世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

水底より・5

2015-07-03 03:42:26 | 月夜の考古学・本館

 だが、そんな幻想は、文字通り、泡のように消えてなくなった。山のふもとで洋子とわかれ、家に帰ったとき、私を待っていたのは不機嫌な母の顔だった。わたしは、そのとき持っていた知恵の限りをつくして言い訳をした。塾に行く途中で腹が痛くなり、学校の中庭の芝生で休んでいた。そしたら、いつの間にか眠ってしまって、気がついたら夕方だった、と。母は、うさん臭げな顔でわたしを見ていたが、それまで、わたしが嘘をついたことはほとんどなかったこともあって、なんとか納得してくれた。これで、もう何も、問題はないのだと、そのときは思っていた。
 事件は、その次の日に起こった。その朝、わたしが教室に入ってきたとき、くすくすという女子生徒の笑い声が真っ先にわたしを迎えた。彼女らは、わたしのほうをちらちらと横目で見ながら、意味ありげにひそひそ話をしていた。
 わたしがいぶかしげにそちらを見ながら、自分の席に向かおうとしたとき、ふと、南側の一番後ろの席で、洋子が、五、六人の女子に囲まれて泣いているのに気がついた。何だかいやな予感がした。
「やい! さぼり!!」
 突然、後ろから誰かが声を投げつけてきた。その声は、わたしと同じ塾に通っている男子生徒のものだった。わたしは、はっと振り向いた。そのとき、黒板に書かれた大きな落書きが目に入った。
 それは、大きな傘の下に二人の男女の名前を書く、よくあり落書きだった。それを見たとき、わたしは、さっと自分の顔に火が走るのを感じた。昨日、山から二人で降りてきたところを、だれかに見られたに違いなかった。洋子とわたしの名前のまわりには、赤いハートがしつこい蠅のようにたくさん書かれてあった。
「だれだよ! こんな……」
 わたしは、うろたえながらも、教壇に上って黒板の落書きをごしごしと消した。すると、まわりが一斉に騒ぎ出した。
「秀才もさ、やっぱり塾より女のほうがいいんだってよ」
「ふたりでデートかよぉ」
「洋子、美人だもんな。頭はわりいけど」
「あっつい、あっつい」
「いやらしーい」
 わたしを無視して勝手に騒ぎ立てているやつらの前で、わたしはしばらくどうすることもできず、立ち尽くしていた。ふと、後ろからだれかがわたしの肩を押した。振り向くとそこには、相撲取りのように大きな男子生徒が立っていた。こいつは早熟なだけの弱虫で、女生徒ばかりをいじめるクラスの嫌われ者だった。いつもは相手が男子だと引っ込んで何も言わないのに、今日に限ってそいつはわたしにつっかかってきた。
「おまえよお。山で何してたんだよ」
「な、何って、なんだよ……」
「女とふたりでよお」
「……」
 そいつは、子供とは思えない不潔な笑い方をしてわたしを見た。わたしは顔にかっと日がつくのを感じた。握りこぶしがぶるぶるとふるえた。わたしはそいつをにらみ返したが、どう反撃していいかわからず、唇をかみしめていた。
 ふと周りを見ると、クラスのやつらはみんな、何かを期待しているように、にやにやと笑いながらわたしの方を見ていた。洋子は、うつむいて、肩をふるわせていた。
 一瞬、少女のために勇敢に戦う男の姿が、わたしに重なった。洋子を守れるのはわたししかいない。勇気をふりしぼって、この下劣なやつらから洋子を救いだすのだ。
 だが、それは次の瞬間、自分が、父や母や教師に期待されている優等生なのだという考えに、押しのけられた。
 そんな自分を捨ててまで戦う価値が、洋子にあるのか? 洋子の母親がどんな仕事をしているか、知らないものはいないというのに。クラスの皆に、洋子と同類と思われたっていいのか?
「な、何もしてないよ…」
 じりじりと後ろに下がりながら、わたしは言った。
「うそつけ、不良め」
