言語空間+備忘録

メモ (備忘録) をつけながら、私なりの言論を形成すること (言語空間) を目指しています。

劉志丹事件

2011-11-30 | 日記
茅沢勤 『習近平の正体』 ( p.36 )

 だが、そのような幸せな生活は長く続かなかった。近平が9歳の時、62年秋に、当時副首相だった父の仲勲が権力闘争に巻き込まれ、家族の生活は暗転する。

(中略)

 中国のようなコネクションや人間関係が極めて重視される社会にあっては、他人同士の権力闘争に巻き込まれて粛清されることはままある。仲勲も知らず知らずのうちに、そのような危険な道に引きずり込まれていったのである。
 きっかけは何でもないことだった。62年秋、かつての同志で、すでに死去していた劉志丹の功績を称えるために劉の弟の劉景範・党監察部副部長とその夫人・李建彤が書いた小説『劉志丹』が仲勲のともに持ち込まれ、出版を依頼された。かつての同志である劉のためならと、仲勲は同意した。しかし、これを知った毛の腹心で、「特務の親玉」「粛清王」「中国のベリア」などいくつも異名を持つ康生・党中央書記処書記が、
「劉志丹の名を借りて高崗事件の名誉回復を狙うもの」
 と批判したことで、出版事業が一気に政治問題化した。
 彭徳懐失脚から3年しか経っておらず、復権を模索していた毛にとって、彭に近い仲勲も「打倒すべき対象」だったのだ。
 仲勲はこの小説の執筆を勧めた首謀者とされ、外部には何の発表もないまま副首相を解任された。
 毛は62年、第8期中央委員会第10回総会における講話で、
「小説を反革命に利用するとは一大発明だ。政権を倒そうと企み、まずは世論を誘導して意識形態をつくり、上層建築をこしらえる反革命階級とは、このようなものなのだ」
 と口を極めて仲勲を批判した。毛の発言で、直ちに法的な手続きもなしに副首相を解任された点で、後の文化大革命の予行演習とも受け取られる事件である。
 また、康生も仲勲について、
「毛沢東・主席と党に反対する大野心家、大陰謀家だ」
 と自らのでっち上げを正当化した。これにより仲勲は、76年までの14年間の大半を獄中で過ごす悲惨な時代を送ることになる。
 仲勲を巻き込んだ一連の事件は小説の名前をとって「劉志丹事件」と呼ばれるが、79年頃から、この事件の関係者が名誉回復され、回顧録が発表されるなど、結局、仲勲が彭に近い存在だったことから事件は康生によって巧妙に仕組まれた可能性が高いとみられるようになった。

(中略)

 副首相まで務めた父・仲勲が康生の謀略にひっかかって失脚、逮捕されたことで、何不自由なく暮らしてきた習近平の生活も一変した。
「人は変わりやすく、人情など信じられないもの。人間とは何と薄情なのか」
 近平は父・仲勲が理由も告げられずに副首相を解任され、権力の座から滑り落ちた後の周囲の豹変ぶりを、当時を回想した文章で、このように述べている。
 父がまだ最高幹部として権勢を振るっていた頃、にこやかに笑いかけてくれた隣近所の住人たちのほか、習家のお手伝いさんや運転手、あるいは警備の兵士までも、近平を見ると表情を引きつらせて避けるようになった。小学校では、幹部の子弟ばかり集まっているせいか、「習仲勲・副首相失脚」のニュースが知れ渡っており、教師やクラスメートですら、近平に厳しい視線を向けた。9歳の近平少年にとって、初めて世間の冷たさを思い知らされた経験だった。

(中略)

 仲勲が党組織部長や副首相時代はひきも切らなかった来客が、失脚した後は門をくぐる者もおらず、習家には閑散と寒々しい雰囲気が漂っていた。
「まさに天国から地獄に落とされた変わりようだった」
 近平はこう書いている。


 習近平の父、仲勲が毛沢東によって「打倒すべき対象」とされ、理由も告げられずに副首相を解任されて権力の座から滑り落ちた。そのときのことを近平は「人は変わりやすく、人情など信じられないもの。人間とは何と薄情なのか」と回想している、と書かれています。



