内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

滞仏丸17年

2013-09-10 02:26:00 | 随想

 毎年この日は私の人生にとってのひとつの大切な「はじまり」を思い出させる。1996年9月10日に初めてフランスの地に、というよりも初めて異国の地に降り立った。成田発のエール・フランス便が出発予定時刻よりも5時間遅れ、シャルル・ド・ゴール空港からその日のうちにストラスブールへ国内便で移動することになっていた当初の予定が最初から大幅に狂い、到着日は空港内のシェラトン・ホテルに投宿(宿泊料はもちろん航空会社の負担)。翌朝一番の便でストラスブールに向けて発った。日本で予約しておいたホテルが市内ではなく空港の近くで、タクシーを使わないと市内への移動もままならないような不便で殺風景な郊外にあることがホテルに着いてはじめてわかる(今じゃ考えられませんよね。ネットで簡単に場所の確認ができるし、予約も実に簡単)。何はともあれ一旦部屋に落ち着いてから、さて昼食でも取ろうかとホテルのレストランに降りていく。ところが、席に落ち着く間もなく、私に「電話が掛かってきている」というアナウンスが流れる。まさか日本からではないとすると、一体誰から? 電話番号を伝えてあるのは、受け入れ先のストラスブール大学の指導教授ジャン・リュック・ナンシー先生だけだったが、まさか一面識もない東洋の私費留学生ごときに、高名な哲学者であり当時超多忙な学部長でもあった先生から直々に到着早々連絡があるとも思えないがと半信半疑で受話器を取ると、まさにそのナンシー先生であった。まったく予想もしていなかったことで気は動転するし、その当時はろくにフランス語が話せなかったし、しかも電話でのフランス語会話など経験がなかったこともあり、もうしどろもどろ、先生の方は非常にゆっくり丁寧に話してくださっているのに、すぐには聞き取れない。呆れたように「英語のほうがいいか」と聞かれたので、「いや、フランス語のほうがいいです」と小さな声で答える。これはやせ我慢でも格好つけでもなく、ほんとうにフランス語のほうがまだましだったからにすぎない。ようやくのことで、昨晩到着すると聞いていたから助手の一人を空港まで迎えにやらせたが、誰もそれらしい家族連れ(配偶者と2歳半の娘が一緒だった)の東洋人は見当たらなかったということなので、いったいどうしたのかと心配して電話してくれたことがわかり、私の方でもなんとか飛行機の遅れのことを説明して、やっと双方ともに事態が飲み込めたという次第であった。そして翌朝自宅に来るようにとの先生のお招きを感謝して、やっとのことで受話器を置いたときには全身汗でびっしょりであった。因みにその日は曇で肌寒い天気だったことを覚えている。
 それから丸17年が経った。その間にいったいどれほどのことがあったことだろう。いろいろあった。いや、ありすぎた、と言うべきか。だが、あの時のすべてに覚束なかった自分と、今こうしてフランス国家公務員として、と言えばあるいは聞こえがいいかもしれないが、実のところはヨーロッパ諸国の中でも薄給で知られたフランスの大学の准教授として日本の思想と歴史を教えながらパリで独り暮らしをしている自分との間に、どれほどの違いがあるのか。この17年間に満足もしていなければ、自負もない。いろいろままならぬことばかりだが、それらが自分ではどうにもできないことの場合、腹も立たない。いや、少しは立つ。でもすぐ収まる、あるいは忘れてしまう。そしてまた思い出す。ただその繰り返し。そうかと言って後悔もない。後悔するのは、自力で別様にもできただろうにという自負の裏返しだから。自力など頼むに足りない。とはいえ、自分の不甲斐なさを棚上げして、開き直るというのでもない。私に対するあらゆる正当な批判は、それらをありがたく甘受します。運命論者ではまったくないが、こうなるべくしてこうなってしまったのではないだろうか、と思う。投げやりなのでも、自暴自棄なのでも、悲観主義なのでもない。なるべくしてなってしまった今の自分をそれとして受け入れ、ただもがき苦しむばかりである。幸福でもないが、不幸でもない。かくにしてなお生きざるをえぬのは、人生の過酷さであろうが、かくにしてなお生きることを許されているのは、命そのものの無限の慈悲深さでもあろうか。「信ずれば、救われる」と信ずるのは、すでに己の計らいであろう。まさに罪悪深重の凡夫、それ以外の何者でもない。