから、大きな神の導きを授かることでしょう。

深紅の翼の天使は、あと二つ三つの実験を行いました。卵子は、ハチドリの羽の光をいただいて、細やかな愛を編むことができるようになりました。また、イワシの群れのまなざしから抽出した、かすかな金剛石の光をいただいて、愛を硬く信じる真を教えられました。あとは、神でなければできないことなので、実験をこれ以上進めることはできません。けれども、一部でも神の創造の美しさを見ることができて、本当によい体験と学びを得ることができたと、皆は本当に喜んで、心地よい幸せを共有したのでした。

深紅の翼の天使が、実験の終わりを告げる歌を琴で弾くと、水晶水でできた卵子の模型は、ゆっくりと風の中に消えていきました。薔薇の蜜や百合の微笑みや蝶々のため息やイワシのまなざしなどは、色とりどりの金平糖のようなきれいな結晶になって、卵子が消えた後に残っていました。それは神が人に与えた豊かな愛の印でありました。ただ、タティエルが投げた赤い炎の結晶だけが、どこにも見えませんでした。きっと神がお受け取りになったのだろうとか、何か不思議なことがこれから始まるしるしなのだろうとか、これは女性たちに新しいことが起こるしるしなのではないかとか、天使たちはしばしいろいろと話し合いました。

天使たちは深紅の翼の天使に深くお礼と挨拶をして、それぞれに講堂を出て行きました。そして白い天魚は、まるで口の中に守っていた自分の子どもを吐くように、たくさんの天使たちを次々と外に吐いてゆきました。

タティエルも、天魚の口をくぐると、外に出て空を見ました。卵子に与えるためにもぎとってしまった自分の胸の炎は、もう元の形に戻っていました。ただ、もぎ取ったあとの傷跡は残っており、それがまだ小さく痛みました。タティエルはその傷跡をみると、それがまるで、まだ意味のわからぬ不思議な魔法の記号のように思え、そのためにか、かすかな悲哀の風を頬に感じるのでした。

タティエルは振り向いて天魚に、「ふう」といって挨拶すると、翼を広げて、空に飛び上がりました。持っていた金の本は、いつしか黄水晶の大きな玉になっていました。タティエルはその黄水晶の玉を、卵を吸うように口から吸い込み、飲みくだしました。新しい知識と経験が、自らの内部の光に溶けていき、タティエルは自分の内部に豊かな愛が満ちていくのを深く感じました。

そしてタティエルは、口から銀の粉を吐きながら清らかな歌を歌い、しばし風と星の流れに身をまかせて空を飛んでゆきました。そして胸の傷から生まれてくるかすかな悲哀と喜びを、美しくからみ合わせて、愛の歌を作ると、それを人間たちに与えるために、星空に入り口を作り、地球へと向かったのでした。

(おわり)


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