 著者は、「理由も告げられずに副首相を解任され」た、「法的な手続きもなしに解任された」、などと書いていますが、

 これは問題とするにはあたらないと思います。

 中国の(当時の)法制度については知りませんが、通常、閣僚などを罷免する際には、理由の説明や、法的な手続きは必要ないと思います。極端なことを言えば、「気に入らないから解任する。反論は認めない」であってもよいわけです。

 この点は、一般のサラリーマンなどとは異なります。



 さて、著者によれば、
 副首相まで務めた父・仲勲が康生の謀略にひっかかって失脚、逮捕されたことで、何不自由なく暮らしてきた習近平の生活も一変した。
「人は変わりやすく、人情など信じられないもの。人間とは何と薄情なのか」
 近平は父・仲勲が理由も告げられずに副首相を解任され、権力の座から滑り落ちた後の周囲の豹変ぶりを、当時を回想した文章で、このように述べている。
 父がまだ最高幹部として権勢を振るっていた頃、にこやかに笑いかけてくれた隣近所の住人たちのほか、習家のお手伝いさんや運転手、あるいは警備の兵士までも、近平を見ると表情を引きつらせて避けるようになった。小学校では、幹部の子弟ばかり集まっているせいか、「習仲勲・副首相失脚」のニュースが知れ渡っており、教師やクラスメートですら、近平に厳しい視線を向けた。9歳の近平少年にとって、初めて世間の冷たさを思い知らされた経験だった。

(中略)

 仲勲が党組織部長や副首相時代はひきも切らなかった来客が、失脚した後は門をくぐる者もおらず、習家には閑散と寒々しい雰囲気が漂っていた。
「まさに天国から地獄に落とされた変わりようだった」
 近平はこう書いている。
とのことですが、

 近平の「人は変わりやすく、人情など信じられないもの。人間とは何と薄情なのか」という感想には、とくに意味はないでしょう。たんに、「当然のこと」を述べているにすぎないと考えられます。

 これをもとに、近平は「人間を信じなくなった」という解釈もあり得るとは思いますが、

 たんに、習近平が「世間を知った」という程度に捉えておけば十分だと思います。



 けれども、私なら…、
にこやかに笑いかけてくれた隣近所の住人たちのほか、習家のお手伝いさんや運転手、あるいは警備の兵士までも、近平を見ると表情を引きつらせて避けるようになった
という態度はとりませんね。

 ここで、はっきり宣言しておきます。(キッパリ)



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中国初の空母「ワリャーグ」が2度目の試験航行

2011-11-30 | 日記
YOMIURI ONLINE」の「中国初の空母、大連出港…性能や設備検査か」( 2011年11月30日06時53分 )

 【大連(中国遼寧省)=比嘉清太】中国初の空母「ワリャーグ」が29日、試験航行のため遼寧省の大連港から出港した。

 今年8月10~14日に行われた初の試験航行に続き2度目。中国国防省は「科学研究やテストを行う」と説明しており、船体の基本性能や設備の作動状況の検査を行うとみられる。

 目撃者によると、ワリャーグは29日午前、艦載機を載せないでタグボートにえい航されて出港。地元関係者によると、近海では船舶の航行禁止区域が設定されておらず、艦載機の発着訓練は行われないとの見方が強い。

 米国がオーストラリア北部での米海兵隊員の常駐方針を打ち出すなど、国際社会が中国軍の海洋進出をけん制する動きを強める中、試験航行は中国にとって、海洋権益確保に向けた強い姿勢を示す狙いもありそうだ。出港に先立ち、同港を見渡せるホテルには地元当局者が訪れ、ワリャーグの撮影を禁じた。


 中国初の空母「ワリャーグ」が29日、試験航行のため遼寧省の大連港から出港した、と報じられています。



 中国は空母を実戦配備するための準備を、着々と進めているようです。

 日本ではなぜか、日本が軍備を増強すれば中国は「やむなく」軍事力を強化せざるを得なくなる。そうなれば、軍拡競争が始まってしまう。それを防ぐためには、日本は軍事力を強化すべきではない、日本は率先して軍備を放棄すべきだ、といった意見が主張されたりもしていますが、

