月と歩いた。

月の満ち欠けのように、毎日ぼちぼちと歩く私。
明日はもう少し、先へ。

解放と復活

2020-11-24 | 想い
三連休、世の中はすごい人だったようだ。
特に京都などの観光地。ニュースで見る限り、コロナ前に戻ったように見える。

たぶん人が多いだろうなと、どこにも出かけずにいた。日曜日の夜、高槻のお店に夫とご飯を食べに行ったくらいか。
とにかく今は仕事が忙しい。三連休も「あまり詰めずに」仕事をした。

実は、先週と今週で4件(主に酒蔵)の取材を断っている。
それは13日に緊急入院したから。
あの時は、18~20日の2泊3日の滋賀出張、25~26日の栃木出張に行けるとは思えなかった。
ギリギリになって迷惑をかけてもいけないので、とりあえず状況を話してキャンセルした。すぐに代わりのライターさんを見つけてもらえたのでホッとした。
それでも急なピンチヒッターで迷惑をかけたと思い申し訳なかったが、E本さんもライターさんも、ただ私の様態だけを心配してくれたことがありがたかった。

15日には回復し、結局18日でも行けたなぁ、ましてや明日からの取材なんて全く問題なかったなぁと思うのだが、結果的に仕事に余裕ができたのはよかった。
2回も出張に行って4件取材していたら、三連休も「あまり詰めずに」どころか「寝る間もなく」仕事をすることになっていただろうから。

これだけキャンセルしたにも関わらず、毎日ほとんど仕事しかしていない。
昨日、デザイナーAさんから電話があり、「前に言っていた京都の冊子動きます」と言われた時には血の気が引いた。
これで20ページくらいの小冊子が3冊。そして、中小企業庁のでっかい仕事。その他もろもろ。
それでもやっぱり断れない仕事もあって、今日も単発で1件取材に行った。
あー、酒蔵行けなかったのはめちゃくちゃ残念だけど、結果的にキャンセルしてよかったんだと思える。

そういえば、昨年の今頃は、胸の中をかきむしられるような気持ちでいた。
元気なのに、大丈夫なのに、病気のことを理由に酒蔵の取材から外されて。(もちろんクライアントの優しさなのだけど)
あの時は憤りしかなかった。置いていかれるような寂しさもあったし、他のライターに取られるような悔しさもあった。とにかく心の中がぐちゃぐちゃだった。
抗がん剤治療や副作用より、実はそのことがいちばん辛かった。それはもう比べるまでもないほど、ダントツに。

でも、今はそういう気持ちがない。
この1年の間に、どこかで気持ちが完全に切り替わったのだと思う。
たぶんそれは「自信」なんだろうな。
1年前の自信がなくて怖くてしがみついていた自分はもういなくて、「自分はちゃんと書ける人間だから大丈夫だ」という自信ができたから、たまたま今回キャンセルになってしまっても、焦ることがない。悔しさもほとんどなかった。
ちゃんと自分は必要とされていて、そこに居場所があるんだから、またタイミングが合えばちゃんと仕事させてもらえると、そう思えた。

四半世紀近くもこの仕事をやってきて、まあ、今更そんなことを?と思う。どれだけ自分に自信がないんだろうな、私は。
だからずっと仕事をいっぱいしていないと落ち着かなかった。自分が世の中に求められていないような気がして。
今はそれもなくなった。

この間は、ちょいと死神と話をした。めちゃくちゃ怖かった。夫はもっと怖かったと思う。
あれからまた一段上がったように思う。魂のレベルの話。
毎朝、朝日に向かって祈る。「今日も生きていることに感謝します」と。

今日、取材に行ったら営業さんが「2週間前に友達が事故で死んだんです」と話してくれた。かなりショックを受けられていた。げっそりしていた。
まだ20代の人だ。
そういうのを聞くとまた思う。今日生きていることは当たり前じゃない。奇跡なんだと。
もちろん私だけでなく、この世の生きているすべての人が。

そう思ったら、ちょっとしたことはどうでもよくなった。
一体何を悩んでいたんだろうな、49年間も。

特別な体験

2020-11-17 | 想い
この数日間で随分いろんな体験をした。
ガンの末期患者の疑似体験もしたし、足の悪い人にイエス・キリストが手を触れた途端に歩き出したような奇跡も体験した。

