たにしのアブク 風綴り

86歳・たにしの爺。独り徘徊と追慕の日々は永い。

春の野辺を彩る…イヌザクラ、キツネノボタン、ノミノフスマ

2021-04-30 11:37:49 | 花とつぶやき
令和3年4月30日 バッハはBッKか??
コロナ禍「緊急事態下」4月が終わります。
この時期に東京五輪は「狂気の沙汰」です。

IOCのバッハ会長が言った。
「日本人は、へこたれない精神をもっている。」
馬鹿を言うじゃない。五輪憲章は世界理念なのだ。

この時期に五輪開催を日本人に強要するなんて、
会長自ら「五輪精神」を踏みにじっているものだ。
インドで広がる絶望的な感染状況を知らないのか、
世界の関心は東京五輪よりインド支援に向かっている。

昨日の「昭和の日」は一日中、夜中まで雨模様でした。
2、3月からの「春・芽吹きの競演」。4月を経て、
明日から五月です。野を渡る青風が爽やかな季節になります。
いつもの俳諧逍遥の道野辺で目に付いた花を撮ってきました。

一風変わった桜「イヌザクラ(犬桜)」です。



「サクラの仲間であるがサクラのようには見えない」
「イヌ」は「似て非なるもの」の意味で、
「非(イナ)」から「イヌ」に変化したものと言われています。
ネットからの受け売りです。
線香花火のような、楚々とした姿をご覧になってください。




  
草叢で光るキツネノボタン(狐の牡丹)です。





毒があり、葉が牡丹によく似ているところから、
「狐の牡丹」の名前が付けられたという。
葉は似ているかもしれないが、花はまったく違いますね。



白い小さな花が群生、ノミノフスマ(蚤の衾)です。



衾(ふすま)とは寝具の布団のことです。
小さな葉をノミの布団にたとえたものだされている。
田圃の畦などに一面に生えているのをよく見かけます。



布団と言うと、爺は田山花袋の小説を思い出す。
小説家志望の女弟子の褥を嗅ぎまわる中年男・花袋。
若い女の内弟子に悶々とする文学者のリアル妄想小説。
あっ、花の話でしたね。作家の花袋も花が付いている。



「たにしの爺」徘徊休憩の定席のベンチです。
友だちは猫ちゃんとトンボたちです。
ベンチでぼっちランチが癒しです。



今日はオマケに、ニャンが居た。
猫ちゃんがベンチの下に居るときは、
トンボが寄り着きませんでしたが、



居なくなると戻ってきました。
トンボの方が意識しているのかな。



ところで、妄想は東京五輪に戻りますが、
いま日本で東京五輪を仕切っているのは、
表面的にはこの3人の女性です。
橋本聖子会長、丸川珠代五輪相、小池百合子都知事。
上下関係は知りませんが、目下「女の闘い」の最中です。

だから「女性は決断が出来ない」なんて、
森前会長は呟いているかも…、(ジェンダーでやばいよ)
爺の期待は、この3人の中で唯一独立自尊の小池都知事の決断。
「東京五輪は延期にしましょう」と言ってくれることです。

2020東京は⇒2024東京へ
2024パリは⇒2028パリへ
たにしの爺、1年前に提案しています。

クロロウバイ・くろばなろうばい・白蒲公英・花の観音寺

2021-04-25 10:50:00 | 花とつぶやき
令和3年4月25日 3回目の「緊急事態宣言」発出。
後手後手、小出しに、何回も不徹底な「自粛」要請。
だから「菅総理」はだめだと批判する勢力が多いが、
そうは思はない。これが自由で人権優先政治なのだ。



先週は好天が続きました観音寺に参ってきました。
千葉県柏市逆井にある花の名刹と知られています。
東武野田線の逆井駅から15分。観音寺については、
近くに住むブロ友の雨量子さんがよく紹介します。



「たにしの爺」も5年ぶりに訪ねてきました。
「黒ロウバイ」と「白蒲公英」を見ることが出来ます。
「ロウバイ」と言っても1月に咲いて、冬を彩る、
例の芳香のある琥珀色の花とは非なるものです。



原産地は北アメリカで落葉低木。花期は5月ごろ。
「アメリカロウバイ」「クロバナロウバイ」と言い、
写真のように花の色は赤紫のチョコレート色です。



正月に住宅街のあちこちで咲く琥珀のロウバイと、
まったく違いますね。芳香も余りありません。
それなのになぜ「ロウバイ」というのか。
「蝋梅のアメリカ版」ということでしょう。