 日本がどうあれ、中国は「積極的に」どんどん軍拡を続けているわけです。

 日本はそろそろ、「日本が軍備を放棄すれば、中国は軍事力を強化しない」といった考えかたを捨てるべきではないかと思います。



 なお、報道文中には「ワリャーグの撮影を禁じた」とあります。中国が撮影を禁じたワリャーグとはどのような空母なのか。

 それを知りたければ、ぜひ、「中国、空母の実戦配備寸前」をご覧ください。

 映像(動画)が公開されています。



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米韓FTAの批准手続が完了

2011-11-30 | 日記
産経ニュース」の「米韓FTA、李明博大統領が署名 1月1日発効へ批准手続き完了」( 2011.11.29 20:39 )

 【ソウル=加藤達也】韓国の李明博大統領は29日の閣僚会議で米国との自由貿易協定(FTA)関連法案に署名した。これにより米韓FTAは双方での批准手続きが完了。両国は来年1月1日の発効を目指し、最終調整作業に入る。

 作業ではFTAの合意条件を履行する上で障害となる法令や規制などが相手国にないかどうか相互に確認する。

 米韓FTAでは韓国内に「国家・投資家間における訴訟制度(ISD)」に対する警戒感が強く、同意案の処理が大幅に遅れた。このため米韓両国はISDについてFTA発効後90日以内に再協議することで合意しているが、再協議の内容がどの程度反映されるかは不透明だ。

 一方、最大野党・民主党はISD撤廃の主張を変えておらず、金(キム)振(ジン)杓(ピョ)院内代表は同日「批准無効化に向けた法的、政治的闘争を加速させる」と述べた。


 米韓自由貿易協定(FTA)の批准手続が完了した。韓国内には「国家・投資家間における訴訟制度(ISD)」に対する警戒感が強い、と報じられています。



 日本では、いま、TPP参加問題が論じられています。

 今回、米韓FTAの批准手続が完了したことは、日本にとって好都合だと思います。

 なぜなら、米韓FTAによって、韓国経済はどうなるのか、米国の韓国に対する態度はどうか、などをみつつ、日本はTPP参加の是非を判断できるからです。



 なお、TPP反対を主張している有名ブログのなかには、「条約と国内法の優先順位」を大々的に取り上げているものがありますが、

 日本のTPP参加の是非を判断するうえで、この問題はさほど重要ではないでしょう。

 なぜなら、「条約と国内法の優先順位」がどうであれ、「条約は、国会で批准されなければ成立しない」からです。かりに内閣が暴走して国民の意思(=国会の意思)に反した条約を締結しようとしたなら、「国会が批准しなければよい」だけの話です。



 ところで、韓国人が恐れる「国家・投資家間における訴訟制度(ISD)」とは何でしょうか? 日本においても、TPP反対派のなかにはISD条項を恐れている人々がいるので、ISD条項のもつ意味は重要です。

 そこで、次の報道を引用します。



産経ニュース」の「韓国議会、米韓FTA法案を可決 催涙弾や怒声で議場は大混乱」( 2011.11.22 19:25 )

 【ソウル=加藤達也】韓国の与党ハンナラ党は22日、採決をめぐり与野党間で激しい攻防が続いていた米国との自由貿易協定(FTA)の批准同意案を、緊急招集された国会本会議で強行採決し可決、成立させた。米国側は批准手続きを10月に終えており、米韓FTAは李明博大統領が目指していた来年1月にも発効する。

 強行採決に最大野党・民主党が今後の全国会日程のボイコットを宣言するなど政権との対決姿勢を一層強めており、政権は厳しい国政運営を迫られそうだ。

 野党側はFTA発効で「社会の二極化が進む」などと反発していたが、処理が停滞した最大の理由は条項に盛りこまれた「国家・投資家間における訴訟制度(ISD)」に対する警戒感が大きかったためだ。

 ISDは投資家が不利益を被ったと認識した場合、投資先国の裁判所ではなく国際仲裁機関に提訴できる制度。企業の海外投資が多い韓国側に有利な側面もあるが、反対派は「政府や地方自治体が訴訟対象となる可能性があり、敗訴すれば国民にツケが回る」として削除を要求していた。

