言語空間+備忘録

メモ (備忘録) をつけながら、私なりの言論を形成すること (言語空間) を目指しています。

GDPの国際的格差と生活の質

2011-07-30 | 日記
N・グレゴリー・マンキュー 『マンキュー入門経済学』 ( p.225 )

 GDPは一度に二つのものを測定する。一つは、経済の全員の総所得であり、もう一つは、経済の財・サービスの産出への総支出である。GDPが総所得と総支出の両方を測るという芸当を演じることができるのは、この二つのものが実は同じものだからである。経済全体において、所得と支出は等しくなければならない。


 GDPとは、国民の総所得であり、かつ、総支出でもある、と書かれています。



 これはわかるのですが、問題は、「なぜGDPが重要なのか」です。



同 ( p.245 )

 経済的福祉の尺度としてのGDPの有用性を評価する一つの方法は、国際的なデータを調べることである。豊かな国と貧しい国では、1人当たりのGDPは大きく異なる。もしGDPが大きいことが生活水準を高めるのであれば、GDPは生活の質の尺度と強い相関関係にあることが観察されるだろう。事実、そうなのである。
 表8-3は世界の最も人口の多い12ヵ国を1人当たりGDPの大きい順に示したものである。この表は平均寿命(出生時における期待余命期間)と識字率(文字が読める成人の割合)も示している。このデータは明確なパターンを示している。アメリカ、日本、ドイツなどの豊かな国々では、人々は70代後半まで生き長らえるという期待をもつことができ、そして人口のほとんど全部が文字を読むことができる。ナイジェリア、バングラデシュ、パキスタンなどの貧しい国々では、人々は典型的には50代または60代前半までしか生きられず、そして人口の約半数しか文字を読むことができない。
 生活の質の他の側面に関するデータはあまり完全なものはないが、それでも同じことを物語っている。1人当たりGDPが小さい国々のほうが、出生時の体重の少ない新生児が多く、乳幼児死亡率が高く、周産期死亡率が高く、児童の栄養不良率が高く、安全な飲料水の共用可能性が低い。1人当たりのGDPが小さい国々のほうが、学童年齢の児童で実際に存学しているものはより少なく、在学している児童は生徒1人当たりにつきより少ない教師の下で学ばなければならない。また、このような国々では、テレビ、電話、舗装された道路、電気のある家庭も少ない傾向にある。国際的なデータは、一国のGDPが国民の生活水準と密接に結びついているということについて疑問の余地を残さない。


 国際的に比較すれば、1人当たりのGDPが大きいほど、国民の生活水準も高い傾向にある、と書かれています。



 引用文中の表を引用します。



★表8-3 GDP、平均寿命、識字率

国  1人当たり実質GDP 平均寿命 成人識字率
     (1999年、ドル)   (年)    (%)

アメリカ    31,872    77     99
日本      24,898    81     99
ドイツ     23,742    78     99
メキシコ     8,297    72     91
ロシア      7,473    66     99
ブラジル     7,037    67     85
中国       3,617    70     83
インドネシア   2,857    66     86
インド      2,248    63     56
パキスタン    1,834    60     45
バングラデシュ  1,483    59     41
ナイジェリア    853    52     63



 たしかに、上記の表を見るかぎり、著者が述べているように1人当たりのGDPが大きいほど、生活水準も高い傾向にあります。しかし、それはなぜなのでしょうか?

 GDPとは国民の総所得であり、かつ、総支出でもある、というのですから、1人当たりのGDPが大きいほど、「たくさん稼いで、たくさんお金を使う」状態になっているはずです。したがって、「少しだけ稼いで、少しだけお金を使う」状態(=1人当たりGDPの小さい経済)と、「たくさん稼いで、たくさんお金を使う」状態(=1人当たりGDPの大きい経済)を比べれば、後者のほうが、より「比較優位の原理」に基づく「交易による利益」が得られるからではないかと推測されます。



 ところで、1人当たりGDPとは、要は国内に流通する貨幣の量(と速さの積)であると考えられます。とすれば、流通する貨幣の総量が大きいとき、すなわちバブルのときには、(普段よりも)国民の生活水準も高くなるはずです。

 実際、そのような傾向がみられますが、それならなぜ、バブルが問題視されるのでしょうか? 「バブルはいつかはじける。はじけたら困るじゃないか」と言われればそれまでですが、それは要するに、「景気がよくなりすぎると(後で)困るじゃないか」と言っているのと同じですよね。「生活水準が上がりすぎると(後で)困るじゃないか」と言われても説得力がないような。。。 変だと思いませんか?

