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ドビュッシー:『牧神の午後への前奏曲』の名盤

2010年03月12日 17時37分00秒 | 私の「名曲名盤選」




 2009年5月2日付の当ブログに「名盤選の終焉~」と題して詳しく趣旨を書きましたが、断続的に、1994年11月・洋泉社発行の私の著書『コレクターの快楽――クラシック愛蔵盤ファイル』第3章「名盤選」から、1曲ずつ掲載しています。原則として、当時の名盤選を読み返してみるという趣旨ですので、手は加えずに、文末に付記を書きます。本日分は「第38回」です。

◎ドビュッシー:「牧神の午後への前奏曲」
 この曲は、まどろみながらも前へ前へと、ひた押しに進む方向性が大切だ。ワグナーを思わせる唐草模様のような旋律のつながりがそれを実現するわけだが、ジャン・フルネ/コンセルトヘボウ管盤は、遅めのテンポで間合いを充分とりながら進行する音楽で、そうした流れを精妙に描いた演奏だ。まどろみ、ゆらめき、大きくうねる音楽を、表情豊かに刻明にたどる演奏は、無限の彼方への流れを感じさせる。この時代のコンセルトヘボウ管の管楽器セクションの音色の魅力にも助けられた名演だ。
 ミュンシュ/フランス国立放送管盤はミュンシュ最晩年の、コンサートホール・ソサエティへの録音で、初出LPは追悼盤として発売された。この曲の演奏に求められる鋭敏な色彩感覚を充分に発揮しながらも、それを、前進してゆく推進力のうねりの中に大きく包み込んでいる。細部には頓着しないが、要所での細心さは確保されている。これは、ミュンシュがボストン時代に獲得した、推進力のある音楽の〈幸福な豊かさ〉というものだ。ミュンシュにはボストン響との盤もあり、こちらの方が入手しやすいが、いくらか速めのテンポでの前進性が生々しい分だけ、透明な静寂さが導き出す広々とした感覚が不足している。
 フルネとミュンシュに共通点があるとすれば、それは全体のふっくらとした印象、春風のような暖かさだ。ところがアバド/ロンドン響盤になると、音楽がずっと痩身のすらりとしたプロポーションになる。弦楽の絡みは繊細で傷つきやすい世界の美しさだ。秋風が静かに吹くような感覚をこの曲に持込んで成功した個性的な演奏だ。
 そのほか、くっきりとした輪郭の中に、官能の不安定な揺れ動きが確保されているプレヴィン/ロンドン響盤、パリ管が創設直後の時期に、ジャン=ピエール・ジャキャの指揮で録音した、色彩感に溢れる充実した響きの演奏が、それぞれ魅力がある。

《ブログへの掲載にあたっての追記》
 この原稿を書いた当時や、それ以降に発売された有名な演奏では、マルティノン/フランス国立管やブーレーズ/クリーヴランド管には魅力を感じなかった記憶があります。私が考えているこの曲の旋律の連続性を実現している演奏として、カラヤン/ベルリン・フィル盤は、見事な演奏でした。もう一度、聴き直さなければならないかとも、記憶を辿りながら思っています。エマニュエル・クリヴィヌ/リヨン管、バレンボイム/パリ管は、聴かなくてはと思いながら、まだ聴いていません。おそらく、なんらかのインパクトは感じるだろうという予感があります。
 私の推奨盤がどれも入手しにくいものなのは残念です。最近の状況を調べていませんが、フルネは都響との録音もありますが、コンセルトヘボウ盤はフィリップス初期のステレオ録音。CDは、インバルのドビュッシーの付録に付いているのを持っていますが、その後のCD化は調べていません。この原稿の元稿がレコード芸術誌に掲載されたころ、既に輸入盤でも廃盤でした。
 ミュンシュのコンサートホール盤も、日本メールオーダー社のCDでも持っていますが、もとのLPに比べてかなり貧弱な音です。いずれにしてもとっくに廃盤。現在はどうなっているでしょう。
 ジャキャ/パリ管盤は、パリ管創設時のおひろめとして制作された『ラ・マルセイエーズ』という小品集の1曲です。LPで日・仏・米の3種を持っていますが、仏盤が収録曲が1曲異なります。15年ほど前に仏EMIでCD化されましたが、現在はどうでしょう。これは、バレンボイム/パリ管盤でもソロ・フルートを吹いているミシェル・デボストもすばらしいですが、当時ミュンシュに大抜擢されて、この国家的プロジェクトとしてスタートしたオーケストラの副指揮者に就任したジャキャが、とても才能のある指揮者であったことを証明する1枚です。





 
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