 事態の収拾のため、李明博大統領は国会を訪問。与野党に協力を要請し、発効3カ月以内の再交渉という妥協案も示すなど異例の対応に出たが、野党側は同意しなかった。22日の本会議には与野党議員170人が出席。怒号の中、採決直前に野党議員が催涙弾を投げるなど一時混乱したが、賛成151票で可決された。


 「ISDは投資家が不利益を被ったと認識した場合、投資先国の裁判所ではなく国際仲裁機関に提訴できる制度である」と報じられています。



 どちらか一方の国に属する裁判所ではなく、第三者、すなわち国際仲裁機関に提訴できる制度にすることが、なぜそんなに問題になるのでしょうか? もともと非関税障壁を設けて、「自国に有利になるように、ズルいことをしよう」とでも考えていないかぎりは、とくに問題とするほどのことではないと思います。



 ところで、報道文中には、米韓FTA批准同意案は「怒号の中、採決直前に野党議員が催涙弾を投げるなど一時混乱したが、賛成151票で可決された」とあります。

 国会で、国会議員が「催涙弾を投げる」というのも凄いですね。日本の没落・韓国の追い上げが主張されたりもしていますが、

 韓国の民度がこの程度だとすれば、「日本はまだまだ、韓国に追いつかれてはいない」といえるのではないかと思います。


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ケンベイミヤギ、福島県産のコメを別産地として販売

2011-11-29 | 日記
河北新報社」の「仙台の米穀卸「ケンベイミヤギ」 産地や銘柄を不正表示」( 2011年11月29日火曜日 )

 米穀卸の宮城県内大手、協同組合ケンベイミヤギ(仙台市太白区、岡部英之理事長)が一般消費者向けの精米商品で、実際とは異なる産地や銘柄を表示し、販売していたことが28日、分かった。東北農政局や宮城県など関係機関は日本農林規格(JAS)法違反などの疑いがあるとして、ケンベイへの立ち入り調査を実施。行政指導・処分の検討に入った。
 関係者によると、ケンベイは2010年から11年にかけて(1)福島県産のコシヒカリやひとめぼれを宮城県産と表示(2)一般の宮城県産ササニシキを同県産の特別栽培米ササニシキと表示(3)未検査米を青森県産つがるロマンや宮城県産みやこがねもちと表示―するなどして販売した疑いが持たれている。
 農政局などの調査に対し、ケンベイは事実と異なる表示をしたことを認めているという。
 調査では、ケンベイが仕入れや出荷などの帳簿や台帳を適正な形で作成・保管しておらず、取引の実態が不明確なことも判明。宮城県は、取引記録の作成・保存を義務づけた米トレーサビリティー法に抵触する疑いもあるとみている。
 ケンベイの岡部理事長は河北新報社の取材に対し、「経営改善のための大幅な人員削減や東日本大震災後の混乱の中で表示ミスが起きた。管理不十分と言われれば返す言葉がないが、意図的な偽装ではない」と説明。「消費者には申し訳ない結果になったという気持ちはある」と話した。
 ケンベイミヤギは1951年、宮城県米穀卸販売協同組合として設立。91年に塩釜米穀卸協同組合と合併し、現在の名称となった。組合員は小売業者などの108人(2010年度)。帝国データバンクや東京商工リサーチによると、11年3月期の売上高は約13億3000万円。


 宮城県内大手の米穀卸、協同組合ケンベイミヤギ(仙台市太白区、岡部英之理事長)が一般消費者向けの精米商品で、実際とは異なる産地や銘柄を表示し、販売していた。ケンベイは事実と異なる表示をしたことを認めている、と報じられています。



 以前、日本の米流通には「ウソがある」といった話を聞いたことがあります。
ケンベイは2010年から11年にかけて(1)福島県産のコシヒカリやひとめぼれを宮城県産と表示(2)一般の宮城県産ササニシキを同県産の特別栽培米ササニシキと表示(3)未検査米を青森県産つがるロマンや宮城県産みやこがねもちと表示―するなどして販売した疑いが持たれている。
と報じられているところからみて、今回の事件もそのひとつにすぎないのでしょうが、

