世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

水底より・1

2015-06-29 05:40:54 | 月夜の考古学・本館

 その日、管理人の最後通告を無視したわたしは、案の定、身の周りの荷物をつめこんだ小さなボストンバッグといっしょに、六畳一間のアパートを追い出された。
 アパートを出たわたしは、コンクリートの建物群の向こうに見え隠れする夕日を横目に、広い表通りの隅を、行くあてもなく歩いた。何日も着たままの上着とズボンは、染み込んだ汗と垢のために、裾が重く垂れ下がり、特有の悪臭を放っていたが、わたしはもうそれを不快に感じることすらなかった。時折すれ違う人々の中から、軽蔑の混じった鋭い視線が投げられるのを感じたが、わたしは下を向いて外界と自分の関係を一切遮断し、惨めさが自分を押し潰そうとするのを防いでいた。
 他人から見れば、今のわたしのこのかっこうはどこから見ても浮浪者にしか見えなかっただろう。実際、わたしにはもう浮浪者に落ちぶれるしか道はなかった。この都会の町で暮らし始めてから七年になろうと言うのに、わたしにはこんな時に頼りにできる友人ひとりいなかったのだ。
 細い月が、残光のにじんでいる夕空にきりりとかかる頃、わたしはその夜のねぐらを、学生時代によく歩いたS公園のベンチの上に決めた。ペンキのはげた木のベンチの後ろの芝生には、ガス灯を模した古いデザインの街灯がひっそりと灯っていた。わたしは、しばらくその明かりの下で、何をするでもなく、ただ呆然と宙を見ていた。深くなっていく夜闇のとばりは、わたしとまわりの世界を厳然と分け、わたしは俄かに訪れた冷たい静寂に、なす術もなくしていた。いったい、何が原因でこんなことになったのか。そんなことを考えるには、今のわたしは疲れ過ぎていた。
 ゴミ箱からとってきた新聞紙を布団に、わたしは生まれて初めて屋根のない場所で眠った。ごつごつした狭いベンチの上で、わたしはうるさい虫に悩みながら、それでも、いつの間にか浅い眠りにおちていた。眠りの中で、わたしは、ずいぶん昔、わたしが高校生であったころのことを夢見ていた。
 そのころ、わたしは学校で一番の秀才で、名門のS大学の理工学部を受験するために、毎日勉強に明け暮れていた。両親も教師たちもみな、わたしの将来を嘱望していた。わたしは、皆の注目を浴びて、しごくご満悦だった。そしてわたしは希望どうりS大学に合格し、この大きなビルの林立する都会にやって来た。
 夢が覚める頃合いになっても、意識の上澄みをさまよいながら、まだわたしは幻想にしがみついて薄ら笑いをしていた。だが、近くで何かゴソゴソという音がしたので、ふと目を開けた。ぼやけた視界の中で、人影が一つ、動いていた。
 人影の正体は、グレーの体操着を着た、背の高い白髪の老人だった。手に毛先のちびた箒と大きな塵取りを持っている。わたしは用心深く顔を動かしながら、空を横目で見上げた。まだ夜は明けきっておらず、朝日の予感をいちはやく感じた小鳥たちが、闇の薄まった空からおずおずとさえずりはじめていた。
 どこかの暇なご隠居さんの奉仕活動といったところだろうか。老人は、遊歩道をきれいに掃き清め、芝生の上に散らかった紙コップやジュースの缶を拾い集め、いっぱいになったあちこちのゴミ箱のビニール袋を新しいものと取り替え、手際よく仕事をこなしていた。半時ほどたつと、老人はきれいになった公園をゆっくりと見回し、小さく、よし、とつぶやいた。そして、掃除用具といっぱいになったゴミ袋を載せたネコ車を押しながら、去っていった。老人は、最後まで、ベンチのわたしの方には一瞥も与えなかった。
 老人がいなくなってから少しあと、わたしは空腹に耐えかねて起き上がった。そしてズボンのポケットにあった残り少ない小銭を取りだして眺めた。何度数えても同じなので、わたしはそれをまたポケットに押しこんだ。ため息も漏れなかった。
 わたしはしばらくベンチに座ったまま、今日一日何をすればいいのか、考えた。金を得るためには、働かねばならない。わたしの脳裏には建築現場やいかがわしい店の並ぶ通りが思い浮かんだ。その次に郵便局や銀行のことを考えて、良からぬ空想を抱いたりした。しかし考えをめぐらしているだけでは腹が満ちるはずはない。わたしは重い腰を持ち上げると、公園の裏にあったコンビニでアンパンを一つ買い、それをちびちびと食いながら、またとぼとぼと歩きだした。そうして半日、人通りの少ない道を選んで町をぶらつき、日が傾くのを待ちかねたように元の公園に帰ってきた。
