言語空間+備忘録

メモ (備忘録) をつけながら、私なりの言論を形成すること (言語空間) を目指しています。

中国脅威論は当然である

2010-12-31 | 日記
中国語翻訳者のつぶやき」の「中国は「脅威の対象」なのか

ネットで良く見られる「中国脅威論」。これは中国を良く理解していない日本人を含めた西側の人間の恐怖心理を良く反映させた論だとわたしは考えます。

「中国は得体の知れない国だ」「中国人はなに考えているか分からない」。この焦りからくる「怖い」という心理は、中国、そして中国人の心理や行動様式を掘り下げて探求していけば大体が解決できるものだと私は考えています。このためにわたしは、これまでも中国人の考え方を当ブログで色々と紹介してきました。

その中でもわれわれが一番心に留めておくべきなのは、多くの中国人に存在する「ウチ」と「ソト」の観念でしょう。この「ウチ」と「ソト」で中国人の考え方が全く違うというのは良くあることであり、これをしっかり理解しないことには、中国人を誤解してしまうことになります。

例えば中国人同士でも、普通語ではフレンドリーに会話していても、別の同郷者とお国の言葉を話し出すと普通語を話している本人をバカにする言葉を連発したりすることは良くあります。これはやはり、中国人自身が「ソト」の顔と「ウチ」の顔を使い分けているためだといえます。逆に「ウチ」同士になれば、良いことも悪いことも、赤裸々に話せる仲になることができます。

そしてこの行動様式は中国政府の外交、内政にも表れているとわたしは考えます。表向きには「強い中国」を演じていても、ウチではこそこそと取り繕うといったことを度々行っています。これに「プライド」がついてしまうと「面子」という言葉になるのでしょうが、とにかく中国政府は「ウチ」の顔と「ソト」の顔を上手く使い分けて、60年余りにわたって人民を統治し続けているということを、わたしたちはしっかりと理解しておく必要があります。

この「ウチ」と「ソト」の概念が好ましいものなのかどうかという議論は、中国自身にやってもらうとして、わたしたちはあくまで中国の「ソト」の顔にだまされず、しっかり「ウチ」の顔を理解しなければなりません。

(中略)

「相手を知れば何も怖くない」という言葉は真理だと思います。わたしも含め「中国を知りたい」と思う人がもっと増え、「中国脅威論」がいつかなくなることを望んでいます。


 中国は「ウチ」と「ソト」を使い分ける。中国の「ソト」の顔にだまされず、「ウチ」の顔を理解すれば中国は怖くない。「中国脅威論」がいつかなくなることを望む、と書かれています。



 ブログ主の「明天会更美好」さんは、中国人と接してきた経験をもとに、中国人は「ウチ」と「ソト」を使い分ける。したがって中国の「ウチ」と「ソト」を理解すれば、中国の本音がわかる。それがわかれば中国は怖くない、と書かれているのですが、

 「中国人個人」についての話を、「中国政府」に拡大して考えるのは、いかがなものかと思います。

 「中国政府」は「中国人個人」の集合体ではありますが、政治レベル・国家レベルの話は、個人レベルの話とは次元が異なってくると思われます。つまり、個人が集まった単位である政府のレベルでは、状況が異なってくるのではないかと思われます。



 現に中国は、チベットを侵略しています。

 そしてまた、中国は日本に向けて、核ミサイルの照準を合わせていると言われています。つまり、いつでも日本に核を撃ち込める態勢をとっているわけです。

 このような状況を念頭に置いて、中国に対していかに接するべきかを考えなければなりません。



 個人間のつき合いと国家間のつき合いとでは、状況がかなり異なることを忘れてはならないと思います。

DVD-R はフォーマットしない

2010-12-31 | 日記

 なぜかこのところ、コンピュータの調子がおかしいので、更新が「いきなり」止まるかもしれません。



 とりあえずデータのバックアップをとりました。その際、初めて知ったのですが、

   DVD-R はフォーマットせずに使う!!