「新しく出来ている建物の脇にも、もう一株あった」のではと、
お庭で「花守」の作業をされていた女性に尋ねると、
「ああ、枯れてしまいました」ということでした。





「花の観音寺」と言われる。
色とりどりの牡丹、フジ棚も見事で、
ツツジもきれいに咲いていました。
「白蒲公英」も観られました。







緑木の中に多重の塔が幾つもあって、
初夏のような気配の中、境内の散策を楽しみました。
盛り場に行って、会食会話をしたい人がいる限りコロナは終息しない。
「サケ酒カラオケ会食」とメディアは騒ぎ過ぎです。
CMや番組で「欲望を掻き立てている」







「誰が(想定できる指導者が居ない)何をすれば」
日本のコロナを終息できるのか??、
その方程式を書けないのが現況です。
「ロックダウン、外出罰金、自由と人権制限」
社会活動停止の強権対策を望みますか??



観音寺についてはこれまでに3回、記事をアップしています。
①「初めての黒蝋梅(くろろうばい)」(2015-05-08)
②「花のお寺さん「観音寺」へ行きました。牡丹が見事です」(2015-05-11)
③「花のお寺さん、黒蝋梅、藤棚、ハンカチの木、多重の塔」(2016-05-03)

今日4月20日の誕生日の花はヤマブキです

2021-04-20 20:01:21 | 24節気
令和3年4月20日 今日は二十四節気の「穀雨」でした。
雨の潤いで地表の生気が増す季節になりました。
「強烈な台風2号」が不気味に発生しています。



今朝のNHK「ラジオ深夜便」の最終コーナーの情報で、
今日の誕生日の花はバラ科の「ヤマブキ」だと知りました。
花言葉は「気品、待ちかねる」だそうです。納得です。



「今日は何の日」かと言えば、
高貴(好奇)な「気品の花ことば」が似合う、
「たにしの爺」83回目のバースデーですよ。



「山吹」と言えば、たにしの爺が思い出すのは、
大田道灌の「山吹伝説」です。
<七重八重花は咲けども山吹の(実)みのひとつだになきぞかなしき>



ヤマブキの花は万葉時代から親しまれ詠まれていた。
山の中に生え、しなやかな枝が風にゆれる様子から、
「万葉集」では「山振やまぶり」と呼ばれ、
転じて「山吹」になったと言われています。
まあ、この辺はWebからの受け売りです。



「山吹色」は悪徳商人の代名詞「越後屋」が悪代官への手土産、
「菓子折り」の下に忍ばせる黄金色の小判の隠語にもなった。
「越後屋、おぬしも悪だのう」と悪代官がニンマリする。
そんなテレビシーンは「水戸黄門」でよく見られた。

リルケ「マルテの手記」を読んだ。文章を書いていると「コロナ鬱」が鎮まる。

2021-04-15 10:33:54 | 本・読書
令和3年4月15日 リルケ「マルテの手記」ようやく読み終えた。
ストーリーも、あらすじもないが、詩のような「言葉」があった。
詩人の魂(たましい)を塊(かたまり)にしたような小説であった。

リルケ著「マルテの手記」は文庫本で岩波(望月市恵訳:1946/01/20)書店と新潮(大山定一訳:1953/06/12)文庫がありますが、たにしの爺が読んだのは、最も新しい翻訳版の「光文社古典新訳文庫」(松永美穂訳:2014/06/12)でした。同書のWebサイトでは数ページ試し読みが出来ます。電子書籍にもなっています。

ドイツ語圏を代表するライナー・マリア・リルケは詩人で劇作家であることは、文学史的には知っている。作品は読んだことはない。ただ、古今東西の有名作家や詩人の名句名文を集めた「世界の格言集」とか箴言集「格言の花束」などでリルケと言う名前は見たような記憶があった。あるいはリルケではなく、キケロだったのかな、記憶は定かではない。

★何故この本を読む気になったのか。

なんでこの「マルテの手記」という書物を手に取ることになったのか――。きっかけは最近読んでレビューに書いた「3行で撃つ」(近藤康太郎著)の表紙の扉に印刷されていた一編の詩が目に留まったことからだ(下記の写真)。1行の詩のために、リルケ「マルテの手記」と記され印刷されていた。この本を読んでみたいと思った。



