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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

小泉八雲

2017-06-09 14:19:15 | 文化
以下引用
>日本の生活にも、短所もあれば、愚劣さもある。悪もあれば、残酷さもある。だが、よく見ていけばいくほど、その並外れた善良さ、奇跡的と思えるほどの辛抱強さ、いつも変わることのない慇懃さ、素朴な心、相手をすぐに思いやる察しのよさに、目を見張るばかりだ。

同感です。

>日本がキリスト教に改宗するなら、道徳やそのほかの面で得るものは何もないが、失うものは多いといわねばならない。これは、公平に日本を観察してきた多くの見識者の声であるが、私もそう信じて疑わない。

そうですね。

>旅人が、社会変革を遂げている国を――とくに封建社会の時代から民主的な社会の現在へと変わりつつあるときに突然訪れれば、美しいものの衰退と新しいものの醜さの台頭に、顔をしかめることであろう。そのどちらにも、これから日本でお目にかかるかもしれないが、その日の、この異国情緒溢れる通りには、新旧がとてもうまく交じり合って、お互いを引き立てているように見えた。

良い観察ですね。

>街道沿いでは、小さな村を通り抜けざまに、健康的で、きれいな裸体をけっこう見かける。かわいい子供たちは、真っ裸だ。腰回りに、柔らかく幅の狭い白布を巻いただけの、黒々と日焼けした男や少年たちは、家中の障子を取り外して、そよ風を浴びながら畳の上で昼寝をしている。男たちは、身軽そうなしなやかな体つきで、筋肉が隆々と盛り上がった者は見かけない。男たちの体の線は、たいていなめらかである。

そうですね。

>田舎の人たちは、外国人の私を不思議そうな目で見つめる。いろんな場所で私たちがひと休みをするたび、村の老人が、私の洋服を触りに来たりするのである。老人は、謹み深く頭を下げ愛嬌のある笑みを浮べて抑えきれない好奇心を詫びながら、私の通訳に変わった質問をあれこれぶつけている。こんなに穏やかで優しい顔を、私はこれまで見たことがない。その顔は、彼らの魂の反映であるのだ。私はこれまで、怒鳴り声をひとつも耳にしたことがないし、不親切な行為を目にしたこともないからである。

貴方は上客ですね。

>これまで立ち寄った小さな田舎の村々と変わらず、ここの村の人たちも、私にじつに親切にしてくれた。これほどの親切や好意は想像もできないし、言葉にもできないほどである。それは、ほかの国ではまず味わえないだろうし、日本国内でも、奥地でしか味わえないものである。彼らの素朴な礼儀正しさは、けっしてわざとらしいものではない。彼らの善意は、まったく意識したものではない。そのどちらも、心から素直にあふれ出てきたものなのである。

我々には、一種の白人崇拝がありますからね。貴方が黒人であったなら、話の内容ももっと違ったものになったかもしれません。

>この村落は、美術の中心地から遠く離れているというのに、この宿の中には、日本人の造型に対するすぐれた美的感覚を表してないものは、何ひとつとしてない。花の金蒔絵が施された時代ものの目を見張るような菓子器。飛び跳ねるエビが、一匹小さく金であしらわれた透かしの陶器の盃。巻き上がった蓮の葉の形をした、青銅製の茶托。さらに、竜と雲の模様が施された鉄瓶や、取っ手に仏陀の獅子の頭がついた真鍮の火鉢までもが、私の目を楽しませてくれ、空想をも刺激してくれるのである。実際に、今日の日本のどこかで、まったく面白味のない陶器や金属製品など、どこにでもあるような醜いものを目にしたなら、その嫌悪感を催させるものは、まず外国の影響を受けて作られたと思って間違いない。