のだそうです。し、しらなかった。。。

核廃絶は世界を危険にする(報復用の核は必要)

2010-12-29 | 日記
西部邁・宮崎正弘 『日米安保50年』 ( p.261 )

(西部) 核武装についてもう少し論じてみようと思います。まず確認しなければならないのは、核廃絶が世界で行われたら、それが最も恐ろしい瞬間であるというロジックを押さえるべきです。なぜならば、仮にアメリカとロシアのそれぞれ一万発近くも、中国の二百四十発のものも全部解体されたとしても、核兵器に関する知識そのものは廃絶不可能です。そして、誰かが、たとえば宮崎さんが核兵器を密かに作れば、極論すると、世界は宮崎帝王のもとに服従しなければいけなくなるからです。そういう恐ろしい段階まで文明が来ているということを、まず押さえなければいけない。
 第二に、政治家も含めて、軍事判断が正しいかどうかは保証の限りではないということがあります。アメリカのイラク戦争が非常に示唆的だったのですが、アメリカはあの時、間違いなくフセインが大量破壊兵器を持っていると考えていた。しかし結局見つかりませんでした。そうすると、人間は未来を予測できないということと関係があるのですが、未来についての判断において国家も誤謬(ごびゅう)を犯し得るのです。このままいけば相手が自分を襲うはずだという予測の下に、軍事専門用語で言うところのファーストアタック、先制攻撃をこちらから予防的(プリベンティブ)に仕掛ける、つまり先制攻撃(プリエンプション)です。ところが、その判断が間違っている可能性があるわけです。
 核兵器の恐ろしさは、間違った判断で一発ぶちこんで三十万、五十万を殺してしまったら、これはヒューマニズムで言うのではなくて、国際社会にあるべき冷静なルールからして、「あの国は間違った判断で、敵国ないし仮想敵国の国民を何十万、何百万と殺してしまった」ということになって、その国家のレーゾンデートル、生命線に関わる問題になってきます。そう考えると、厄介なことに核兵器は、核武装をやるときには、いわゆるセカンドアタックとしてしか使えないのです。ということは報復です。リタリエーション、相手が撃ち込んできたことに対する報復としてしか使えない。そう憲法に明記しなければいけないということです。
 第三に、さらに厄介なのは、核兵器を持つときには、日本人はそれを持つ理由としてファーストアタックは甘受するわけです。そうすると、何十万、何百万殺された暁に初めて立ち上がるということになります。逆に言うと、日本人は絶えずものすごく強い国防意識を保持して、その延長において、何十万人、何百万人をファーストアタックで殺されることも覚悟したうえで核を持つのだという話になってくるのです。これは日本民族に限った話ではありません。各国民がそうあるべきだと僕は思います。
 これらは非常に厄介なことですが、いくら厄介なことでも、僕は知識人として繰り返し言い続けなければならないのが核をめぐる予測の困難性という問題だと思うのです。


 第一に、核廃絶が世界で行われたときが最も恐ろしい。第二に、核兵器は報復としてしか使えない。これは憲法に明記しなければいけない。第三に、核兵器を持つときには敵国からの先制攻撃は甘受しなければならない、と書かれています。



 世間では、核廃絶は「よいこと」だ、といった考えかたが有力だと思います。これは核廃絶論者にかぎらず、核武装論者においても一般的な考えかたなのではないでしょうか。

 つまり核武装論者も、核廃絶そのものを否定しているわけではなく、核廃絶はよいことだが不可能であり、「やむなく」日本も核武装すべきだ、と考えているのではないかと思います。

 ところが著者(西部)は、核廃絶は「恐ろしい」ことである、と主張しています。要は、
物理的に核兵器がなくなったところで、核兵器を作る知識、製造方法はなくならない。したがって誰かが核兵器を作れば、世界はその誰かに服従しなければならなくなる。世界はその誰かに対抗するための核を持っていないからである
ということですが、これはまさにその通りではないかと思います。

