井沢満ブログ

後進に伝えたい技術論もないわけではなく、「井沢満の脚本講座」をたまに、後はのんびりよしなしごとを綴って行きます。

神よなぜ沈黙したまうのか

2017年01月23日 | 日記

日拝は、ずっと続けていて日の出る方向に神社さんがあるので、
そこへご挨拶がてら片道25分ほど、散歩することも多く、
上ってまだ時間が浅い、生まれたての太陽の光を正面に
浴びながら、タバコの吸殻を拾って歩きます。

一日三善を心がけているので、その一つ。と言いたいところですが、
実はこれ善にもならない。というのは私自身が昔、日本のみならず
世界の町のあちこちに、ポイ捨てして来ているので回収です。
回収はたぶん、一ヶ月間の拾い集めで私が捨てた分くらいには
達するとは思いますが、過去世現世と悪業を積み重ねてきた
懺悔の思いもあるので、たかだか吸殻拾いが善行とは
おこがましいのですが、やらないよりはいいかな、と。

片道でももく拾いのおっさん(死語?)をやった道を3日後に歩くと、
30本ほどあった吸い殻が、せいぜい10本程度になっていて
きれいになった実感が結構心楽しかったりもします。

日輪拝を始められた方も多いようですが、太陽の直視は
ごく短めになさらないと、目を傷めるかもしれません。
ヨガには太陽を見るやり方もあるようですが、オゾン層が
破壊されつつあり、有害な紫外線が降り注ぐ現代では、
太陽が仇となるケースもあるでしょう。

地上20~30kmのところにあるオゾン層は、厚さ3ミリほどのレースのカーテンの如きものなのだそうですが、地球保護膜破壊の元凶はフロンガスです。

太陽自体に咎のあることではなく、人類の愚行の結果ではありますが、しかしながら、古代エジプトでは「ラー」として、極東日本ではアマテラスオオミカミとして、信仰の対象となってきた太陽は命を育む慈愛の反面、砂漠においては人を苦しめる凶器ともなります。(かといって太陽が失せれば、地球上の生命全てが絶えるのですが)

愛と苛烈の背中合わせ。

擬人化されたごとく、神は人を直接罰したり救済したりする存在ではなく、ヒンドゥに端を発する仏教の世界観から言えば、前生現世来世にまたがる円環の中、人は自身の因果律の中で魂を存続させて行く存在です。
神なるものの巨視的視点から俯瞰で見下ろせば、人の一見理不尽な苦しみも、己のカルマの帰結だという捉え方です。
その一方、根源神の分波(誤変換にあらず)である諸天善神、諸菩薩などは根源神の一つの働きの側面として、救済の働きを担っておわします。

という如きことを、ふと思うのは最近映画館に参りますと、スコセッシ監督の「Silence」の予告編を観るからです。

遠藤周作の原作「沈黙」は読んでないのですが、映画の断片から察するに、キリシタン弾圧の中にあって、最後まで信仰を捨てなかった者たちがなぜ、こうも過酷に責め苛(さいな)められ命を奪われるか、という命題が主旋律の作品であるような。

もし、だとすれば・・・・そこで描かれる神は人格化されていて人を救い導きもする代わり、厳罰に処する神ですが・・・・・言ってしまえば、そのような人格化は宇宙生成のSomething Greatとは異なる、人間が勝手に作り上げた仮想の神ではないか、というのがわたくしの見解です。

述べれば長くなるので、後日に譲りますが・・・・・

以前パーム・サンデーを体感したくて椰子の葉(パーム)を手にした現地の信者たちの熱狂の群衆にもまれながらサン・ピエトロ寺院を訪れ、ローマ法王、当時はヨハネ・パウロニ世にもお目通り叶い、お言葉と握手も賜り、歴史の長い、それゆえ芸術性の高いこの宗教にそれなりの敬意を払ってはいますが・・・・しかし、本音を申せば、神道や仏教の世界観に比して、視野が狭いような気がしています。どういうめぐり合わせか、わたくしはカトリックの長と共に、仏教界の頂点でいらっしゃるダライ・ラマ猊下にもお会いしていて、彼我の宗教に関心がある人々には珍しくもないことでしょうが・・・・わたくしが宗教を考える時、常に世界観の上からは両極端に位置されるお二方のお顔が浮かぶのです。