   福島県産のコメを宮城県産と表示していた

というところに、ひっかかるものがあります。福島第一原発事故と、なんらかの関連があるのではないか、と(私は)疑っているのです。

 もちろん、報道によれば「2010年から11年にかけて」とあり、「原発の事故前から」福島県産を宮城県産と表示していたことはわかるのですが、関連性が「まったくない」とはいえないでしょう。



 ケンベイの岡部理事長は「経営改善のための大幅な人員削減や東日本大震災後の混乱の中で表示ミスが起きた。管理不十分と言われれば返す言葉がないが、意図的な偽装ではない」「消費者には申し訳ない結果になったという気持ちはある」と話しているということですが、

 そもそも、なぜ、「消費者には申し訳ない結果になったという気持ちはある」という言いかたをするのでしょうね? 「消費者には申し訳ない結果になったという気持ちはある」という言いかたをするところに、

   ケンベイの岡部理事長の、
    「謝りたくない」という気持ちが現れている

と思います。単純に、「おわびします」となぜ、言えないのでしょうね?



 「意図的な偽装ではない」のかもしれませんが、私はなぜか、「グリーンファーム社長の言い分」を思い出してしまいます。



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習近平の父、仲勲の教育方針

2011-11-29 | 日記
茅沢勤 『習近平の正体』 ( p.33 )

 少年時代の近平の生活は父母の愛にはぐくまれ、建国から間もなく貧しい中国の他の少年少女らと比べても、家庭や教育環境は整った恵まれたものだった。ただ、仲勲の子供らへのしつけは厳しかった。近平ら4人の兄弟姉妹は自分で洗濯をするなど、自分でできることは全部自分でしなければならなかった。
 仲勲は倹約家で、無駄遣いにはうるさかった。近平は自身の子供時代を書いた文章のなかで、「私や弟の遠平の衣服はだいたい2人の姉のお下がりだった」と当時を回想している。
「このため、私たち兄弟の衣服は花柄や赤地の衣類が多かった。また、当時は『布靴(プーシエ)』と呼ばれた通り布製の靴をはいており、やはり赤い布を使ったり、花柄の模様が付いたりしていたため、それらの衣服や靴をつけて小学校に行くのが恥ずかしかった。私は断固拒否した。これを見た父(仲勲)は『それならば、赤い靴に墨を塗ればよいではないか』と言って、靴を墨汁で染めさせたほどだ」
 仲勲は当時、党・政府の大幹部だったので、人民大会堂や天安門で行なわれる晩餐会などの行事に家族で呼ばれることが多かったが、その際、会場の受付や警備担当者が近平ら習家の子供の粗末ななりを見て、「この子たちはどこの家の子だ」といぶかしがる光景もたびたびだった。近くにいた幹部らが「それは習仲勲の子供たちだ」と言うのを聞いて、近平らはようやく会場に入ることができたというほどだった。
 また、仲勲は金銭の支出にうるさかった。仲勲の当時の秘書・張志功は、「子供たちがバスに乗ったり、アイスキャンディを食べたりしても、それをいちいち報告しなければならなかった。毎月の月末には仲勲に支出簿を提出することが義務付けられていた。仲勲はそれを仔細に吟味して、アイスキャンディ1個はいくらだったか、などと細かく尋ねてきた」と思い起こしている。
 仲勲は教育にも厳しかった。特に共産党幹部らしく、「革命」について近平らが小さい頃から、びしびしと叩き込んだようだ。
「父は私たちが家にいると、『自分がどのようにして革命に参加したのか』『今後、お前たちがどのようにして革命を引き継いでいかなければならないのか』『革命とはいったいどのようなものか』などと話し始めた。そのような話は私たちはもう耳にタコができるほど聞かされていた。ある時は、遊びたいのに、そのような話を聞かされて、もう嫌だったが、どこに行くこともできず、ずっと我慢するしかなかった。それでも、そうやって父が話をしてくれたことで、私たちは知らず知らずのうちに影響を受けていたのである」
 近平は仲勲の話のなかで、特に「団結」についての話が印象深かったようだ。
「父は口癖のように、『革命をするには、自分が嫌なことを人に押し付けるようなことは絶対にするな』とか、『人によくすれば、それが自分のところに回ってくる』と言っていた。また、『すべてにおいて団結が最も重要だ。1人では何もできない。団結があれば、すべてはうまくいく。もし、団結できなければ、すべてはダメになる』と。これは、私が後に政治の世界に飛び込んでから本当にその通りだと感じたし、父の話を聞いていて、本当に良かったと思う」
 近平はこう振り返っている。中国で言う「団結」とは、人間関係のようなものであり、一つの目的に向かって他の人々と協力する関係を構築できるかどうかということだろう。近平は後年、河北、福建、浙江の各省や上海市の幹部時代、常に周りのことに気を遣い、円滑な人間関係を築いていた。少なくとも相手に嫌われるような関係にならないよう気を配った。これが、中国の最高指導者への道を歩むうえで重要な要素になったことは間違いない。