 誰かが核兵器を作ったら「そのときに」世界もまた、対抗するために核兵器を作ればよい、とも考えられますが、やはり核兵器を作るためには、それなりの時間が必要でしょう。つまり、世界は「ただちに」対抗する手段を持たない、ということです。とすれば、世界は「誰か」に服従しなければならなくなる危険性が高く、核兵器がなくなると、かえって世界は危険になると言ってよいと思われます。

 著者の着眼点は凄いと思います。



 次に、核兵器は報復としてしか使えない、という点についてですが、これは「あきらか」でしょう。というか、いまの日本に、「先制攻撃用に」核兵器を使おうと考えている人はおそらくいないのではないかと思います。

 ところで、相手が通常兵器で攻撃してくれば、こちらも通常兵器で防戦することになります。

 とすれば、立場を逆にして、「相手も」核兵器を撃ち込んでくることはありえない、と考えられるならば、核兵器は必要ないことになります。

 しかし、相手も先制攻撃用に核兵器を使わないという保証はないので、やはり核兵器は必要なのではないかと思います。



 第三の点、すなわち核兵器を持つときには、敵国からの先制攻撃を甘受しなければならない、という点については、

 核兵器を持っていない場合にも、やはり先制攻撃を甘受しなければならない以上、「核兵器を持つときには」先制攻撃を甘受しなければならないとは言えないでしょう。

 核兵器を持っていれば「攻撃されやすくなる」というなら、著者の主張も成り立ちうるとは思いますが、核兵器を持っていれば「攻撃されにくくなる」と考えるのが普通だと思います。

 したがって、最後の点については、著者の主張には説得力が欠けているのではないかと思います。おそらく、核武装したところで「攻撃される可能性はなくならない」ので、核武装すれば安全であるなどと考えてはならない、といったことを意味されているのだろうとは思いますが、それは言うまでもないこと、当然のことではないでしょうか。



 以上より、著者の主張のうち、
  1. 核廃絶は世界を危険にする、したがって核廃絶を目指すことは現実的でないばかりか、目指すことそのものが(論理的に)間違っている可能性が高い、
  2. 核兵器は先制攻撃用に使ってはならないと憲法に明記すべきである、
という部分だけはその通りであり、正しいと考えてよいのではないかと思います。

実戦経験がない軍隊は弱い

2010-12-27 | 日記
西部邁・宮崎正弘 『日米安保50年』 ( p.253 )

(宮崎) 人間組織としての軍隊というご指摘がありました。軍には存立理由があるけれども、常に実戦経験を積まないと世代交代が起きて、軍は滅びてしまいます。中国の軍が実はそうなのです。朝鮮戦争以来、あの軍は対外戦争をしていません。中越戦争は華南の部隊が行っただけの地域限定戦争でした。そうすると、肥りきった官僚機構の中で、日本の自衛隊と同じようにサラリーマン化していきます。
 アメリカは常に戦争をしているから、非常にビビッドな軍です。そのうえ、軍の中にグリーンベレー(米陸軍特殊部隊)や海兵隊(マリーン)などエリートの層があって、ヒエラルキーがはっきりしています。そうすると戦う時も非常に強いし、精神も大事ですが、装備とか給与という条件もモラル、士気に影響します。その両方をアメリカは持っています。


 軍隊は常に実戦経験を積まないと世代交代によって弱くなってしまう。アメリカは常に実戦経験を積んできているが、中国には実戦経験がない、と書かれています。



 たしかにこれはあるかもしれません。

 安全が保証されている「模擬演習」と、何が起こるかわからない「実戦」とでは、まったく違うでしょう。

 いかにシミュレーターが発達したとはいえ、やはり実戦に勝る経験はないと思います。



 中国の軍事力を考えるうえで、これは重要な視点ではないかと思います。

核兵器や軍事力がなければ対等な交渉ができない

2010-12-27 | 日記
西部邁・宮崎正弘 『日米安保50年』 ( p.233 )