 ベンチに座ると、ふと、わたしは今朝は見なかった奇妙な立て札が、向かいのゴミ箱の横に立てられているのを見つけた。乾いた灰色の板の上に、まだ黒々と新しい墨の文字で、「水面に注意」と書いてある。わたしは首をかしげた。この小さな公園には、池やそれに類するものはないはずだった。だが、たとえあったとしても、「水面に注意」というのは、妙なことばだ。普通なら、「池に近づくな」とか書くものだろう。
(水面…、水面か……)
 わたしは、ふと、その言葉の後ろに、おぼろげな記憶が陽炎のように立ちのぼるのを見たような気がした。だが、いったい何だろうとそれに目を向けると、それはゆらゆらとぼやけて、モヤのように消えていった。
 わたしは疲れていたので、もうややこしいことは考えたくなかった。絡みつく蜘蛛の巣をふりはらうように、眉間をつねって頭をふると、わたしは小さく息をついて横になった。そして眠ろうとした。目を覚ましていれば、空腹や、心臓を塩でもむような不安が、わたしを苦しめるからだ。
 わたしは眠った。そしてまた、夢を見た。わたしの将来に、大きな期待を寄せていた、父や、母や、恩師の顔が、互いにくるくると回りながら、月のように空にかかっていた。それらは、墨のように真っ黒な空の上からわたしのほうをにらんで、口々に何かをやかましくつぶやいていた。だが、それらを聞き取ることはわたしにはできなかった。なぜというと、彼らがぱくぱくと口を動かすたびに、そこから、壜で栽培されたエノキダケのような白い子供たちが、わらわらと吐き出されるからだ。わたしは恐ろしさのあまり、そこから逃げようとした。だが、どんなに走っても、空の顔はころころと公園の木立の上を転がりながら追いかけてきた。いつの間にか、わたしのまわりには、むくむくと太った巨大なエノキダケで埋め尽くされていた。
 わたしはそれらに押し潰されるようなかっこうで、その場にばたりと倒れた。うずくまったわたしを囲んで、巨大なエノキダケたちは、くすくすと笑いながら回っていた。わたしは目をつぶっているのに、それらの顔の一つ一つを見ることができた。わたしは彼らを知っていた。彼らもわたしを知っていた。あざけりの視線と笑い声が、わたしの上を音のない戦車のキャタピラのように重く流れていった。
(やめろ、やめてくれ!)
 わたしは、胸をかきむしりながら獣のような叫びをあげ、そこでようやく目を覚ました。脂汗がべっとりと首筋を濡らし、ぜえぜえと熱い息の玉が気管を摩擦していた。
 息が収まり汗が冷えてくると、わたしはしばらくそのまま死体のように重く横たわっていた。体温が奪われるのを感じたが、動こうとは思わなかった。小さな羽虫がまぶたの上をはっても、はらいもしなかった。闇が、星屑のかすかな光でさえ厭うて埋め尽くそうとでもするかのように、わたしの上で膨れあがり、わたしのまわりを支配しようとしていた。
 そのとき、ふとわたしの上空を奇妙なものが動いた。見ると、竜のように巨大な一匹のウツボが、闇の一角にのっそりと顔を出して、わたしをにらんでいるのだった。
 わたしの喉をヒルのような悲鳴が上りかけたが、それは外に出る前に縮み上がって消えていった。ウツボは、公園に植えてある針葉樹のこずえをかきわけて、かすかな燐光を放つヒレを細かく震わせながら、皿のように広がったわたしの視界を、悠然と、音もなく、横切っていった。その姿が、再び闇夜の中に溶けて消えていくまでの、数分の間、一息の風さえ起らなかった。わたしは、後頭部を殴られたようなショックに襲われて、そのままことんと気を失ってしまった。
 スイメンニ、チュウイ
 立札の言葉が、わたしの脳裏に波紋のようによみがえった。

 次の朝、わたしが目を覚ましたとき、例の老人は、もうすべての仕事を終えて帰っていくところだった。わたしは、寝起きのぼんやりした目で、彼の背中を見た。老人は昨日とは違う粗末だがこぎれいな体操着を着て、きちんと櫛を入れた清潔な頭髪をしていた。苦い嫉妬の感情が、小さなうじ虫のように舌の奥でうごめいた。わたしのちんけなプライドのかけらが、唇をかたくかみしめて、その下等な感情に耐えていた。やがて、老人の姿が公園から消えると、わたしはつきつきと痛むこめかみを抱えて、やっとの思いで起き上がった。熱があるような気がしたが、もうそんなことはどうでもよかった。

(つづく)





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