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「しんぶん赤旗」の記事を中心に、政治・経済・労働問題などを個人的に発信。
日本共産党兵庫県委員会で働いています。

検証金融政策② ヘドロのように沈殿

2021-06-10 07:12:54 | 経済・産業・中小企業対策など
検証金融政策② ヘドロのように沈殿
東京工科大学名誉教授 工藤昌宏さん

日本経済は、1990年代に入ると銀行の不良債権が表面化、97年のアジア通貨危機、98年の消費税率引き上げなどを契機に大手銀行の破綻を伴う経済危機に陥りました。

マイナス金利
99年2月、日銀はゼロ金利政策を導入し、2001年3月には量的緩和策に踏み切りました。これは、金利の上げ下げでは、金利が0%に近付くと対応ができなくなるため、日銀が金融機関などから国債を購入してお金を供給するというもの。消費者物価上昇率が安定的に0%以上になるまで続けるとしました。日銀は06年3月には量的緩和、7月にはゼロ金利政策をいったん解除。しかし、8月には量的緩和解除の前提であった消費者物価指数がマイナスに落ち込んでしまいます。
08年のリーマン・ショックを契機に日銀はリスク資産の購入に踏み切ります。また、10年10月にはゼロ金利政策を復活させ、12月には株価維持を目的に上場投資信託(ETF)の購入を開始。13年3月、日銀総裁に就任した黒田東彦氏は「物価上昇率2%目標を2年程度で達成する」と表明し、4月には「異次元金融緩和策」(量的・質的金融緩和策)を発表しました。
これは長期国債の大量購入(量的)、ETFや不動産投資信託(REIT)などのリスク資産の購入(質的)によって世の中に大量のお金を流し込もうというもの。翌14年4月の消費税率8%への引き上げを契機に7~9月期の国内総生産(GDP)成長率が大幅に落ち込み、慌てた日銀は同年10月31日、資金供給量を年80兆円程度に拡大する追加金融緩和に踏み切ります。しかし、株価も物価も静まり返ったまま。GDPの衝撃は、日銀の金融緩和策による経済再生というシナリオを一気に打ち砕いたのです。この段階で、早くも金融緩和策の限界があらわになるとともに2%物価目標も色あせていきました。15年4月、日銀は2%達成期限を先延ばしし、以後、毎年先延ばしを繰り返しています。
15年8月、日銀の国債保有残高は初めて300兆円を突破し、市場に出回る国債の3割を占めるに至りました。しかし、日銀の国債購入代金は金融機関の日銀当座預金にヘドロのように沈殿したまま世の中に流れていないことが判明。そこで、16年1月、日銀はついにマイナス金利政策に踏み切りました。マイナス金利政策は、「金利全般により強い下押し圧力を加えていく」(黒田総裁)、金融機関の市中への貸し出しを促すことなどが目的。マイナス金利の導入は、もはや量的緩和が効かないことを印象付けました。



マイナス金利が議論された参院財政金融委員会に出席する黒田東彦日銀総裁=2016年2月18日

「敗北宣言」
さらに、マイナス金利政策は銀行の収益を圧迫するという弊害を持ちます。16年9月には政策の軸足をマイナス金利から、長期金利の水準をゼロ%水準に誘導する政策に移しました。それでも効果は上がらず、同年9月28日、黒田総裁は「金融政策は万能ではない」と発言。同年10月、日銀は物価の2%目標達成時期を17年度中から18年度に先送りしました。先送りは15年春以降5回目です。これは、異次元緩和策の「敗北宣言」に等しいものです。日銀の国債保有残高は、13年4月時点の13兆円から16年10月に400兆円を突破、21年3月末には532兆円に達しています。
米FRB(連邦準備制度理事会)が15年12月には利上げに転じ、欧州中央銀行(ECB)も16年12月以降は量的緩和の縮小に向かったのとは対照的です。日銀は18年以降国債購入額を減少させたとはいえ、他の中央銀行では行われていないETFやREITを含めた大規模な資産購入による金融緩和策から一度も抜け出せないまま、20年の新型コロナウイルス対策を余儀なくされたのです。
21年3月19日、日銀は官製椙場という株式市場のゆがみを是正するためにETFの年6兆円の購入目安を撤廃。金融機関の収益機会を確保するために長期金利の誘導変動幅をプラスマイナス0・2%からプラスマイナス0・25%に拡大しました。もはや焼け石に水です。
(つづく)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2021年6月9日付掲載


金融緩和策の究極の手段、ゼロ金利政策。しかし、それでも効果はでませんでした。
銀行の収益は悪化。利ザヤで稼ぐことができなくなり、手数料アップなど銀行の顧客に負担を強いることになっています。
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