万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

統合の象徴は人ではないほうが良いのでは

2024年03月18日 12時41分12秒 | 日本政治
 日本国憲法の第一条は、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する国民の総意に基づく。」とあります。世界広しといえども、天皇という地位を国家・国民の象徴と定め、合わせてその地位の保障を主権者である国民に委ねている憲法は、おそらく日本国憲法のみでありましょう。

 同条文では、本来両立が殆ど不可能な世襲制と民主主義との間のアクロバティックな折衷が見られるのですが、その背景には、ポツダム宣言の受託に際しての、日本国側からの‘国体の護持’という要求があったとされています。当時の日本国政府は、終戦を遅らせ、戦争を長引かせてでも天皇の地位だけは守りたかったこととなります。この揺るぎない天皇死守の決意は、国民の身を危うくする戦争被害のさらなる拡大の許容を意味しますので、戦後の天皇の地位は、国民の命と引き換えであったと言っても過言ではありません。そしてこの姿勢は、必ずしも政府のみの認識ではなく、国民の多くも天皇陛下のためならば自らの命をも捨てる覚悟で絶望的な戦争に臨んでいたのです。

 昭和天皇のカリスマ性もあって、戦後暫くの間、少なくとも昭和の時代までは、共産主義者を中心とする左派を除いては、概ね天皇の地位は安定していたように思われます。民間出身の皇妃の誕生も、天皇家と国民との間の垣根をなくし、より近しい存在として概ね国民から歓迎されました。‘親しみのある天皇家’の姿がメディアを通してアピールされ、国民の多くも所謂‘象徴天皇’を受け入れてきたのです。しかしながら、平成そして令和へと年号が移るにつれ、皇室を取り巻く雲行きが怪しくなってきたように思えます。様々な情報がネット等を介して明らかになるにつれ、根本的な疑問も沸いてくることにもなったのです。

 この問題は、そもそも明治維新とは何であったのか、という問いかけにもなるのですが、世界戦略をもって海を渡ってきた戦国期のイエズス会の活動もさることながら、江戸末期にあって、倒幕勢力の背後で英国に拠点を置くユダヤ系経済勢力が蠢いていたことは最早公然たる秘密と化しています。ジャーディン・マセソン商会のサポートによって英国留学した長州ファイブをはじめ明治の元老の多くも、同勢力の息がかかっていたのでしょう。となりますと、これらの勢力の支援の元で擁立された明治天皇、あるいは、明治の国家体制にも疑問符が付くこととなります。植民地化を防ぎ、独力で近代国家化を成し遂げたとして高く評価されながらも、明治維新後の国家体制とは、同勢力にとりまして極めて好都合であったことが強く示唆されるのです。世界権力は、外部から操るのに便利な‘一個人への権力や権威の集中’を好むからです。

 かくして、明治維新の実態を解き明かすという課題が見えてくるのですが、この問題は、戦後に始まる権威、あるいは、形式的であれ国事行為を介して政治的な行為をなし得る現行の‘象徴天皇’の問題にも行き着きます。そもそも、日本国や日本国民とは、天皇という存在がなければ纏まることはできないのでしょうか。パーソナルな人格を統合の要とする形態は、独裁者の神格化を伴う独裁体制においてしばしば見られます。超越的な一点に特別なポジションを設け、同ポジションにある人物の下に全国民が等距離に置かれるという円錐形の球心型の統合形態です(円錐のトップに特別の人物が君臨する・・・)。この形態は、権威主義体制とも親和性が高く、全ての国民がトップに対して忠誠を誓い、崇敬心を捧げることで、全体主義的なその“理想像”が完璧となるのです。

 象徴天皇を頂点とする戦後の国家体制も、それが実質的な政治的権能を伴わない権威のみであれ、球心型をモデルとしているとしますと、このモデル自体を維持することが将来の日本国並びに日本国民にとりまして望ましいことなのか、考えてみる必要があるように思えます。しかも、そもそも、神の如き無誤謬の存在ではない、一人の人間に国家や国民の統合の象徴を担わせる制度には無理があるとも言えましょう。人間である限り、必ずや過ちや失敗もしますし、トラブルにも巻き込まれたり、時には国民の反感を買ったり、反発されることもあります(統合の機能を果たせない・・・)。そして、何よりも国民が恐れるべきは、内外の私的勢力による政治的利用です。プライベートを含めて制度的に天皇を他の如何なる勢力や人脈から遮断しない限り、このリスクは常に国民に付きまとうのです。

 このように考えますと、国家並びに国民の象徴は、人ではなく、人格を持たないものである方が安全ということになります。他の諸国では、国旗や国歌などがこの役割を担っているのですが、長きに亘る日本国の歴史に鑑みれば、三種の神器という案もありましょう(三種の神器とは、古代の日本を形成していた三大国の統合の象徴かも知れない・・・)。非人格的なものであれば、欲望に起因する人間的問題とは無縁になりますし、外部勢力に乗っ取られたり、支配の道具として私的に利用される心配もなくなります。客観的な制度論からしても、論拠のある合理的な案となりましょう。政界が急いでいる皇位継承問題や女性宮家の創設よりも、今日、未来に向けて議論すべきは、より無理もリスクもなく、国民の心理的な負担も軽い自然な形での日本国の統合のあり方なのではないかと思うのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする