万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

‘マルハラ’とは何なのか?

2024年03月21日 12時45分16秒 | 社会
 ‘マルハラ’という言葉を初めて目にしたとき、何を問題としたハラスメントであるのか、直ぐには頭に浮かびませんでした。‘パワハラ’のパワは‘パワー’ですし、モラハラのモラは‘モラル’ですので、どことなく想像がつくのですが、‘マルハラ’のマルが一体何を意味するのか、皆目見当がつかなかったのです。‘マルクス’?・・・。そこで、実際に関連の記事を読んで分かったのですが、マルハラの‘マル’とは、日本語の句点の‘。’なそうなのです。

 何故、マルハラという言葉が生まれた、あるいは、流布されるようになったのかと申しますと、‘。’で終わる文章に対して威圧感を感じる人が、若年層、とりわけ若い女性に多いというのがその理由です。仕事などでメッセージ・アプリを使用するに際して、上司や先輩の同僚からのメッセージの最後に‘。’が打たれていると、叱責されているようで怖いというのです。ハラスメントとは、迷惑行為や他者に対して精神的なダメージを与える行為を意味しますので、句点の‘。’も、他者に不快感を与えているのだからハラスメントに当たるというのがその言い分です。

 しかしながら、‘マルハラ’と他のハラスメントとでは、大きな違いがあるように思えます。パワハラにせよ、モラハラにせよ、パワーやモラルそのものが‘悪い’という訳ではありません。これに依拠した他者に対する行き過ぎた行為が、ハラスメントとして問題視されるのです。このため、モラハラをなくすためにはモラルをなくせば良い、という議論には決してなりません(ハラスメントが解消されるどころか、爆発的に増加されてしまう・・・)。これらのケースでは、許容範囲や一般的な常識の範囲を超えて明らかな利己的他害行為となった場合、ハラスメントと見なされるのです。

 ところが、‘。’の場合には、先ずもってハラスメントの認定に際して、合理的な根拠があって許される範囲、あるいは、限度というものが存在しません。‘。’を使うか使わないかの二者択一の問題となり、使った時点で、即、ハラスメントとされてしまうのです。このため、‘マルハラ’を社会からなくすことこそ正義、とばかりにマルハラ撲滅運動が広がるとしますと、日本語の書き方から句点をなくさなければならなくなります。

 ところが、言語は、国民の相互の意思疎通やコミュニケーション、並びに情報伝達等の手段であり、言語空間はおよそ社会空間と一致します。いわば、社会基盤とも言えるのであり、それ故に、義務教育にあっても句読点の使用を含めて国語は必修科目なのです。日本語は、日本国の公用語ですので(もっとも、当然すぎて憲法や法律によって国語として制定されているわけではない・・・)、マルハラの撲滅運動は、日本語の基礎的表記方法を‘勝手に’変えてしまうことを意味するのです。この突然の変更は、一般の日本国民が望んでいることなのでしょうか。一部の若い女性の句点に対する不快感への配慮は、他の大多数の国民が問題なく使用している自国語の表記方法を変える正当なる理由となるとは思えません。仮に変えるのであれば、国民的な議論並びにコンセンサスの形成を要しましょう。

 句点がない文章とは、読者にとりましては大変読みづらいばかりか、文の区切りが明確ではないので、誤読や誤解のリスクにも晒されます。あまりの不便さからあり得ないようにも思えるのですが、最近、SNS等におけるショート・メッセージのみならず、レポートなどでも句点のみならず読点も全く使われていない長文の文章を見るようになりました。それも、一つや二つではありません。一体、何が起きているのでしょうか。

 降って沸いたような‘マルハラ’の登場が句読点の消滅と連動しているとしますと、そこには、ポリコレやコンス普及問題にも通じるような政治的な思惑があるようにも思えてきます。ジョージ・オーウェルの『1984年』には、ニュースピークという‘新しい英語’が描かれていますが(名詞を並べるので文法的には中国語風・・・)、文章表記の変更を暗に要求するマルハラも、ハラスメント反対運動を装った社会改造計画(グレートリセット?)の一環であり、日本社会に対する隠れた工作活動なのではないかと疑うのです。

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