ピグー税と汚染許可証を比べれば

2011-07-29 | 日記
 以下の引用は、「ピグー税と汚染許可証」の続きです。



N・グレゴリー・マンキュー 『マンキュー入門経済学』 ( p.212 )

 汚染許可証を用いて汚染を減少させる方法は、ピグー税を用いる方法とまったく違うようにみえるかもしれないが、実際には、二つの政策は多くの共通点をもっている。どちらのケースも、生業は汚染を排出するために支払いをする。ピグー税の場合には、汚染する企業は政府に税金を支払わなければならない。汚染許可証の場合には、汚染する企業は許可証を手に入れるために支払いをしなければならない(すでに許可証をもっている企業も、汚染するためには支払いをしなければならない。汚染の機会費用は、その許可証を公開市場で販売していれば得られたはずの金額である)。ピグー税と汚染許可証は、どちらも企業が汚染するのに費用がかかるようにすることで、汚染の外部性を内部化するのである。
 二つの政策の類似性は汚染の市場を考察するとよくわかる。図7-4の二つのパネルには、汚染権の需要曲線が示されている。この曲線は、汚染の価格が低いほど、汚染する企業が増えることを示している。パネル(a)では、環境保護庁は汚染の価格を設定するのにピグー税を用いている。この場合、汚染する権利の供給曲線は完全に弾力的であり(企業は税金さえ支払えばどのような量でも汚染することができる)、需要曲線の位置が汚染の量を決定する。パネル(b)では、環境保護庁は汚染許可証を発行することで汚染の量を設定する。この場合、汚染する権利の供給曲線は完全に非弾力的であり(汚染の量は許可証の数で固定される)、需要曲線の位置が汚染の価格を決定する。したがって、汚染の需要関数がどのように与えられても、環境保護庁はピグー税によって価格を設定するか、汚染許可証によって汚染の量を設定することで、需要曲線上のどのような点にでも到達することができる。


 ピグー税と汚染許可証には、多くの共通点がある。両者の違いは、ピグー税は(政府が)汚染の価格を設定し、汚染許可証は(政府が)汚染の量を設定するところにある、と書かれています。



 引用文中の図を示します。



★図7-4 ピグー税と汚染許可証の同等性

(a) ピグー税

 汚染の価格
   *           
   * xx           
   *  xx          
   *   xx         
   *    xx        
   *     xx    ピグー税
 P * xxxxxxxxxx●xxxxxxxxxxx 
   *      :xx     
   *      : xx    
   *      :  xx   
   *      :   xx  
   *      :    xx 
   *      : 汚染権への需要
   ****************************
  0       Q     汚染の量


(b) 汚染許可証

 汚染の価格
   *     汚染許可証の供給
   * xx    x       
   *  xx   x       
   *   xx  x       
   *    xx x       
   *     xxx    
 P *・・・・・・・・・・・・●      
   *      x xx     
   *      x  xx    
   *      x   xx   
   *      x    xx  
   *      x     xx 
   *      x  汚染権への需要
   ****************************
  0       Q     汚染の量



 要は、(汚染権に対する)需要と(政府または社会が認める汚染の)供給によって、汚染の価格と量が決定される以上、

   ピグー税と汚染許可証の間には、本質的な差異はない、

ということのようです。

 とすれば、ピグー税と汚染許可証、どちらの政策であっても大差はなく、どちらでもよい、ということになりそうですが、



同 ( p.213 )

 しかしながら、状況によっては汚染許可証を販売するほうがピグー税を課すよりもすぐれているかもしれない。環境保護庁は600トン以上の汚水が川へ放出されることを望まないとしよう。しかし、環境保護庁には汚染の需要曲線がわからないので、どれくらいの税率にすればその目的を達成できるか確信をもてない。このような場合、環境保護庁は単に600トンの汚染許可証を競売にかければよい。その競売価格はピグー税の適切な大きさになる。


 政府には汚染の需要曲線がわからないので、ピグー税の場合、どれくらいの税率にすればよいのかがわからない。したがって汚染許可証のほうが優れているかもしれない、と書かれており、



