内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

引用の連鎖 ― 三木清・パスカル・モンテーニュ

2018-02-24 23:32:34 | 哲学

 昨日の記事で取り上げた三木清『人生論ノート』の中のパスカル『パンセ』から引用箇所を特定しようとしていたとき、以下のようなごく短い断章に行き当たった。

Contradiction, mépris de notre être, mourir pour rien, haine de notre être. (Br. 157, Laf. 123, Sellier 156, LB. 114)

矛盾。われわれの存在を軽んずること、つまらぬもののために死ぬこと、われわれの存在に対する嫌悪。(前田・由木訳)

 セリエ版のこの断章の脚注には、モンテーニュ『エセー』第二巻第三章「ケオス島の習慣」から、ルクレティウス『事物の本姓について』からの引用を除いた、以下のような長い引用がある。宮下志朗訳のみ引く。

 また、われわれの生を軽蔑するという考え方も、ばかげたものというしかない。というのも、なんといったって、それこそが、われわれの存在なのであって、われわれの全体なのであるから。われわれよりも、もっと気高く、豊かなものを有する存在ならば、人間存在を責めることもできようが、われわれが自分を軽蔑して、投げやりな態度をとるのは、自然に反したことというしかない。自分を憎み、軽蔑するのは、人間特有の病気であって、他のいかなる被造物にも見られないのである。
 われわれが、現在の自分とは別の存在でありたいと望むのも、これ同様の無意味な考えである。それは自己矛盾する願望であるから、その結果は、われわれにはなんの関わりももたない。人間から天使になりたいと望む人は、自分のためになにもしたことにはならないのだし、そのことでなにか得したかといえば、全然そんなことはない。なぜならば、そもそも自分がいなくなってしまったら、はたしてだれが、この進歩向上を感じて、それを喜んでくれるというか。
[…]
 死という代償を支払って、安心や、苦痛や苦しみの不在、現世における不幸からの脱却を買い取っても、われわれになんの幸福ももたらしはしない。戦争を避けても、平和を享受できなければ詮なきことだし、苦痛から逃れても、安らぎを味わえないのなら、これまた詮なきことというしかない。












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