本屋さんを2,3歩いてみたが在庫がなかった。公民館の図書室にもなかったので、県立図書館から取り寄せていただいた。ところがです、手元に届いてから読み始めて「とんでもなく面倒っ臭い」内容であることを知った。まったく面白くない。時代小説を大型活字で読むのが趣味のたにしの爺なのに、この本にはわくわく感が全くないのだ。孤独な詩人の独白が延々と綴られて「病気」「父」「母」「祖父母のお城の館」「間取りや肖像画」「死」「神」「愛」「記憶」が回想され、語られ、思ったりする。

貧乏青年マルテがパリの街を「徘徊し彷徨し回顧し妄想し」(おっと、徘徊と妄想と言うと、耄碌たにしの爺と同じになってしまうのではないか。だが、爺の呟きとは、とんでもなく違います。)詩人リルケの分身とも言える(爺の勝手な想像です。)マルテが街を歩き周り、見たこと、思ったこと、回想と、現在と過去を、行ったり来たりしながら脈絡なく「ぼくは」の一人称で書き連ねる。(途中で彼になったりする。)パリという孤愁の街で悩める詩人の魂を吐露する。詩の塊りのように無垢(ピュア)な言葉が名言のように綴られていくのだ、と言えばレビューらしくなるかな……。

同書を読んで見たいと思った「一行の詩」のためにの記述は、かなり前半部に登場します。<>内は同書のテクストの引用です。

★九月十一日、トゥリェ通りにて

パリに着いたマルテは言う<そう、そいうわけで、人々は生きるためにここに来るのだけれど、ぼくに言わせればむしろ、ここでは人が死んでいっている。ぼくは外出していた。>そう言ってマルテは病院や妊婦を見る。乳母車の子どもを見る。路地の匂いを嗅ぐ。窓を開けたまま眠る。電車が警笛を鳴らして、部屋を駆け抜けていく。騒音はこんな感じだ。<でも、ここにはもっと恐ろしいものがある。静寂だ。>

<見ることを学んでいるいま>ぼくは28歳だが、‥‥論文も戯曲も書いたがひどいものだった。と言って詩について、<早い時期に書くと、あまりにもうまくいかないのだ。詩を書くのは待った方がいい。>として、さらに<詩というのは感情を表現するものだと人々は言うが、それは違う。>感情なら幼いときから持っている。<詩は経験から生まれるべきものだ。>これまでに幾編かの戯曲や詩を発表してきたリルケは振り返る。

<一つの詩のために、たくさんの街や、人間や物を見なければならない。動物を知り、鳥がどんなふうに飛ぶかを感じ、小さな花が朝方開くときの仕草を知っていなければならない。知らない地方で通った道のことを思い返すことができなければならない。>これらのことについて知っても、それだけでは充分でないのだ。

<恋人と愛し合ったたくさんの夜についての思い出がなくてはいけない。どの夜も他の夜とは違っていた。>‥中略‥<思い出そのものが詩に成るというわけでもないのだ。>‥中略‥<ごく稀な瞬間に、詩の最初の言葉が思い出の中心に浮かび上がってきて、そこから出発するということがありえるのだ。>だが、<ぼくの詩はすべて別の生まれ方をした。だから、それは詩とは呼べない。>これまでの幾つかの戯曲や詩について、どんな間違ったものだったかを延々と自問自答していく。



★国立図書館にて

「一行の詩」についての記述はかなり前半で見ることが出来た。
だが同書「マルテの手記」の主要な要素は過去と父母、祖父母らの死と掛り合う人たちの回想、読んだり見たりした読書の登場人物との対話を通じて回想しながら思索を深化させ、さざ波のように広げていく。最後は「神と愛」についての世界になる。

本書の終わり近くになってマルテは、本や詩と対話しながら読書について<すべてを読むつもりでなければ、一冊の本も開く資格はないのだ。>と言う。「たにしの爺」は必死に本を開き続けた。レビューしてみたいと思ったがもう無理です。――かくてもはや耄碌たにしの爺には手に負えない書物になったのでした。

12,3歳にのころだったか、父に連れられて行った祖父母の暮らす館で過ごしたことから、父母の死や祖父母の係累の女性たちや出来事について長い回想が病気のように続く(実際にマルテ本人も病気にも罹った。父母の死、「自分の死の恐怖」に不安に怯える)。リルケは言う「そう、それはありえることだ」。