(西部) 核や一般に軍事の問題を考えるとき、僕が大事だなと思うのは、人間および国民の心理学です。相手が核を持っている、あるいは強大な武器の集積があるとなった場合、確かに核兵器をはじめとする大量破壊兵器はそう簡単に使われないものですし、日本がよほど挑発的な行動をしない限り、めったに使えないものです。ところが、人間というのは個人も国民も、相手が莫大な金を持っているとか膨大な武器を持っ足いるとかが分かると、持っていない側は否応なく臆病になり、遠慮を持って行動せざるを得ないという、当たり前の心理的力学が始まるのです。
 中国は日本にいつでも核ミサイルを発射できる態勢を整えている。こうなった場合、日本の外交は、経済外交、文化外交まで含めて、活局は中国に対して及び腰となり、相手の無理難題を致し方なく受け入れるという局面が起こってきます。そういうことは、実は自分自身の単純な日常生活を振り返ればよく分かるはずのことです。
 これは金だけではなくて地位もそうです。社長でも重役でもいいですが、相手が高い地位にあれば、その前ではヒラたる者、この重役は大したことないとか、品格においても劣るところなかりしかと思っていたとしても、必ず遠慮して、ぎりぎり会社を辞めるまでは我慢するものです。そういう素朴な心理学が国際外交の心理学として出てくる。もちろん、その背後には、ひょっとしたら相手が武器を使うかもしれないという恐れがあるかもしれない。しかしそこまで言わなくても、相手が強大な武器を持っていたら、それだけで持っていない側は遠慮するものだ、そして遠慮した結果、さまざまなる不利益が自分に襲いかかるものだということ、実はその程度のことすら今の日本では、国民レベルは元より政治レベルでも全く確認されていないのです。


 人間にしろ国家にしろ、相手が強ければ (強大な武器を持っている、金を持っている、高い地位にあるなど) 、相手の無理難題を受け入れるという局面が必ず起こってくる。それが人間の心理である、と書かれています。



 これはその通りだと思います。

 さきの尖閣沖漁船事件においても、日本政府 (民主党) は船長を釈放して中国の無理難題を受け入れる方向に動きました。その背景には、官房長官の思想傾向など、さまざまな要因が作用していたことは間違いありませんが、日本政府 (民主党) が中国を恐れた可能性も、あながち否定できないのではないでしょうか。

 つまり日本が核武装したり軍事力を強化したりしないかぎり、中国の「いいなり」になってしまう可能性が大きい、ということです。

 著者(西部)は身近な例をあげて、この人間心理を説明しています。この説明も適切だと思います。



 私の身近な例でいえば、私が「法律上の権利」を行使しようとしたところ、一弁の湯山孝弘弁護士から「で~きな~いから~あ」と言われたことがあります。

 あとで何度か、(それぞれ別の機会に) ほかの弁護士さん数人に確認したところ、やはり「法律上の権利」であって、(権利行使)できないというのはおかしい(=権利行使できる)、ということが判明したのですが、

 法律の専門家である弁護士さんから、(それがウソであったとしても) 自信満々に威張りながら「で~きな~いから~あ」と言われれば、「え? そうなのかなあ? 権利行使できないのかなあ?」「これは法律上の権利ではないのかなあ?」と、素人としては不安になってしまうものです。

 このように考えると、著者の説明(人間心理)は、まことに適切である、と言ってよいのではないかと思います。



 なお、一弁の湯山孝弘弁護士からは、意味ありげに笑いながら小馬鹿にしたように「でえっ、きないから~あ」とも言われたので、湯山弁護士は人間性に問題があるのかもしれません。

 (湯山弁護士が無知で、簡単な法律的知識さえも持っていないのであれば、トンチンカンな意見を大威張りで主張されたことは仕方がないとしても) たんに、「(権利行使)できません」と言えばよいことだからです。それが普通の、まともな人間の態度ではないでしょうか。



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