 著者の主張はもっともだと思います。



 もともと、汚染権の「価格(税率)」を設定するか、汚染の「(許容)量」を設定するか、が政府に与えられている選択肢であるところ、

 「汚染の減少」を目的として導入する政策である以上、普通に考えれば「(汚染の許容)量」を設定する、という発想になると思います。

 したがって、ピグー税よりは、汚染許可証の販売のほうが優れている、とみてよいのではないかと思います。



 ところで、汚染許可証には、次のような批判があるようです。



同 ( p.213 )

 
 「われわれは、代金を払わせて汚染する権利を与えることはできない。」エドモンド・マスキー前上院議員によるこのコメントは、一部の環境保護主義者の見解を代表している。きれいな空気ときれいな水は人間の基本的な権利であり、経済的な面から考えることによって価値を下げられるべきではない。きれいな空気ときれいな水にどのように価格をつけろというのか。環境は非常に重要であり、費用に関係なく最大限に守られるべきだというのが彼らの主張である。
 経済学者はこの種の議論にはほとんど共感をもたない。経済学者にとってよい環境政策は、第1章で述べた経済学の十大原理の第1原理、すなわち、「人々はトレードオフに直面している」ということを理解することからはじまる。確かに、きれいな空気やきれいな水には価値がある。しかし、その価値は機会費用と比較されなければならない。すなわち、それらを手に入れる代わりに放棄しなければならないものと比較されなければならないのである。すべての汚染をなくすのは不可能である。すべての汚染を取り除こうとすれば、高い生活水準を享受することを可能にしてくれた多くの技術進歩が逆行してしまう。ほとんどの人は、環境をできるだけきれいにするためだといっても、貧弱な栄養や不十分な医療、みすぼらしい家で我慢しようとはしないだろう。


 汚染許可証というアイデアには、カネさえ払えば環境を汚染してもよいのか、環境を「汚染する権利」などというものは認められない、という批判があると書かれています。



 現実問題として環境汚染を「完全に」なくすことは不可能だと思いますし、汚染を「減らす」方法として、政府が「汚染許可証」を販売するという方法はきわめて有効(かつ効率的)だと思います。

 したがって私は、「汚染許可証」を認めてよいと思いますが、

 (感覚的に)どうしても認められない、というのであれば、汚染物質排出事業者にピグー税を課す方法によればよいと思います。ピグー税には「環境を汚染する権利」などという概念は(少なくとも表面的には)出てこないので、「汚染許可証」に反対する人であっても、ピグー税には賛成するのではないかと考えられるからです。

ピグー税と汚染許可証

2011-07-29 | 日記
N・グレゴリー・マンキュー 『マンキュー入門経済学』 ( p.207 )

 外部性のために市場で非効率的な資源配分が生じるときに、政府が対応できる方法は二つある。指導・監督政策は行動を直接規制する。市場重視政策は、民間の意思決定者が自分で問題を解決するインセンティブを与える。


 外部性の問題に対処するには二通りの方法がある。一つは規制(指導・監督政策)、一つは市場重視政策である、と書かれています。



 規制については「あきらか」なので、市場重視政策についての部分を引用します。



同 ( p.208 )

 政府は外部への対応として、行動を規制するのではなく市場重視政策を用いて、私的インセンティブと社会的効率性を整合的にすることもできる。たとえば、すでにみたように、政府は負の外部性をもつ活動に課税し、正の外部性をもつ活動に補助を与えることによって、外部性を内部化することができる。負の外部性の影響を矯正するための課税は、早くからそれを提唱していた経済学者アーサー・ピグー(1877~1959年)の名前をとって、ピグー税と呼ばれる。
 ピグー税は規制よりも小さい社会的費用で汚染を減少させることができるため、経済学者は汚染に対処する方法として規制よりもピグー税がよいと考えている。その理由を理解するために、一つの例を考えてみよう。
 製紙工場と製鉄工場の二つの工場が毎年500トンの汚水を川に垂れ流しているとしよう。環境保護庁は汚水の量を減少させる方針を定め、二つの解決法を検討する。

  • 規制:環境保護庁は、二つの工場に汚水の排出量を年間300トンまで減少するように命じることができる。
  • ピグー税:環境保護庁は、二つの工場に汚水の排出1トンにつき5万ドルの税を課すことができる。


