世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

2011-12-15 07:26:15 | 月の世の物語

「まあ、こんなとこで赤ん坊を見るなんて!」女は歓声をあげ、思わず籠の中に眠っている赤ん坊に手をさしのべました。赤ん坊はまだ生まれて間もないらしく、首もまだ座っていませんでした。女は自然にその首を手で支えながら、やさしく胸に抱きかかえました。

そこは、森の中の、一軒家の中でした。博士は椅子に座り、テーブルの上に出されたお茶に手を出しながら、言いました。「すみません。魔法を使える女の人の知り合いっていうと、あなたしか思い浮かばなくて…」すると女はほほ笑みながら博士を見て、言いました。「いいのよ。わたしも友達なんてほとんどいないの。時々村から薬を買いに来る人がいるだけ」。
博士は赤ん坊にほほ笑みかける女の嬉しそうな顔を見ながら、お茶をすすりました。すると、一瞬のどを焼けるようなものが下り、それが胃の腑に落ちたかと思うと、全身にしびれるようなものが走りました。彼は声を上げることもできず、口を押さえながらしばし薬の魔法に茫然としていました。気がつくと、彼は少し体重が軽くなったような気持がしていました。半月島の人にありがちな、ある種の垢がとれ、博士は少しの間、シャワーを浴びた後のような爽快感を感じました。博士は元々、三十代半ばほどの男性の姿をしていましたが、それも今は二、三歳ほど若返ったように見えました。

しばらくすると、博士は言いました。「…聖者様の言うとおり、胎児を育てて、赤ん坊になって生まれてくれたものの、それからどうしたらいいかわからなくて、お役所に相談に行ったんです。そしたらそこで、ずいぶんと驚かれました。実に、怪が人間に戻ったのは、カメリアが初めてだそうなんです…」
「まあ、そうなの?」女は目を丸くして、博士を見ました。「…ええ、それでお役所でも、いろいろと調べられました。カメリアは、聖者様が関わってるから、特殊な例なんだそうですが…。何でも、お役所でも、古文書の分析が進んでるとかで、怪が人間に戻る方法が、だんだんとわかって来ているそうなんです。詳しいことは教えてくれませんでしたが、一部ではもうその準備段階に入っているとか…」そのとき、どこからか、ぐっ、と言う鳴き声が聞こえました。見ると、窓辺に小さな水槽があり、中で一匹のムカデがもぞもぞと動いていました。

女は以前、若い女の治療をしたときに捕まえたムカデを、ヨハネと名付けて飼っており、その飼い方を教えてもらいに、半月島の博士の元を訪ねたことがあったのです。

「まあ、そうなの」と女はまた言い、体を揺らしながら赤ん坊を抱いていました。カメリアは何も知らないかのように静かに目を閉じ、すやすやと眠っていました。女は赤ん坊の顔をなで、その柔らかい産毛にさわりました。「まあ、この子は金髪ね。瞳は何色かしら?きっとかわいい娘になるわ」女が言うと、博士は、その幸せそうな顔にしばし呆然と見とれました。女はしばらくして、きっぱりと言いました。「いいわ、わたしがこの子を育ててあげる。向こうで子供を育てたことはあるし。もうずいぶん、あっちには行ってないけど、赤ん坊を育てるくらいはできるわ」
「そうか…あなたは火あぶりで死んで以来、地球には行ってないんでしたね」博士はつい言ってしまい、胸の中で自分のうかつさを責めましたが、女は別に気にする風でもなく、子守唄のような旋律をささやきながら、ただ幸福そうに赤ん坊を見つめていました。
その顔を見ているうちに、博士の目がふと陰り、胸につまるものが現れました。彼は赤ん坊のカメリアを抱く女から目をそらし、しばし床に目を落としました。そして、ゆっくりと顔をあげ、口を開きました。

「…お役所で、聞いたことによると、カメリアは、これから二十年かけて、二十歳まで育つそうです。そして、それから彼女は……」博士はぐっと、言葉に詰まりました。女は博士の様子の異変に気付き、はっとして彼を振りむきました。
「つ、罪を、今までの、今までやってきたことの罪を、つぐなうために、地獄に赴かねばならないと……、そしてそこで、そしてそこで、か、彼女は、今まで自分が苦しめてきた大勢の人々に、みんなで嘲笑われ、苦しめられ、何度も何度も、殺されるような目に、あわねばならないと……」いつしか博士の声は震え、頬に涙が流れていました。博士は顔を覆い、テーブルの上に伏しました。そしてその時、女の脳裏に、いっぺんに過去の記憶が蘇りました。

山のように積まれた薪の上に、縛られて動けない自分の姿の幻を彼女は見ました。誰かが薪に火をつけ、炎は燃え上がりました。女は悲鳴をあげたか、何かを叫んだか、それを覚えてはいませんでした。ただ次に蘇ったのは、炎の中で、もうすでに死んでいる彼女の遺体に向かって、まだ罵りの言葉を吐き、炎をもっとかきたてようと薪を投げ続ける、大勢の人々の、憎悪に満ちた顔、顔、顔でした。彼女はその時一人の子を持つ主婦でした。毎日の家事をただ平凡にやりこなすだけで、罪など何も犯した覚えはありませんでした。でも人々は平気で嘘をつき、彼女の罪をでっち上げ、立派な魔女にしたてあげました。

彼女は、死んでしまった自分の体の上から、彼らの顔という顔を見回していました。そして彼らが心の中で叫んでいる声をも聞いていました。それはこう言っていました。

消えろ、消えろ、おまえなんか、すべて、すべて、消えてしまえ……!

女の背筋を激しいものが走りました。瞬間、その目が光り、何かが彼女に乗り移ったかのように、その口は自然にものを言いました。

「今、わかったわ。なぜわたしが、日照界でなく、月の世に来たのか…。カメリア、あなたに出会うためだったのね」彼女は抱いた赤ん坊を胸から離し、両手で支えながら捧げ持つように少し上に持ち上げました。そしてその安らかな寝顔を見ながら、やさしくもきびしい、母の声で言いました。
「カメリア、あなたは普通の娘ではないわ。あなたはすばらしい希望。すべての怪の希望。わたしが、わたしがすべてを教えてあげる。そしてできることはなんでもやってあげる。与えられる力はすべて与えてあげる。そして、あなたは、あなたは行くの。いつかきっと、行くの……」

博士は、口もきけず、茫然と女の顔を見つめていました。いつしか涙はかわき、博士の胸の中にも、熱いものが生まれはじめていました。

「道は厳しく、つらく、長い、だけど行かねばならない、あなたは」歌うようにそう言うと、母の顔になった女は、赤ん坊を深く胸に抱きしめました。水槽の中で、ヨハネがまた、ぐっと、鳴き声をあげました。

窓辺に立ち、赤ん坊を抱くその女の姿に、博士は一瞬、聖母子の図を思い浮かべました。



この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
«  | トップ |  »
最新の画像もっと見る

月の世の物語」カテゴリの最新記事