暁庵の茶事クロスロード

茶事が好きです。茶事の持つ無限の可能性に魅了されて楽しんでいます。2015年2月に京都から終の棲家の横浜へ戻りました。

灑雪庵・節分の茶事-3

2014年02月14日 | 茶事  京都編
                  (鴨川   冬の景)
                       
今日はバレンタインデーで、朝方から雪になりました ::: 

いよいよ最後の3章ですが・・
節分の茶事次第とは離れた話になってしまい、ごめんなさい。
よろしかったら、お付き合いください。

節分の茶事を終えてから、なぜか四国遍路の日々が思い出され、
我がバイブル「四国遍路」(辰濃和男著 岩波新書)の頁をめくっています。
なぜなら、私にとって四国遍路と茶事はとても密接な関係で、
茶事は日常の四国遍路かもしれない・・と思うことがあります。

辰濃和男氏が「四国遍路」に記された次の文章に惹かれ、
何度も読み返しました。

 「素(そ)」を大切にしたいと思う。
 簡素、質素、素心、素木(しらき)の素だ。
 素という字には、根本、生地のまま、飾りのない元のままのもの、
 などの意味がある。
 暮らしの根っこにあるもの、虚飾をはいでぎりぎりの生地を現したもの、
 それが素だ。
 素という字には暮らしを律する根源的な力があるように思えてならない。
 素でありたいと思う。

 もともとお遍路の明け暮れはぜいたくとは無縁のもので、
 簡素の極みを追及するものだ。
 虚飾を拝した、生地のままの自分を見つける旅でもある。
 ことごとしく素が大切だといわなくともおのずから簡素な旅になるはず
 なのだが、この 単純なことがなかなかうまくいかない。
 それほど私自身の日常が素ならざるものに毒されている、ということだろう。

 余計なものはいっさい買わない。
 買う前にそれが本当に必要なのかどうかを
 十分に吟味するといった単純なことから始めたい。
 ものを大事に使うとか、
 暮らしの中の取るに足りない問題を切り捨ててゆくとか、
 こころの虚飾を拝するとか、そういうことも素の守備範囲だ。


        

  

今度の茶事では、できるだけシンプルに・・・を
心掛けてみましたが、お客さまには如何でしたかしら?

京都へ来て、茶事を始めた頃は、
家の動線や台所が身体になじまず、懐石など考えも及びませんでした。
某家庭茶事の会の茶事にお招きされる内に、いつからでしょうか、
自分で出来る範囲でやってみよう・・・という気になってきたのです。

懐石を作って茶事をしてみると、本当に大変でした。
でも、少しずつ工夫しながら続けているうちに、
いつしか一人茶事の素晴らしさ、愉しさにはまっていました。

        

道具はありあわせをフル稼働、自分なりの趣向を考え、
茶事を組み立てて行く楽しさ、
身体がスムースに動くようになる普段の稽古の大切さ、
そして何より茶事を通して主客の心が通い合う素晴らしさ
を知りました。

茶事の数日前から掃除、買物、水汲みで身体を動かし、
当日は、それこそ普段は眠っている細胞の隅々までたたき起こし、
総動員して茶事を進めていきます。
・・・やり遂げると、何とも言えぬ爽快感、達成感が満ちてきます。

疲れない・・と言ったら嘘になりますが、大いに疲れながらも
こんなに充実感を感じ、全身全霊が活性化される機会は滅多になく、
茶事へお出ましくださったお客さまに心から感謝しています。

もう少しだけ茶事を頑張ってみようと思っているところです。
ご縁がありましたらお付き合いくださいまし。
                         
                          

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