規制は汚水の量の水準を指示するのに対し、ピグー税は工場所有者に汚染を減少させる経済的インセンティブを与える。どちらの解決法がよいだろうか。
 ほとんどの経済学者はピグー税がよいと考える。まず指摘できるのは、汚染の全般的水準を減少させる方法として、ピグー税は規制とほぼ同じくらい有効だということである。環境保護庁は税率を適切な水準に設定することにより、汚染をどのような水準にでもすることができる。税率が高いほど汚染は減少する。実際、もし税率が非常に高ければ、工場は完全に閉鎖され、汚染はゼロになるだろう。
 ピグー税がよいと経済学者が考えるのは、汚染をより効率的に減らせるからである。規制は各工場に汚染を同じ量だけ減らすことを要求するが、一律に減らすこと
は必ずしも水をきれいにするための最も安価な方法ではない。製紙工場のほうが製鉄工場よりも汚染を減らす費用が小さい可能性もある。もしそうであれば、製紙工場はピグー税への対応として、税を避けるために汚染を相当減少させるだろう。それに対して、製鉄工場は汚染をあまり減らさず、税金を支払う形で対応するだろう。
 本質的に、ピグー税とは汚染する権利に価格をつけることである。ちょうど市場がある財を最も高く評価する買い手にその財を配分するように、ピグー税は汚染を減少させる費用が最も高い工場に汚染を配分する。環境保護庁がどのように汚染の水準を設定しても、ピグー税を用いると最も小さい総費用で目標に到達できるのである。
 経済学者はまた、ピグー税が環境にもよいと主張する。規制の指導・監督政策では、工場が300トンという汚水の目標に到達してしまうと、それ以上汚染の排出を減らそうとする理由がなくなる。これに対して、課税では、工場は汚染の排出をさらに減らす技術を開発するインセンティブをもつ。汚染をあまり排出しない技術があれば、工場が支払わなければならない税額が減少するからである。
 ピグー税は他の税とはあまり似ていない。ほとんどの税はインセンティブを歪め、資源配分を社会的に最適な状態から乖離させる。経済的福祉の減少、すなわち消費者余剰と生産者余剰の減少は、政府が得る収入を上回り、死荷重を発生させる。対照的に、外部性が存在する場合、社会はその影響を受ける周囲の人々の厚生にも配慮する。ピグー税は、外部性が存在しても当事者のインセンティブを修正し、資源配分を社会的に最適な状態に近づける。このように、ピグー税は政府に収入をもたらしながら、経済効率を高めるのである(課税の影響および死荷重については、ミクロ編第8章を参照のこと)。


 市場を重視して外部性に対応する方法として、ピグー税がある。ピグー税とは、課税によって負の外部性を内部化する税である、と書かれています。



 著者によれば、ピグー税の利点は
  1. 汚染を効率的に減らせる(汚染を減らす費用が小さい分野ほど汚染が減る)
  2. どこまでも汚染を減らそうとするインセンティブが生じる
  3. 政府に税収をもたらしつつ、効率効率を高める効果をもつ
です。

 こんな素晴らしい方法があるなら、採用しない手はありません。



同 ( p.211 )

 製紙工場と製鉄工場の例に戻ろう。経済学者のアドバイスにもかかわらず、環境保護庁が規制を採用し、各企業に汚水を毎年300トンまで減少させるように命じたとしよう。規制が実施され、二つの企業が規制に従った後のある日、両社がある提案をもって環境保護庁を訪れた。製鉄工場は汚水の排出を100トン増やすことを望んでいる。製紙工場は、もし製鉄工場が5万ドルを支払ってくれるならば、汚水の排出をさらに100トン減らすことに同意している。環境保護庁は二つの工場がこのような取引をすることを許可するべきだろうか。
 経済の効率性の観点からは、この取引を認めることはよい政策である。それぞれの工場の所有者は自発的にその取引に合意しているので、取引は両者の厚生を改善するはずである。そのうえ、汚染の総量は同じなので、その取引による新たな外部効果は生まれない。したがって、製紙工場が製鉄工場に汚染する権利を販売するのを認めることは社会的厚生を高める。
 同じ論理は、汚染する権利をある企業から他の企業へと自発的に移転させるすべての場合に当てはまる。もし環境保護庁がこうした取引を企業に認めるならば、それは本質的に、汚染許可証という一つの新しい希少な資源を創出したことになる。汚染許可証を取引する市場がいつかは発達し、その市場は需要と供給の作用に統治されるだろう。見えざる手は、この新しい市場が汚染権を効率的に配分することを保証するだろう。高い費用をかけないと汚染を減少できない企業は、汚染許可証に大金を支払ってもよいと考えるだろう。低い費用で汚染を減少できる企業は、手元にあるだけの許可証を販売したいと思うだろう。
 汚染許可証の市場を認める一つの利点は、汚染許可証が最初にどの企業に配分されていても、経済効率性の観点からは問題にならないことである。この結論の背後にある論理は、コースの定理の背後にある論理とよく似ている。汚染を最も容易に減少できる企業は、手に入る許可証をすべて販売しようとするだろうし、高い費用をかけないと汚染を減少できない企業は、必要なだけの許可証を購入しようとするだろう。汚染権の自由な市場がある限り、許可証が最初にどのように配分されていても、最終的な配分は効率的になるだろう。