そうかもしれませんね。

>この国の人はいつの時代も、面白いものを作ったり、探したりして過ごしてきた。ものを見て心を楽しませることは、赤ん坊が好奇心に満ちた目を見開いて生まれたときから、日本人の人生の目的であるようだ。その顔にも、辛抱強くなにかを期待しているような、なんともいえない表情が浮かんでいる。なにか面白いものを待ち受けてる雰囲気が、顔からにじみ出している。もし面白いものが現れてこないなら、それを見つける旅に、自分の方から出かけてゆくのである。

芸は身を助ける。おかげで我が国は、技術立国を経て経済大国になりました。

>神道は西洋科学を快く受け入れるが、その一方で、西洋の宗教にとっては、どうしてもつき崩せない牙城でもある。異邦人がどんなにがんばったところで、しょせんは磁力のように不可思議で、空気のように捕えることのできない、神道という存在に舌を巻くしかないのだ。

同感です。日本人の精神活動は、文章・言説では表現できません。心からこころへと伝えられます。 

>と同時に、同じような理由で、日本の古い庭園がどのようなものかを知った後では、イギリスの豪華な庭を思い出すたびに、いったいどれだけの富を費やしてわざわざ自然を壊し、不調和なものを造って何を残そうとしているのか、そんなこともわからずに、ただ富を誇示しているだけではないかと思われたのである。

趣味の違いでしょうかね。

>しかし、心得るべきことは、どんなに貧しくて、身分が低いものであろうと、日本人は、不当な仕打ちにはまず従わないということである。日本人が一見おとなしそうなのは、主に道徳の観念に照らして、そうしているのである。遊び半分に日本人を叩いたりする外国人は、自分が深刻な誤りを犯したと思い知るだろう。日本人は、いい加減に扱われるべき国民ではないのである。あえてそんな愚挙に出ては、あたら命を落してしまった外国人が何人もいるのである。

日本人には気をつけなくてはいけませんよ。意地・根性があります。侮ると命を落とします。

>日本人のように、幸せに生きていくための秘訣を十分に心得ている人々は、他の文明国にはいない。人生の喜びは、周囲の人たちの幸福にかかっており、そうであるからこそ、無私と忍耐を、われわれのうちに培う必要があるということを、日本人ほど広く一般に理解している国民は、他にあるまい。

そうですね。そうでなければ平和憲法を金科玉条と考えることはできないでしょう。




科挙の制度

2017-06-09 10:29:48 | 教育

リンク より(抜粋)

・・・・・・・・・・・・

>●「日本の官僚制度は中国の"科挙"がモデル」
>日本の官僚制度は明治初頭に、中国の「科挙」をモデルとして作られた。>「科挙の制度」とは、高級官僚をペーパーテストで募集する仕組み。奈良時代に一度導入を試みたが、日本には合わなかったらしく、平安時代に廃止された。

科挙の制度の採用は、身分制度の否定につながりますからね。侍たちには良くない制度です。

>しかし明治時代になって突如として復活。導入の目的は、廃藩置県によって失業した大勢の武士を、教育によって「官僚」という名の特権階級に仕立て変えるということだった。

教育というよりも、選抜によってというところでしょうね。

>しかし明治の終わりから大正の初めのころにはもう、いわゆる「受験」を巡る弊害が、大問題として扱われるようになってしまっていた。
>何が大問題だったのか?>それは「受験」をパスして大学へと進学した者たちの中に、分数の計算や、簡単な世界地図も満足に描けないような生徒たちが続出するようになったから。

受験は選抜試験になっていて、学力の程度を決める試験にはなっていなかったのでしょう。

>●「科挙の弊害」
>中国の科挙は、西暦600年ころの隋代に生まれ、それから唐、五代を経て、宋の代960年ころに入って完成をみた。しかしその後、手の施しようもないまでに腐敗し、遂に廃止されたのが1905年。その間、実に1300年もかかった。>宋の太宗皇帝は、見事なまでに理想的な科挙の制度を作り上げたのだが、それが可能だったのは、科挙の制度に猛反発してきた唐の貴族たちが、五代の乱で死に絶えていてしまったからだった。

