内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

社会存在の論理としての「種の論理」の多角的検討(最終回)

2013-09-23 00:30:00 | 哲学

 今朝(日曜日)は、プールは定刻の8時に開門。最初の10分くらいはコースにただ1人で快適に泳げた。いつもこの最初の貴重な10分間に500から600m泳いで、後は同じコースでその日泳ぐ人たちのペースに合わせて泳ぐ。今日は2人の老婦人がどうやったらあんなにゆっくり泳げるのだろうと感心するくらいのペースで泳がれるので、随分待たされた。彼女たちなりに手足は結構動かしているのである。でも進まないのである。これもひとつのテクニックとさえ言いたくなるくらいである。日本のプールと違って、追い越し禁止ではないのだが、同じコースで往復するので、対抗泳者のことも気にかけねばならず、私は追い越しを原則としてしないで待つ。もちろん全体の流れなどには一切配慮せず、自分のペースを守るために追い越していく人のほうが多い。
 今週から12月第1週まで、水曜日が極めてハードな一日になる。朝8時には本務校に到着、8時45分から1年生の「日本文明」の講義と演習2クラスとで3コマ連続。それらが12時15分に終了。13時から15時まで修士の「専門日本語:経済」の授業。それが終わったらすぐにパリに移動し、17時半から19時半まで « Pensée contemporaine »(「近現代思想」あるいは「同時代思想」と訳すべきか。理由は6月19日の記事で説明した)の講義の今年度第1回目。今年度は昨年度よりさらに取り上げる日本の哲学者・思想家の数を増やしちょうど10人とする予定(取り上げる10名は6月9日の記事に掲載した)。最初の2回の講義は、全体講義プランの説明、予備的考察、方法論について話す。それ以降の10回で1回に1人ずつ取り上げていく。そして年明けの最終回で全体の総括を行う。今年は果たして何人出席してくれるだろうか。昨年は履修登録学生17名、毎回平均出席者は10人前後だったが、今年は同じ水曜日でも時間が遅い。皆帰りが遅くなるのをいやがるのが普通だから、そもそも履修登録者が少ないことだろう。
 というわけで、そのハードな水曜日に備えて、今日中に本務校の1年生の「日本文明」準備は終わらせてしまいたい。今さっき講義のためのパワーポイントづくりは終了。これから演習のためのパワーポイントづくりにとりかかる。

 さて、「種の論理」の多角的検討項目列挙の最終回。第9、10項目を以下に提示する。

 9/ 経済学的問題
 田辺の「種の論理」の形成にマルクス経済学思想の摂取、対決、批判が果たした役割は非常に大きい。「種の論理」が生産関係、階級社会、資本主義、社会主義、共産主義等のマルクス経済学の諸概念をどのようにその全体構造の中に位置づけているかを見ることによって、「種の論理」が現実に有効性をもった具体的実践の論理としての可能性をなお秘めているかどうか測ることができるだろう。1930・40年代の思想史を語る上でマルクス主義が日本の知識人たちに及ぼした影響は大きなテーマの一つであるし、マルクス主義にどう対処したかという点から当時の日本の知識人たちを分類することもできる。京都学派に限ってみても、戸坂潤や三木清などのいわゆる京都学派左派、彼らなど弟子からからむしろ影響されるかたちでマルクスに取り組んだ西田や田辺、その他の彼らの弟子たちでそれぞれにスタンスが違う。ただ私自身にとっては、この問題系は手に余る。他の研究者のこのテーマをめぐる著作から学ぶことばかりである。
 10/ 法学的問題
 丸山の書評では触れられていない問題だが、国家存在の論理としての「種の論理」を検討する際に、〈法〉の二重の機能がそこにどう統合されているかが問われなくてはならない。〈法〉は、一方で、権力の強制機構として法体系という現実的形態を取るが、他方で、権力の(自己)規制と個人の諸権利の尊重・保護・保証のための限定化・有限化・相対化の装置としても機能しなくてはならない。つまり、〈法〉は権力を現実に有効化すると同時にその適用を一定の範囲内に制限する自己規制的なものでなくては、独立した近代国家における法として機能しえない。ところが、田辺の「種の論理」においては、〈法〉による権力発動の規制、権力制限・濫用制限装置としての〈法〉という後者の面がまったく考慮されていない。


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