 市場を重視して外部性に対応する方法としては、ほかにも汚染許可証がある。環境を汚染する権利(汚染権)を認め、その許可証(汚染許可証)の売買を認めることで、ピグー税と同様の効果が得られる、と書かれています。



 「環境を汚染する権利」という概念は、なんとなくしっくりきませんが、主張の趣旨はわかります。



 ピグー税も汚染許可証も、規制よりは「よい方法」だと思いますが、

 ピグー税と汚染許可証とでは、どちらの方法が優れているのでしょうか。これについては、次回にまわします。



■関連記事
 「外部性と市場の非効率性
 「当事者間による外部性の解決法と、コースの定理

当事者間による外部性の解決法と、コースの定理

2011-07-26 | 日記
N・グレゴリー・マンキュー 『マンキュー入門経済学』 ( p.202 )

 外部性は市場を非効率的にする傾向があるが、問題の解決にあたって政府の働きかけがいつも必要となるわけではない。状況によっては、当事者間による解決も可能である。
 まず、外部性の問題は道徳律や社会常識の拘束力によって解決される場合がある。たとえば、なぜほとんどの人がごみを散らかさないのかを考えてみよう。ごみを散らかすことを禁止する法律は存在するが、こうした法律は厳しくは施行されない。ほとんどの人は、ごみを散らかすことが悪いことだからしないのである。子どもたちはたいてい、(聖書のなかの)黄金律で「おのれの欲するところを人に施せ」と教えられる。この道徳的な命令は、自分の行動が他の人々にどのような影響を与えるかを考慮に入れよと述べている。経済学の言葉でいえば、外部性を内部化せよということである。
 当事者間による外部性のもう一つの解決法は慈善事業である。慈善事業の多くは外部性を扱うために設立されている。たとえば、環境を保護することを目的とするシエラ・クラブは、民間からの寄付を基金とする非営利団体である。もう一つの例として、大学は同窓生や企業や財団から寄付を受けるが、一つの理由には教育が社会に対して正の外部性をもつことがある。
 民間市場ではしばしば、利害関係者の利己心に依拠して外部性の問題が解決される。解決法として、異なるタイプの事業が統合されるという形をとることがある。たとえば、隣り合っているりんご農家と養蜂家を考えてみよう。蜂はりんごの花に授粉するので、果樹園のりんご生産を助ける。同時に、蜂はりんごの花の蜜から蜂蜜をつくる。したがって、それぞれの事業は相手に対して正の外部性を与える。ところが、りんご農家が何本の木を植えるかを決め、養蜂家が何匹の蜂を飼うかを決めるときには、彼らは正の外部性を考慮しない。その結果、りんご農家が植える木の数と養蜂家が飼う蜂の数は、最適な数よりも少なくなる。こうした外部性は、養蜂家がりんご果樹園を買収するか、りんご農家が蜂の巣を購入すれば内部化できる。一つの企業が両方の事業を行うので、その企業は最適な木の数と蜂の数を選択できるだろう。このように、外部性を内部化することは、異なるタイプの事業を兼営する企業が存在する理由の一つとなる。
 外部効果を民間の市場が取り入れるもう一つの方法は、利害関係者が契約を結ぶことである。上の例では、りんご農家と養蜂家が契約を結ぶことにより、木と蜂の数が少ないという問題を解決することができる。契約にあたっては、木の数と蜂の数を明記し、そしておそらく片方から他方への支払いが生じるのでそれも明記するとよい。木と蜂の数を適切に設定することで、外部性から生じる非効率性を契約によって解決することができ、両者とも厚生が改善される。


