万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

世界権力は美も嫌い?

2024年03月11日 10時31分48秒 | 社会
 学校教育の美術の時間にあっては、芸術も時代と共に進化するものと教えられてきたように思います。美術史でも、絵画であれ、音楽であれ、何であれ、時系列的に各時代の様式が並べられており、ページの最後に現代アートが登場してきます。そしてそれは、時にして、過去の全ての芸術的試みの末に到達した最先端の様式であるかのように・・・。

 しかしながら、現代アートは、人類が到達した芸術の極みなのでしょうか。最近、街の風景を眺めていますと、一つのおかしな現象に気がつかされます。それは、名称はわからないのですが、どの街にも、デザインとしてパターン化された大きなアルファベットの文字が何者かによって描かれた壁や塀あることです。鉄道沿いの壁や河川敷の堤防など、あらゆる壁に描かれており、誰もが一度は目にしたことがあるはずです。この文字のデザイン、少なくとも日本国では、登場してから半世紀上が経過しても全く変わりがないのです。あたかも時間が止まってしまっているかのようなのです。

 最初に登場したときには、それが路上芸術であれ、現代アートの一表現として好意的に受け止められていたようです。今では、薄汚い壁に浮かび上がる文字列が退廃した雰囲気を醸し出しているのですが、軽快でポップな雰囲気の文字表現は、新しい時代の到来を予感させたからです。そして、同文字の登場は、グローバリズムの象徴でもありました。何故ならば、日本全国の街々に描かれるのみならず、都市を中心に全世界のここかしこに描かれたからです。同文字を目にしますと、これを見る人は、自国に居ることを忘れ、‘グローバルな空間’に迷い込んでしまったかのような気分になります。視覚は空間認識と繋がっていますので、同文字は、その存在だけで空間支配の効果を及ぼしているとも言えましょう。いわば、グローバリズムのマーキングのような役割を担っているたのかもしれません。

 しかも、この画一化された文字、誰が書いているのか分からないのです。今日、素性が不明のアーティストとして‘バンクシー’が持て囃されていますが(どのような理由で、‘バンクシー’という名前で呼ばれるようになったのでしょうか・・・)、同文字をペイントしている人々も素性も不明です。闇に紛れて夜中の内にペイントし、朝方には去って行くようなのです。文字のデザインは画一化され、かつ、全世界的な活動ですので、おそらく一人ではないのでしょう。全世界の諸国に派遣し得る‘ペインティング部隊’が組織されているとも推測されるのです(個人的なアーティストによる芸術活動ではなく、雇用された人々なのでは・・・)。言い換えますと、人目の付くところで大量に描かれながら、一般の人々には誰が描いたものなのか分からないという謎もあったのです。

 一説に依れば、何度消しても直ぐに書き直され、いたちごっことなるので、消す労力を考えて放置されているそうです。しかしながら、落書きはれっきとした犯罪ですので、現場で取り押さえることができれば、以後、繰り返される心配はなくなるはずです。今日では、本気で犯人を捕まえようとすれば、監視カメラの設置で事足りるはずなのです。それにも拘わらず、未だに同文字を目にするのは不可解なことでもあるのです。

 以上に奇妙な文字について述べてきましたが、この現象は、現代の芸術が置かれている状況を極端な形で象徴しているのかも知れません。それは、創造的で芸術の最先端を行くようなイメージがアピールされながら、その実、芸術全般が‘何か’を求めよう、‘何か’に限りなく近づこうとする意欲、あるいは、生き生きとした生命力を失ってしまった時代の象徴です。そして、この‘何か’とは、天界に通じるような美というものなのかもしれません。現代に生きる人々は、新興宗教団体によって超越的な善性の源としての‘神’の概念から切り離されようとしているように(仏や天の概念も・・・・・・)、純粋なる美しさというものからも、巧妙に切り離されようとしているかもしれないと思うのです(つづく)。

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