キリスト教はカトリックとプロテスタントとあり、その中で更に宗派が分かれます。
仏教も然り。

キリスト自身が聖書を記したわけではなく、釈迦も同じく、弟子たちの聞き書き、覚書であり仏典の「如是我聞」、我かくのごとく聞きぬ、はバイブルも同様で、弟子の勘違いや、主観が混在しています。

宗派、分派が生じる一因でしょう。

キリストという覚者やゴータマ・ブッダという聖者の悟りを、そもそも文字で伝えることが不可能でしょう。

不可能だから、愛を説いたはずのキリスト教を原因として殺戮が起こります。

という視点で見れば、経典のない神道を清々しく感じます。
古代の人々の自然と向き合って得た、インスピレーションが神道、
見出した神へ至る道筋がすなわち「神道」であろうかと、わたくしは
思っています。

神道もさほど身を入れて勉強しているわけではないので、道半ばの者の言うことですが、その宇宙観の正確さに於いて、神道や仏教徒の直感のほうが、わたくしはキリスト教より優れているように感じます。

誤解なきよう、再度申し上げますがそれは「宗教」という一つの枠に収まったときの言い方であり、キリストや釈迦の、根源神とつながった悟りを比べているわけではありません。

それにしても、十字架の上のキリストが言ったとされる「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」、我が神、 我が神、なにゆえ我を見捨てたまうや」(マタイ27、45、46)の言葉です。

古語的に訳すと典雅に過ぎて実際に生きていた人の言葉としては、実感が湧かないので現代風に言うなら、「神様、神様、なんで私を見捨てちゃったんですか!!」とかなり、差し迫った思いとして伝わって来ます。

この死の間際の言葉が長年、わたくしには大きな謎です。

その後の「復活」がひょっとして、この謎の言葉を救済、あるいは糊塗のためのフィクションか、と実は思いもするのです。

いまだ学びの途次の、未熟な意見です。神学者には、深遠な解釈があるのかもしれません。たぶん、わたくしそれには納得しないであろうという、予感があるのですが。

このキリストの謎の言葉をモチーフにミステリー小説の構想を、ここ10年ほど抱いていて、そろそろ書き時なのかもしれません。
同時に、仏教とりわけ密教の世界観をベースに空海と最澄を、両者に仕えた、というより両者に恋の対象として愛された弟子(男子です)の視線から書いてみたいとも思っていますが、フィクションとはいえ背景や宗教の世界の言語、密教の法具、法衣その他、描写も用語も正確でなければならず、京都に赴き、空海が愛した男弟子の名を確かめ、また空海のこの世のものならざる能筆に接したりも致しましたが、調べが膨大でまだ書いていません。稚児が僧侶の相手として閨に入る(いる)その、お次第にも目を通したいのですが、高野山に秘匿されているという「稚児の草紙」を寺側が公開することはないでしょう。一端を、誰だったか今東光か稲垣足穂の書物で知る程度。
僧侶の男根を灯明に見立て、男同士の性愛を一つの宗教儀式にまでアウフヘーベンしたといおうか、言い訳にしたといおうか微細に渡るらしいその聖なる性愛の手ほどき本は、いかにも日本らしいと思うのです。
つまり卑近なものを美意識で高みへと引き上げるその、やり口が。

話が逸れました。

転びバテレンの頃、日本に来た宣教師は日本植民地化の尖兵であったわけですが、そこは遠藤周作さんは書かれたのか、どうなのか存じ上げません。映画はテーマが他へ行くので、たぶん触れないと思います。