 習近平の幼少時代における、父・仲勲の教育方針について書かれています。



 これを読むかぎりでは、共産主義という主義主張の点では私と異なるものの、

 習近平の父、仲勲は「立派な人間」だったと思われます。もちろん私のいう「立派な人間」とは、社会的地位や肩書きなどではなく、人格のことです。

 もっとも、男の子に「花柄や赤地の衣類」を着せたり、「赤い布を使ったり、花柄の模様が付いたりしていた」靴をはかせるのはどうかとは思いますし、「恥ずかし」さのあまり「断固拒否した」息子に対して、「『それならば、赤い靴に墨を塗ればよいではないか』と言って、靴を墨汁で染めさせた」などは、さすがにいかがなものかと思います。これは行き過ぎであり、習の父、仲勲にはある種の「頑固さ、意固地さがあった」とはいえるでしょう。

 けれども「革命」について子供に話し続ける姿や、「革命」を成し遂げるうえで必須の「団結」について話し続ける姿には、本物の信念が感じ取れます。上記「頑固さ、意固地さ」も、「革命」のためには「倹約」し「無駄遣い」をしない生活が重要である、という信念の現れであるところから、

 全体としてみて、習の父、仲勲は人格者だったといってよいと思います。



 ここで習近平について考えれば、

 このような父の下で育った習近平に、ある種、「思想に凝り固まった人間」あるいは「頑固者」であるという面があるとしても、おかしくありません。その可能性は十分にある、といってよいでしょう。とすれば、「曾慶紅、リー・クアンユーによる習近平の評価」でいったんは却下した可能性、すなわち習近平には上記性格があるという可能性は、現実味を帯びてくると思います。

 とはいえ、習近平が父について述懐しているところによれば、
「父は口癖のように、『革命をするには、自分が嫌なことを人に押し付けるようなことは絶対にするな』とか、『人によくすれば、それが自分のところに回ってくる』と言っていた。また、『すべてにおいて団結が最も重要だ。1人では何もできない。団結があれば、すべてはうまくいく。もし、団結できなければ、すべてはダメになる』と。これは、私が後に政治の世界に飛び込んでから本当にその通りだと感じたし、父の話を聞いていて、本当に良かったと思う」
というのですから、一言でいえば、

   習近平は素直である

といってよいと思います。「思想に凝り固まった人間」あるいは「頑固者」という側面があるとしても、そのような側面はわずかであると考えられます。この解釈は曾慶紅の言葉「習近平は各方面から受け入れられるだろう」とも合致します。



 最後に、著者は
近平は後年、河北、福建、浙江の各省や上海市の幹部時代、常に周りのことに気を遣い、円滑な人間関係を築いていた。少なくとも相手に嫌われるような関係にならないよう気を配った。これが、中国の最高指導者への道を歩むうえで重要な要素になったことは間違いない。
と書いていますが、

 この解釈は、「曾慶紅、リー・クアンユーによる習近平の評価」に書いた私の解釈、「(習近平は)誰ともうまくやっていける人間である」とも合致しています。(他の点はともかく)この点については、おそらく間違いないと考えられます。



 なお、習近平の幼少時の家族構成については、上記「曾慶紅、リー・クアンユーによる習近平の評価」に簡単な説明があります。そちらもぜひ、ご覧ください。



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