競争試験は、身分制度の破壊につながりますからね。貴族が死に絶えれば、競争も可能になりますね。

(略)

>だが、貴族が一掃されてしまった後の宋の時代に平民しかおらず、逆に、このときは科挙によってしか官僚の補充ができないという状況だった。宋の皇帝は科挙の目的を、丞相(総理大臣)に相応しい人物を募集し養成することと定めた。それゆえ、一度科挙に合格して役人となれば、家柄や出自にかかわらず、名誉も最高、収入も最高、権力も最高だった。

最高づくめでは、腐敗しますね。

>また、栄誉に浴するのは本人、家族だけではなく、一族をはじめ、地元にとっても大変な名誉であり、才能と志のある者は周囲からの応援や期待を背に、壮絶な受験地獄へと身を投じていった。

昔の受験戦争ですね。

>だが受験者数の増大が熾烈な受験競争を生むこととなり、受験のための勉強が、生まれたときから特権階級目指してまっしぐら、脇目も振らず磨きをかけ、競争を勝ち抜くことだけに長けた輩が高級官僚に就くようになってしまうのだった。中国における科挙の歴史は正に明治以降の日本の教育問題、官僚の歴史そのもの。

最高の処世術ですね。

>明治時代、ごく一部の高等教育機関のみにみられた「受験」競争は、今や小学校や幼稚園にまで浸透し、高度経済成長期を経て小金持ちが増え、受験勉強だけしてきた輩が官僚および特権サラリーマンになる時代になってしまった点も、科挙を巡る明代以降の中国の様相にピッタリだ。

受験戦争の勝者には、残念なことながら教養がないですね。

>日本の受験競争は、単なる学力競争ではない。僅か100年足らずで見事な「階級制度」を作り上げてしまった。

昔からある我が国の序列制度に受験競争を組み合わせたのでしょう。天下泰平のこの国に、ふたたび序列昇進の夢を世の中に作った。一寸法師の夢。ノラクロ (野良犬の黒) の夢。

>●「学歴による階級社会の誕生」
>この「学歴による階級」。明治政府が華族制度を以ってしても形成し得なかった階級意識を、「科挙」を模した日本の教育制度は実にあっさりと日本人の意識に刻み込んだ。

華族制度は西洋の階級社会 (横社会) の制度を模したものでしょう。違和感がある。日本の序列社会 (縦社会) は序列形成のために、科挙の手法を取り入れました。

>現在日本は、かつて中国が刻んだ奈落への歴史を、猛スピードで追いかけている。・・・・・決められたレールの上だけを走るように飼い慣らされた人間は、現実適応力を失ってしまう。

考えることが出来ないので、現実への適応力は落ちていますね。

>危機に対処できない。そんな官僚が日本の舵取りをしているのだ。

政治に関する問題は政治家の責任でしょう。いくら何でも官僚が責任を取ることは無いでしょうね。政治家から、その政見を聞きましょう。官僚は政治家の手足です。

・・・・・・・・・・・・

>それは「受験」をパスして大学へと進学した者たちの中に、分数の計算や、簡単な世界地図も満足に描けないような生徒たちが続出するようになったから。

それはまずかったですね。どんなにつまらない受験戦争でも、人間の序列は決まりますからね。

>このような事態に陥ったにも拘わらず何故、「受験」は継続されてしまったのか?

それは政治家の責任です。とかく、この世は無責任。

>考えるに、当時の富国強兵政策→上官の命令に対して忠実に従う兵士の育成が絶対命題になっていたからか?

意思のある所に方法はあります。 (Where there’s a will, there’s a way). 日本人には、意思がありません。だから、政治家にも方法が有りません。無為無策で座して死を待つ。絶体絶命か。いさぎよい。
改革には、意思のある人間が必要です。英米の高等教育を受ければ、それが可能になります。しかしながら、選挙民のこともありますのでね。前途遼遠です。

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