聖人化されていますが、まあ白人による有色人種の植民地化、奴隷化の手先ですね。ご本人たち全てがそれを自覚していたか否かは別として。

敗戦後の日本人の精神ごと根こそぎ、弱体化しようとGHQが打って来た手段の一つが、日本国民から神道を奪いキリスト教化することでした。

カトリックの教育をお受けになられ、また父方実家の祖母がカトリックへ改宗され、いずれ一族郎党カトリック教徒になられるような精神風土の中、お育ちになられた正田美智子さんを、GHQがかなりあの手この手で入内への道筋をつけたと、わたくしはいろんな資料を当たってみた結果の結論です。
館林の正田家に出入りして、まず美智子さまの祖母を改宗に導いた、ジョセフ・フロジャックがキーパーソンだとわたくしは見ています。フロジャック自身も、美智子さんの入内が自らの最高作品(仕事の成果)だと、その著書に誇らしげに述べています。
正田家が、アメリカ産小麦粉を媒としてGHQと密着していたのは、客観的事実です。

 

さて、断食ペンションから帰京後、1ヶ月にして6キロの減量に
成功しているのですが、ジョージィのイタリアでの受賞を口実に
食べようということで、奥さんが里帰り中でご飯にあぶれている
甥っ子と、それからわたくしが世話になっている方と3人で
ふぐを食べることになり、これでまた1キロ弱戻るかな・・・・と
思いつつ、しかしそれほど頑なな食事制限しているわけではなく、
ふぐの唐揚げと白子を抜き、刺し身と鍋の身、野菜をメインに食べてました。

食事の最中、オーラの話になり、同席の「視える」知人が
私に「甥のオーラ、視えます?」と訊かれたので「藍」と答えたら、
正解でした。(オーラの色は日により、変化します)

わたくしが甥に、「私の視える?」と訊いたら「視えない。視る能力ない」というので、
「ほんとは、誰にも視える。常識で塞いでるだけ。まして私の甥なら視えるはず」

とかなり強引だったのですが、答えを強要したら「紫」と割に即答で、サイキックな知人も、「その通り」と太鼓判です。

面白いもので、当日わたくしは出かける寸前まで着物は紫を選ぼうと思っていて、
あられもない話、下履きも紫だったのです。
それが、出かける前に紫の着物を出すのが億劫になり、虫干しで
三枚ほど吊るしてあった一枚を、適当に来て出かけた、のでした。

当日のわたくしのオーラは紫だったようです。

オーラといい「気」といい、三次元の言語では説明できないものを知覚できてない人に伝えるのは、至難というより盲目の方に色彩を伝えることにも似て不可能なのかもしれません。前世についても同じく。

前夜のいでたちです。

スマホ撮りなので、はっきり解りませんが羽織はベロアレースの
透けたの。黒地に透けた部分(穴)の縁取りがベージュという感じで・・・・帯は皮です。
羽織紐が、緑と茶(和名で言えれば素敵ですが、勉強不足です)

茶に緑が合うのは、自然界の樹木がその幹と葉で教えてくれますが、
案外反物に緑がありません。薄茶の着物に、濃緑で羽織を誂えたく探しているのですが、見つかりません。

茶に、緑の縞が少し入ったのでも面白いと思うのですが。

長襦袢。

草履。

昨夜の「なり」(装い)ですが、3つ掟を承知で破ってます。

足袋が、こはぜのないソックスタイプで片方の親指に、羽を広げた
鷹が金糸銀糸でワンポイント、あります。

あと、羽織に蝶のブローチをつけてます。

極めつけが着物が実は単衣なんです。(最近、こだわらなくなりました)

改まった席ではないので、いいかげんといえばいいかげん。

単衣でも男は下に下着を重ねられ、更に長襦袢が厚手です。
最近は冷暖房があるので、伝統もやや変わってもいいのかも
しれません。

ブローチは、もともと羽織のレースが洋装の上に羽織れる感覚の、
もともと掟破りを志したものなので、ま、いっかということ。

そもそも皮の帯自体が、サッシュともいうべき感覚でこれじたいが
伝統からははみ出ています。

 

*誤変換その他後ほど、推敲致します。