 外部性の問題を解決するには、かならずしも政府の働きかけが必要であるとは限らない。当事者間による外部性の解決法としては、事業の統合(買収など)や契約がある、と書かれています。



 これは当然の事柄だと思います。

 ところで、契約の場合についてですが、これにはコースの定理というものがあるようです。



同 ( p.203 )

 民間市場は外部性への対処方法としてどれくらい有効なのだろうか。経済学者ロナルド・コースにちなんでコースの定理と名づけられた有名な結果は、状況によっては民間市場が非常に有効となりうることを示唆した。コースの定理によると、民間の当事者たちが資源の配分について交渉する際、費用がかからないのであれば、外部性の問題はつねに民間市場で解決され、資源は効率的に配分される。
 コースの定理がどのように機能するかをみるために、一つの例を考えよう。ディックはスポットという名の犬を飼っている。スポットはよく吠えるので、ディックの隣人であるジェーンは騒音に悩まされている。ディックは犬を飼うことで便益を得るが、犬はジェーンに負の外部性をもたらす。この場合、ディックは強制的に愛犬を動物収容所に入れさせられることになるのだろうか。あるいはジェーンが犬の鳴き声に悩まされながら眠れぬ夜を過ごさなければならないのだろうか。
 まず、どのような結果が社会的に効率的であるかを考えよう。社会計画の立案者は二つの選択肢を考慮するにあたって、ディックが犬から得る便益とジェーンが鳴き声によって被る費用とを比較するだろう。もし便益が費用を上回るならば、ディックが犬を飼い、ジェーンが犬の鳴き声に悩まされながら生活することが効率的となる。逆にもし費用が便益を上回るならば、ディックは犬を処分すべきである。
 コースの定理によると、民間市場は自分たちの力で効率的な結果に到達する。このケースでは、ジェーンはお金を支払うから犬を処分してほしいとディックに申し入れるだけでよい。もしジェーンの提示する金額が犬を飼うことの便益よりも大きければ、ディックはその取引を受け入れるだろう。
 価格の交渉さえできれば、ディックとジェーンはつねに効率的な結果に到達することができる。たとえば、ディックが犬を飼うことによって500ドルの便益を得る一方で、ジェーンが鳴き声によって800ドルの費用を被るとしよう。この場合、ジェーンはディックに対して600ドルを支払うから犬を処分してくれと頼めば、ディックは喜んで受け入れるだろう。両者の厚生は改善し、効率的な結果が達成される。
 もちろん、ディックが受け入れる価格をジェーンが提示しないこともある。たとえば、ディックが犬を飼うことで1000ドルの便益を得る一方で、ジェーンが鳴き声によって800ドルの費用を被るとしよう。この場合、ディックは1000ドル未満の提示をすべて断るだろうし、ジェーンは800ドルよりも高い価格を提示しないだろう。したがってディックは犬を飼いつづけることになる。しかし、このような費用と便益のときには、この結果は効率的である。
 これまでは、ディックが吠える犬を飼う法的な権利をもっていると仮定してきた。言い換えれば、ジェーンがディックに対して補償金を支払い、自発的に犬を飼うことをあきらめてもらわない限り、ディックはスポットを飼いつづけることができると仮定してきた。反対に、もしジェーンが静かな環境で平穏に暮らす法的な権利をもっているとすると、結果はどのような変わるのだろうか。
 コースの定理によると、最初にどちらが権利をもっているかということは、市場が効率的な結果を導く能力にとっては重要ではない。たとえば、ジェーンがディックに犬を処分させることが法的に可能だとしよう。この権利はジェーンに有利に働くが、おそらく結果は変わらない。この場合、ディックはお金を支払うので犬を飼うことを認めてほしいとジェーンに申し入れることができる。もし犬を飼うことによるディックの便益が犬の鳴き声で苦しむジェーンの費用を上回るのであれば、ディックとジェーンは、ディックが犬を飼える契約を結ぶだろう。


 コースの定理によれば、「当事者たちが資源の配分について交渉する際、費用がかからないのであれば、外部性の問題はつねに民間市場で解決され、資源は効率的に配分される」、と書かれています。



