内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

inclusion と digestion ― 異文化受容の2つのスタイル(承前)

2013-08-08 07:00:00 | 哲学

 とはいえ、〈消化〉と〈封入〉は、互いに排他的で相容れない作用ではない。一つの文明が、その生成・発展過程において、外来物に対して、あるものは〈消化〉し、他のあるものは〈封入〉するという、いわば1種の選択的透過性を示すということはありうるし、それは反自然的なことだとは言えないからである。しかし、ある文明が〈消化〉を忘れ、〈封入〉に一方的に傾斜する時、それはその文明が衰亡過程に入ったことを意味する。〈消化〉は、変動する外部に開かれた過程であるゆえに生体にとって危険も伴う。それは環境に適応する動的で柔軟な生体構造を前提とする。それに対して、〈封入〉は、〈外部〉を取り込みつつそれを体内で同化もしなければ受け入れもしないという、高度な文明にのみ現れる、反生命的でパラドクシカルな技術である。しかし、その適用の度が過ぎれば、その技術はそれを発明した文明そのものを脅かす。それは一個の生体が外部からとりいれたものを消化せずにそのまま体内に蓄積させれば、その蓄積物はやがてその生体の健康を損ない、ついには死に至らせるのに似ている。
 ルネッサンス期以降のヨーロッパ文明が、それまでの千年を超える期間、つまり中世全体を通じて、外部から来たものをゆるやかに〈消化〉することによって蓄積された膨大な栄養エネルギーによって開花したとすれば、近代ヨーロッパ文明は、その覇権の世界規模での拡大とともに、徐々に〈消化〉を忘却し、〈封入〉の技術を洗練させ、それに淫していく過程だと見ることもできる。
 博物館学が近代ヨーロッパで生まれ、高度な発展を遂げたのは、けっして偶然ではない。なぜなら、博物館とは、〈封入〉の組織化・制度化の具体的手段にほかならないからである。私たちは博物館・美術館(フランス語ではどちらも musée)を訪れ、そこでいったい何を喜んで「鑑賞」しているのか。文明の精華、文化の粋、芸術作品中の傑作・名品などと人は答えることだろう。しかし、それらの多くは〈封入〉の産物であることを忘れてはならない。フランスには、ルーブルはじめ多数の美術館・博物館があるが、それらは近代ヨーロッパ文明の過去の栄華の象徴である同時に、その文明の不可逆的な衰亡過程の表徴でもあるのだ。
 あらゆる文明は、〈消化〉から〈封入〉へと必然的に移行し、衰亡するしかないのであろうか。しかし、私は、この2つのスタイルとは異なった、もう一つの異文化受容のスタイルがありうると考える。それを私は〈受苦〉と名づける。それは、〈封入〉のように、外来物を二重の意味で安全な場所に保管あるいは陳列することによって、その外来物が引き起こすかもしれない観察者の変容を排除することでもなく、外来物が主体に完全に取り込まれ、「血肉化」され、その原形が失われてしまう〈同化・吸収〉のことでもない。〈受苦〉とは、外から来るものをそれとして受け入れ、それを〈消化〉も〈同化〉も〈吸収〉もせず、かといって〈封入〉もせず、その外来物とそれを受け入れる主体との違和が引き起こさざるを得ない〈苦しみ・痛み〉をも、その主体が受け入れることである。
 この〈受苦〉により主体が互いに他者を受け入れ合うことによって開かれる「受苦可能性(passibilité)の共同体」に、私は未来への微かな希望の曙光を見出そうとしている。