万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

検証できない数字は怪しい-世論調査の問題

2023年02月14日 12時10分02秒 | 統治制度論
 あらゆる物事が数値化されるデジタル社会が、人々が安心して暮らせる信頼社会となるためには、データとして示された数字が正確である必要があります。基礎となる数字に疑いがあれば、人々は、それに基づいて下した自らの判断をも疑わなければならなくなるのです。もっとも、この側面は、デジタル化の進捗度に拘わらず統計全般にも言えることであり、数字が不正確であれば、それに基づく分析も評価も当然に砂上の楼閣とならざるを得なくなります。

 数字は理系の世界でより頻繁に使われるため、主観が混じりやすい文字による言葉よりも科学的で客観性があると見なされがちです。例えば、新聞や雑誌等の大手メディアが「国民の多くは、政府が検討している○○政策を支持しています」とする記事を掲載するよりも、「世論調査を実施した結果、回答者の73%が○○政策を支持するという結果を得た」として世論調査の結果を発表した方が、余程、説得力があります。調査結果を円グラフ等にして掲載すれば、視覚情報も加わってさらに説得力が増すことでしょう。読者の多くが、調査結果として示された‘73’という数字を信じるからです。すなわち、前述した言葉による表現では、人々は、端からメディア側の主観に過ぎないと疑ってかかる一方、世論調査であれば、それが‘調査’の形式を採っている以上、科学的な実験結果と同類とされ、その結果にも自ずと信頼性が備わってしまうのです。

 それでは、世論調査の結果として示された数字は、本当に正しいのでしょうか。科学的な調査と世論調査とでは、実のところ、決定的な違いがあるように思えます。それは何かと申しますと、事後的な検証の有無です。如何なる画期的な発見あれ、将来有望な成果であれ、科学の実験では、再現性がなくてはその普遍性を認めてもらうことができません。誰が繰り返しても、同じ結果が得られなければならないのです。再現性の要求とは、結果として示されたデータの信頼性の問題であり、再現性の確認というプロセスを経ていない実験結果は、信頼するに価しないと見なされてしまうのです。‘数字’、あるいは、データは、常に厳しい検証を受けると言うことになりましょう。

 その一方で、世論調査をみますと、その結果の再現性は望むべくもありません。そもそも、同一の質問を同一の対象者に対して行なうことはナンセンスですし、実際に、殆ど不可能なことでもあります(時間の経過による人々の意識の変化を調べるという目的で実施するケースを除いて・・・)。言い換えますと、世論調査が示す数字とは、第三者による事後的かつ客観的な検証が不可能な数字なのです。

 数字の検証不可能性は、世論調査が悪用されてしまうリスクを意味します。検証できないのであれば、たとえ数字を書き換えたり、改竄しても、それが外部の人々に知られてしまうことはまずありません。仮に、メディアが政府や世界権力等の意向を受けて世論調査を実施したとすれば、‘多数派工作’による世論誘導のための強力な装置となりましょう。特に、民主主義国家では、国民にあって‘多数’の支持があることが重要です。世論調査の結果として虚偽の‘多数’が示された場合、多くの国民は、勝手に○○政策を支持していることにされてしまいます。政府も、世論調査の結果を政策推進の根拠として積極的に活用することでしょう。‘国民の皆さんも、賛成しています’と・・・。また、‘多数’が賛成しているとなれば、同調圧力の空気も醸し出され、不支持や反対を表明しづらくなります。真の多数が不支持や反対であっても、その声は押し潰されてしまうかもしれません。ここで、‘真の多数派’と‘虚の多数派’の逆転現象が起きてしまうのです。

 検証できない数字は怪しいのですから、世論調査につきましては、国民も、世論操作を疑って然るべきと言えましょう。そしてこの問題は、政治におけるAIの活用が模索される中、近未来のデジタル社会の危うさをも示唆しているように思えるのです。 

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