 そいつはわたしの胸をどんと押した。わたしはよろよろとその場に尻もちをついた。わたしは半泣きになりながら言った。
「不良じゃない、ぼ、ぼくは……」
「塾さぼるやつが、優等生かよ!」
「ち、ちがう……」
「やあい、先生に言ってやろ! 優等生が塾さぼった!」
 だれかが言った言葉を皆が次々に引き受けて、やがてっ暮らす全体が合唱してわたしを責め始めた。
「さあぼった、さあぼった、優等生が、さあぼった!」
 わたしは心の中がぐちゃぐちゃになって、何が何だかわからなくなった。洋子が必死になって、「やめて! やめて!」と叫んでいるのが耳に入った。だが、気がつくとわたしは、気ちがいのような声で叫んでいた。
「違う! ぼくが悪いんじゃない。洋子がぼくを誘ったんだ、洋子が塾をさぼれって言ったんだ!」
 瞬間、あたりは水をうったように静かになった。
 わたしは、弱虫だった。卑怯者だった。わたしは、自分の周りにあった世界が壊れるのを、恐れていた。父や母や教師にちやほやされる今の境遇から、クラスのみんなに優越感にひたれる今の境遇から、追放されるのが、何より怖かった。
 自分の言ったことに気づいたわたしは、はっと、洋子のほうをふり向いた。洋子の見開かれた黒い瞳が、ガラスのように凍りついて、わたしは見ていた。わたしは目をそらした。
「やっぱりな、洋子は××××の子供だもんな」
 だれかが、言ってはいけな言葉を口にした。再び教室中ががたがた揺れ始めて、今度は洋子を責め始めた。
 分別を知らない子供たちの中傷や誹謗は、時には大人よりもたちが悪いことがあった。もちろん、その後ろには、世間体というオブラートにつつまれた大人たちの世界も隠れていた。洋子は、社会という地盤の、一番弱い所に立っている贖罪の山羊だった。本当は皆、わたしの言ったことが事実でないということを、うすうす分かっていたに違いない。けれど皆にとっては、わたしよりは洋子の方がずっといじめやすかったのだ。ガラス人形のように弱く、いつもみなと少しずれた世界にいる、異分子の方が。
 がたんと、椅子が大きな音をたてて倒れた。わたしの肩がびくりと動いた。顔を上げると、洋子が泣きながら教室を走り出ていくのが見えた。わたしは動けなかった。だれかがわたしの頭越しに、聞えよがしの大声で言った。
「だからいやなのよね、あの子。このままどっかに消えちゃえばいいのに」
 その言葉が、真実になるとは、そのとき誰も思わなかった。洋子は、もう二度と、わたしたちの前には帰っては来なかったのだ。
 南側の隅っこの洋子の席が空いたまま、数週間が過ぎた。その間、わたしは洋子の失踪について様々の噂を聞いた。夜遅く帰って来た洋子の母親が、娘がいないことに驚き、警察に届けたのは翌日の朝だった。洋子の姿を最後に見たのは、学校の裏に住んでいるご隠居さんだった。どうやら洋子はあの日、学校の裏門から飛び出して、あの山の方に走って行ったらしい。そう言えば最近、不審な車があの辺をうろついていた……。
 ご隠居さんの証言を元に、大勢の警察官が裏山を探し回ったが、洋子は見つからなかった。
 そして、ある日体育館に全校生徒が集められ、校長が行方不明の女生徒の話をした。六年一組の女の子に、不幸なことが起こりました、……みなさんも、あやしい車を見かけたら、すぐに連絡を……、これから皆できるだけ集団登下校をするように……。
 クラスのみんなは、だれも顔をあげなかった。わざとらしいすすり泣きをあげる女子が数人いた。わたしは、まるで、深い海底に独り沈んでいるかのように、ぱくぱくと口だけ動いている校長先生の顔を、ぼんやりと見ていた。
 わたしは、何かが、わたしの中で壊れたのを知った。そして嘘だけが、わたしのもとに残された。

(つづく)




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