 これは当然のことを言っているにすぎないにもかかわらず、著者は
経済学者ロナルド・コースにちなんでコースの定理と名づけられた有名な結果は、状況によっては民間市場が非常に有効となりうることを示唆した。
と述べています。なぜ、これが「有名な結果」なのか、それが謎ですが、おそらく経済学者のロナルド・コースは

   常識で考えれば誰でもわかることを、
        「数式を使って証明した」

のでしょう。常識的な事柄も実際に「証明」しようとすると意外と難しいので、「有名な結果」と言っているのだろうと思います。



 このブログの目的 (実社会の問題を解決する手段を探求する) からすれば、「証明」までは必要としません。そこで、経済学にはコースの定理というものがある、というにとどめさきに進みたいと思います。



■関連記事
 「外部性と市場の非効率性

外部性と市場の非効率性

2011-07-25 | 日記
N・グレゴリー・マンキュー 『マンキュー入門経済学』 ( p.196 )

 まず第6章で学んだ厚生経済学に関する重要な教訓を思い出そう。分析を具体的にするため、アルミニウム市場という特定の市場を考察対象とする。図7-1は、アルミニウム市場の需要曲線と供給曲線を示している。

(中略)

 政府の介入がない場合には、アルミニウムの価格はアルミニウムの需要と供給が釣り合うように調整される。市場均衡における生産量と消費量は、図7-1のQmarketで表され、生産者余剰と消費者余剰の合計を最大にするという意味で効率的である。すなわち、市場における資源配分は、アルミニウムを購入・使用する消費者にとっての総価値から、アルミニウムを製造・販売する生産者の総費用を差し引いたものを最大化する。


 引用文中の図7-1を示します。



★図7-1 アルミニウムの市場

 価格
   *           供給(私的費用)
   * xx         xx 
   *  xx       xx  
   *   xx     xx   
   *    xx   xx    
   *     xx xx     
   *      xx      
   *     xx:xx     
   *    xx : xx    
   *   xx  :  xx   
   *  xx   :   xx  
   * xx    :    xx 
   *      :    需要(私的価値)
   ****************************
  0       Qmarket   量



同 ( p.197 )

 さて、アルミニウム工場が汚染物を排出しているとしよう。アルミニウムが1単位生産されるごとに、ある一定量の煙が大気中に流れ込んでいく。この煙は、その空気を吸う人の健康に危害を及ぼす可能性があるので負の外部性となる。この外部性は市場の成果の効率性にどのような影響を与えるだろうか。
 外部性がある場合には、アルミニウムの生産に要する社会にとっての費用は、アルミニウム生産者の費用よりも大きい。アルミニウム1単位の生産に要する社会的費用は、アルミニウム生産者の私的費用に加えて、汚染の悪影響を受ける周囲の人々の費用を含む。図7-2はアルミニウムの生産に要する社会的費用を示している。社会的費用曲線は、アルミニウム生産者が社会に負わせる外部費用が入るため、供給曲線よりも上方に位置する。この二つの曲線の差は排出される汚染の費用を表している。
 アルミニウムの生産量はどのようになるだろうか。この問題に答えるために、もう一度、博愛的統治者が何をするかを考えてみよう。博愛的統治者は市場から得られる総余剰を最大化したいと考える。すなわち、アルミニウムの消費者にとっての価値からアルミニウムを生産する費用を差し引いたものを最大化することを考えるのである。ただし、博愛的統治者はアルミニウムを生産する費用に汚染の外部費用が含まれることを理解している。
 博愛的統治者は、アルミニウムの生産水準として、需要曲線と社会的費用曲線が交わるところを選ぶだろう。この交点は、社会全体の観点からみたときの最適なアルミニウムの生産量である。これを下回る生産水準では、(需要曲線の高さで測られる)消費者にとってのアルミニウムの価値が、(社会的費用曲線の高さで測られる)アルミニウムの社会的生産費用を上回る。また、博愛的統治者はその水準よりも多くアルミニウムを生産しない。そのような水準では、アルミニウムの社会的生産費用の増加分が消費者にとっての価値を上回るからである。
 アルミニウムの均衡生産量Qmarketが社会的に最適な生産量Qoptimumよりも大きいことに注意しよう。こうした非効率性が生じるのは、市場均衡が私的な生産費用のみを反映しているためである。市場均衡では、限界的な消費者にとってのアルミニウムの価値は社会的生産費用を下回る。すなわち、Qmarketにおいて、需要曲線は社会的費用曲線よりも下方に位置する。したがって、アルミニウムの生産と消費を減少させて均衡水準以下にすることは、全体的な経済的福祉を増大させる。
 博愛的統治者はどのようにすればこの最適な結果に到達できるだろうか。一つの方法は、アルミニウムが1トン販売されるごとに、アルミニウム生産者に課税することだろう。アルミニウムへの課税により、アルミニウムの供給曲線は税の大きさの分だけ上方にシフトする。もし大気中に撒き散らされる煙の社会的費用を税が正確に反映するのであれば、新しい供給曲線は社会的費用曲線と一致するだろう。新しい市場均衡では、アルミニウム生産者は社会的に最適な量のアルミニウムを生産する。
 そのような税の活用の仕方を外部性の内部化という。課税によって、市場の買い手と売り手に自らの行動の外部効果を考慮に入れるインセンティブが生まれるからである。つまり、アルミニウム生産者は、外部費用に対して税金を支払わなければならないために、アルミニウムをどれだけ供給するかを決める際に汚染の費用を考慮に入れるだろう。この政策は、経済学の十大原理の一つ、「人々はさまざまなインセンティブに反応する」に基づいている。