★天国を見せてくれたアベローネ

「愛」についてはママが亡くなった後、アベローネについて考えるようになる。アベローネは母の妹で、歌を歌う。かなり年上でもあった。<ぼくに別の天国を見せてくれることになる>アベローネ。学生になっていたマルテは休暇でアベローネと再会した。二人はパリ、クリュニー美術館にある「貴婦人と一角獣」のタペストリー画を見て会話する。この後、ママとアベローネと伯爵の館での事が何ページにも渡って綴られる。

<アベローネ、この数年の間にもう一度、君を感じたことがあった。それはヴェネチアでのことだ。秋だった。>ある夜、サロンで集まりがあった。女性が歌った。<アベローネだ、とぼくは思った。>愛されるということは、燃え上がるということだ。愛することは、尽きることのない油で火を灯すことだ。愛されることは消え去ることであり、愛することは持続することである。
支離滅裂になり始めたのでもう読感はやめます。

とにかく最後まで読み切ることで、公民館図書室の職員さんが手数を掛けて取り寄せてくださった本に対する礼儀ではないかと眼を通した次第です。読み終えて思った。さすが岩波、新潮社から文庫本が出ている名著である。心を病んでいるような、孤独な詩人の「生と死」「愛と神」への自問自答ノートだと言えるものでした。なんか、月並みな常套句での締めになってしまったようだ。

訳者の松永氏は「まえがき」で<「マルテの手記」は風変わりな本である。……マルテ、28歳。デンマーク出身。「ものを見る」訓練を自分に課している。だだ、彼が見るものはかなり変わっている。……ヨーロッパ文化の中心地パリで目にする繁栄と雑踏、都市で浮遊する彼の精神がとらえた不安げで不確定な世界の印象を、ぜひ味わっていただきたい。空間的、時間的拡がりを楽しみながら、マルテを追跡していただければ幸いである。>と書いています。
なるほど、そいうことです。

5日後には83歳の誕生日を迎える「耄碌たにしの爺」には、かなりしんどい小説でしたが、終わりまで読めば何かあるのではないかと、ひたすらに読み終えました。読まないで死んでしまうより読んでよかった。

好奇高齢者「一編のブログ記事」を書くために、キイを押していると「コロナ鬱」が鎮まる。

春なのに~トンボさんと、ベンチで隣り合いました

2021-04-12 11:13:46 | 花とつぶやき
令和3年4月12日 新緑が眩しい季節になった。
桜が通り過ぎ若葉が萌え「早緑のグラデーション」が美しい。
四季の中でも一番、生命力を感じる季節です。

先日、徘徊の途中に休んだ公園のベンチで、
トンボさんと隣り合った。この時期に飛ぶトンボ。
早いなー、温暖化の所為?? それとも、
シオヤトンボ、ショウジョウトンボ。



目線の先に「ネコヤナギ」の穂が裂いて(転換ミスではありません)いた。
足元には紫の「ジュウニヒトエ」が咲いていた。
ぼけているのは、ケータイphotの所為です。
徘徊逍遥「たにしの爺」はボケては居ない。



変異株が増殖中の「新型コロナウィルス」
「まん延防止等重点措置」が今日から東京、京都、沖縄で始まった。
とは言っても、籠っていると「生命力が衰える」フレイル化が進む。

「生命力劣化」か「コロナ感染」か、リスクはどっちが大きい???
上野東照宮⇒清水観音堂⇒不忍池弁天島⇒湯島天神⇒神田明神⇒湯島聖堂⇒ニコライ堂。
公民館サークル「小旅会」企画の七つのパワースポット巡りも延期になった。
「高齢者ワクチン」のお知らせが、爺にはまだない。



「徘徊逍遥」は欠かさずやっています。
ガラケー二つ折りの携帯を持って出ます。
緊急避難用に警察と病院の番号は短縮で入っています。
今のところ、出番はありません。



ところで最近、二つ折り携帯電話を持っている人、
めったに少なくなりましたね。
スマホ見ている「腰の曲がった」おばあさんがいたり、
小学生らもスマホを持ち歩いていたり。

通信・メールアプリの「LINE」の個人データが、
「中国に蓄積されていた」という。
Facebookもそうだけれど、なんでこれらの、
SNSメディア拠点が外国に依拠しているのだろう。
まして中国なんか、日本にとって「テキ対国」ではないか。
 どうでもいいことを、長々書き連ねました。
真っ平ゴメンなすって。ご容赦くださいね。

