世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

センダン

2015-07-12 04:40:32 | 月夜の考古学・本館
センダン Melia azedarach var. subtripinnata

 センダン科センダン属。初夏に薄紫のけぶるような花をつけ、秋には金色の小さな実をすずなりにつけます。
 うちの近くの小さな公園に、このセンダンの木があります。日が暮れて暗くなってから、星見がてらに犬の散歩をするのが私の習慣なのですが、冬にこの公園のセンダンの木の下に立つと、足元には無数の金の実が落ちていて、それはまるで銀河の縁にでも足を踏み入れたような、うつくしい錯覚に陥ります。
 私は不器用な人間で、人間社会の中で生きていると、もう人間はいやだ、いっそダフネのように木になってしまいたいなんて思うことが、よくあるのですが、そんなときはこの木の前に立って、木として生きることを想像してみるのです。
 特別なことがない限り、一生そこから動けない。風の日も雨の日も、日照りの日も、ずっとそこに立ち続ける。時には人間の都合で枝を打たれたり、傷をつけられたりすることがある。土壌が変わり環境が変わることもある。それでも決して動けない。動かない。何も言わずに、ただ自分としてあるべき自分として、生き続ける。
 風も光も土も、人も、すべてを受け入れて、生きていく。時には環境の激変や、人々の無知や無情に、死の恐怖さえ味わう。何があっても逃げることはできない。木はどうして絶望せずに生きていけるのだろう。
 冬の星空に大枝を投げるセンダンの木を見上げながら、私は自分の胸から、何かにすいつくように魂が飛び出していくのを感じます。わけのわからぬ涙が出ます。それは沈黙の中の微かな交信。大脳皮質の電気信号では拾いきれない、とても微妙な音韻。
 生きて行くこと、そのものでなければ、詩のことばには訳せない、それは魂の交流なのです。彼らは私たちに生きることそのもので答えていくように、その生きることそのものを使った大きなことばで何かを語り続けている。
 私も、生きなければと思う。私として、私にできる生き方を、生きなければと思う。
 木はただそこに立っているだけのものではない。ただそこにありつづけることで、常に私たちに何かを語りかけているのです。



(2005年12月、花詩集31号)





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