 負の外部性の問題は、生産者の私的費用が社会的費用と一致しないために発生する。この問題を解決する1つの方法は、生産者に課税することである、と書かれています。



 文中の図7-2を示します。



★図7-2 汚染と社会的最適

 価格
   *        社会的費用
   * xx     xx   
   *  xx   xx   供給(私的費用)
   *   xx xx   xx   
   *    xx   xx    
   *   xx:xx xx     
   *  xx : xx      
   * xx  :xx:xx     
   *    xx : xx    
   *   xx: :  xx   
   *  xx : :   xx  
   * xx  : :    xx 
   *    : :    需要(私的価値)
   ****************************
  0  Qoptimun Qmarket   量



 ここで著者が述べていることは「あきらか」であり、とくに論じることは何もないと思います。

 なお、「負の外部性」の逆、すなわち「正の外部性」についても同様に考えれば事足ります。引用します。



同 ( p.199 )

 さまざまな活動のなかには、第三者に費用を強いるものもあるが、恩恵を与えるものもある。たとえば、教育を考えてみよう。高い教育を受けた人々は、すべての人に便益を与えるよい政府をつくる。教育の生産性の便益は必ずしも外部性とはならず、教育の消費者はその便益のほとんどを高賃金という形で手に入れることに注意しよう。しかし、もし教育による生産性の便益の一部が波及して他の人々にとって恩恵となれば、この効果も正の外部性と考えられる。
 正の外部性の分析は負の外部性の分析とよく似ている。図7-3に示されるように、需要曲線はその財の社会的価値を表していない。社会的価値は私的な価値よりも大きいので、社会的価値曲線は需要曲線よりも上方に位置する。最適な生産量は、社会的価値曲線と(費用を表す)供給曲線の交点で与えられる。したがって、社会的に最適な生産量は、私的な市場で決まる生産量よりも多い。
 ここでもまた、政府は市場参加者を促して外部性を内部化することにより、市場の失敗を正すことができる。正の外部性の場合の適切な対応は、負の外部性の場合のちょうど逆である。市場均衡を社会的均衡に近づけるためには、正の外部性に補助をすることが必要となる。実際、それはまさに政府がとっている政策であり、教育は公立学校と政府奨学金を通じて手厚く補助されている。


 正の外部性の問題は、消費者の私的価値が社会的価値と一致しないために発生する。この問題を解決する1つの方法は、消費者に補助をすることである、と書かれています。



★図7-3 教育と社会的最適

 価格
   *    xx      供給(私的費用)
   * xx   xx     xx 
   *  xx   xx   xx  
   *   xx   xx xx   
   *    xx   xx    
   *     xx xx:xx   
   *      xx : xx  
   *     xx:xx:  xx 
   *    xx : xx  社会的価値
   *   xx  : :xx   
   *  xx   : : xx  
   * xx    : :  xx 
   *      : :  需要(私的価値)
   ****************************
  0    Qmarket Qoptimum 量



 これも「あきらか」であり、とくに論じることは何もないと思います。



 なお、とくに論じることは何もないにもかかわらず、なぜ私が引用しているかというと、今後、さまざまな問題を考察する際に、今回の内容を前提知識として引用するためです。



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