「連れて逃げて……♪♪」行けない矢切の渡し

2021-04-08 12:15:13 | 社会見学
令和3年4月8日 今日は花まつりの日です。
仏教の開祖お釈迦様のお生れになった日です。
3月26日に柴又矢切に行ったことを書きます。



コロナ自粛でしばらく中止していた「小旅会」
久しぶりに東京柴又帝釈天に行って来ました。
桜花が盛りの3月26日、好天に恵まれました。



♪♪連れて逃げてよ、ついておいでよ、
夕暮れの雨が降る矢切の渡し……♪♪
名曲「矢切の渡し」の一節です。


「矢切の渡し」の歌詞の碑

「矢切の渡し」
東京葛飾の柴又岸から、千葉県松戸岸をつなぐ、
江戸時代から残っている手漕ぎ船による渡しです。
小説の舞台や歌謡曲にも唄われる名所ですね。



ところが現在、船は出ているが向こう岸には着かないで、
戻ってきてしまいます。
「ついておいでよ」と連れて逃げても、
対岸に行かないで戻されてしまう。
柴又岸から野菊の墓文学碑には行けませんでした。



運航休止の訳は、松戸側の接岸施設が補修工事中で、
船の発着が出来ない。従って、
船は出て行っても戻ってくる運行になっています。
5月中旬ころまで運航休止になるようです。



私たちは「寅さん映画」でお馴染みの、
河川敷野球場の近くの「ベンチでランチ」
花の咲き乱れる中、川風に吹かれて、
久しぶりにいい時間を過ごしました。



「寅さんが歩いて来る」お馴染みの江戸川堤を歩き、
花の河川敷を眺め、惜しまれて廃業になった「川甚」を見て、
「葛飾柴又寅さん記念館」へ、広場の桜が見頃でした。


惜しまれて廃業になって川魚料理の老舗「川甚」

「笠智衆さん御前様」の柴又帝釈天(経栄山題経寺)にも、
久しぶりの参詣になりました。
写真を何枚か並べます。









往路は、北総線の新柴又駅から柴又街道を歩くこと十数分、
帝釈天参道の入り口に着きました。
人出はパラパラでしたが、お店はほとんど開いていました。













復路。帰りは「さくらがお兄ちゃんを見送る」柴又駅から、
土産に名物「草ダンゴ」を一折下げて、
金町に出て常磐線で帰路につきました。


もう一軒の川魚料理の名店「川千屋」さんは盛業中でした

柴又駅前は、大工事中で「寅さん像」は囲いの中でした。
手焼きせんべいの匂いもありませんでした。

「今井の桜」から、カンナ街道、鮮魚街道、石尊阿夫利神社

2021-04-01 14:30:25 | 社会見学
令和3年4月1日 今日から4月です。
黄砂と共に桜の舞い散る日が続きました。
地廻りの桜は堪能したので、車で遠回りの桜に行った記録です。



★「今井の桜」堤、カンナ街道、印西市松山下公園



手賀の丘公園に行く途中に「今井の桜」という、
知る人ぞ知る田圃の中に「桜並木」があります。
狭い用水の両側に古木の桜並木が2キロほど続いています。



その桜並木の南側を沿うように、
季節になると、道端にカンナの花が咲いている。
「カンナ街道」があります。



「カンナ街道」はしばらくして、桜並木から離れて、
「下手賀沼」の南側を縫うように、見通しの良い田圃の中を走ります。
大きく左カーブをして直進すると「木下(きおろし)街道」に出ました。



信号を待って木下街道を横切ると、印西市松山下公園です。
野球場、陸上競技場、総合体育館があり、
千葉国体ではボルダリングの競技が行われた。
公園は少し高台になっていて、廻りは田圃ばかりです。
桜をイメージしていましたが、サクラはありませんでした。



★木下街道、石尊阿夫利神社、鮮魚道(なまみち)

駐車場から木下街道に降りて右折すれば、
布佐、成田線木下駅近くを通って、
利根川を渡り茨城県の竜ケ崎方面に通じています。
左折すれば、白井、鎌ケ谷、中山競馬場脇を通り、
市川経由で国道4号線、下総中山駅近くに出ます。

松山下公園を出て鎌ケ谷方面に数分走ると、
右側に大きな「石尊阿夫利神社」の一の鳥居が見えてきます。
「石尊阿夫利神社(せきそんあぶりじんじゃ)」への入り口になります。
右折して、入った通りは「鮮魚(なま)街道」という、
謂れのある道でした。帰ってからgoogleマップで調べて分かりました。



3、4分、走ると右側に古寂びた森が続きます。
その中かに、これまた古寂びた「石尊阿夫利神社」が、
ひっそりというか、忘れ去られたように佇んで鎮守していた。



この神社には20年くらい前になるのかな、
かなり昔です。ドライブ中にたまたま立ち寄りました。
祭礼の準備中で、神輿を手入れ中の氏子さんから話を聞きました。



この神社の祭礼の見どころは「神輿落とし」だという。
神輿をヒックり返したり、落としたり荒っぽく扱うほど、
ご利益があるのだという。



改めて例祭の宵祭りに、子どもたちと出かけました。
月明りと灯篭の灯だけの境内で、神輿が転がされ、
ひっくり返され、やがた、石段を駆け上がり奥宮に奉納されました。
奇祭というべきなのでしょうか。
今回、図らずも長い年月を経て、お礼参りになりました。



祭りの写真も幾枚か撮りましたが、当時はフィルム写真で、
ブログアップに際し、探しましたが分かりませんでした。
石尊阿夫利神社例大祭(梯子立て)



境内には由来が書かれている説明板が立っています。
明和元年(1764年)に銚子の海底から2個の青石を引き揚げ、
不思議なご利益があることが分かり論議の末、「石尊」として奉納、
以来、地域の人々に親しまれているという。
(難しい案内板を意訳しました)



今回走った道が「鮮魚(なま)街道」と知りました。
地図で見ると、利根川河岸から松戸まで、
木下街道に並行するように、分岐したり、繋がったり、
松戸付近まで続いています。
何処が終点なのかさえ分かりません。

いつの頃からかそう呼ばれたのか「なま道」。
名前のごとく鮮魚を運んだ街道を当時、
そう言っていたのでしょう。



銚子沖や九十九里周辺で水揚げされた魚貝類を、
利根川を舟で運び木下河岸から、「木下街道」経由で江戸市中に運んでいた。
その後、新田開発などで布佐河岸から松戸を結ぶ道が開通して、
新ルートでの輸送が主流となり、鮮魚(なま)街道と呼ばれるようになった。
この辺のことはWebからの知識です。

いま、自分が走っている道が、
そう呼ばれていたなんて初めて知りました。

★風間街道、「十割蕎麦の彦兵衛」、鎌ケ谷宿、浦安へ

鮮魚街道で「白井工業団地」の中を通り抜け、
「16号」の白石市冨塚十字路に出た。
そのまま突っ切ると「風間街道」になります。
この街道名は以前から知っていましたが、
なんでそう言うのかは知りません。

急カーブをする左手に京葉ガスの野球場があり、
向かい側に「十割蕎麦の彦兵衛」があります。
この蕎麦屋さんには年に3、4回通います。
蕎麦は信州と北海道と越前から選べて、
揚げたての天ぷらが舌妙にマッチします。

風間街道を走っていくと、西白井団地を通過して、
「464・北千葉道路」を横断します。さらに進むと、
「鎌ヶ谷大仏」の近くで「木下街道」と合流します。
その先は前述したように、
鎌ケ谷、馬込十字路で「船取街道」を横切り、
船橋の丸山道、中山競馬場、市川を経て、
「14号」の「下総中山」にでます。東京湾に近いです。

地図を眺めていると、
「木下」「鮮魚」「風間」の三街道は並行したり、
途切れたり、合流していたり判然としません。
「利根川」の水運から「内陸部」への荷馬車街道だったのでしょう。

地図で見ると街道筋には「神社のマーク」が多いです。
運送の安全とか休養地だったのでしょう。
往時は馬の背に、荷馬車に、海産物が積まれていたのでしょう。

道幅は往時とあまり変わりなく、狭く曲がって繋がっている。
今は大型トラックがバンバン走っている。
狭い歩道が申し訳程度に付いているだけの、危険な道になっています。

野馬駆ける緑の大地は、新田開拓、開発の歴史を彩り、
人が住み着いて今のような姿に、移り変わって来たのでしょう。
「今井の桜」堤は新田開発遺産なんでしょう。
「石尊阿夫利神社」は人々の祷の宮だったのでしょう。

長文、最後までお疲れさんでした。