とても重要で、私の人生において意味のある、特別な体験。
ここに記しておきたいが、誰もが読解力があるわけではないので、誤解を生むのが怖い。
なので、書くのはやめておいて、友達には会った時に話そうと思う。

とはいえ、「話す」ということもできるのかどうか。
おそらく「書く」ことに比べたら、その半分も伝えられないだろうと思う。

何にしろ、今日も元気で、痛みも苦しさもなく、明るい気持ちで生活ができることに感謝。

最近思うのは、私はもうこのブログをあまり必要としていないのかもしれないなということ。
旅行記など、残しておきたい記憶を書くのは自分にとって意味があるが、ずっとやってきたような「日々の想い」をつらつらと書くことには意味を感じなくなっている。
意味というよりは必要性と言ったほうがいいだろう。
つまり「日記」としてのブログの存在はいらなくなったのかもしれない。
これはある意味での「成長」か。はたまた「衰退」か。

もしかしたら、これからは少しずつ、ここに書く内容の傾向が変わっていくかも。

とにかく今は頭が冴えまくっていて、仕事の文章が面白いようにスムーズに書ける。
言葉に羽が生えたみたいだ。勝手にどんどん飛び回る。
年末まで愉しみながら走り抜けよう。

着地点を探す

2020-11-11 | 生活
後から後から積み上がってくる仕事と、遅々として進まない原稿との狭間で、まず気持ちが追い込まれる。
次に、時間という物理的なものに追い込まれる。
そうなると、悪循環。
もう四半世紀にわたり経験してきたこの悪循環を、今回は新鮮な気持ちで見ている。
そうそう、これこれ・・・という感じだ。

酒蔵の原稿は1日半でできると思っていた。
頭の中で構成はばっちりできていたし、着地点も決まっていた。
それなのに、書き出してみると矛盾が見つかり、このまま進んでも破綻すると途中で気づいた。
悩んだが、とりあえず書きたいことを全部書き出してみようと、1000文字くらいオーバーで書き続けた。
そこから推敲。
結局、着地点を変えることにして、矛盾がないように1章から書き換える。
もっと早く到着すると思っていたのに、意外に難航した。

今はあまり時間の余裕がなく、予定がずれると厳しい。
ありがたいことに夫が東京出張で、そのうえカレーを大量に作っていたものだから、3日間は昼ご飯を作ることなくカレーでしのげた。カレー様様である。3日目が特に旨い。玄米にも合う。

予定外に、追われているのはなぜなんだろうかと振り返ってみてわかった。
日曜に「鬼滅の刃」を全巻読んでしまったからだ。
夫がいないのでめちゃくちゃリラックスして、ネットのレンタルで読み切ってしまった。
たぶん読み返したくなる漫画ではないから、買わずにネットで読もうと夫と話し合い、共有IDでそれぞれ読んだ。
1週間前に映画も観に行った。
面白いんだけど、そこまでハマらないのは一体なぜなんだろう。とりあえず「内容を知ったからもういいや」という感じ。

そして、そうやって遊べる余裕があるくらいだから、まだまだ大丈夫だなと思い直す。
本当に追われる時はこんなものじゃないから。
しかし、気を抜くと、また夜中まで原稿を書くような生活に戻ってしまうので、テキパキ活動しなければ。
できれば夕食以降は仕事をしたくないのだ。
規則正しい生活、余裕のある生活をしたい。

体調は治療をやめてからとても良く、CT検査が終わってみれば腹痛もなくなり、やはり精神的なものだったのだと思う。
7月からずっと食箋を続けている。
人参と大根をおろしたもの、小豆昆布、切干大根と干し椎茸のスープ。
それに、自分で加えたサジー、黒にんにく、玄米など。

今日は午後から検査結果を聞きに行く。
体調がいいと気持ちも落ち着く。こんな元気な人が病気なわけがないと思えるから。
心と体って、本当に密接に結びついているんだなと思う。

言葉の居場所

2020-11-06 | 仕事
また11月後半から動く小冊子の案件が2つ入り、16社の取材が追加された。
1つは毎年やっている企業主導型保育事業に関するもの。今年で3年目だ。
ただ、今年はコロナ対策で、保育園に関しては取材NG。リモート取材となる。
移動時間がない分、1日に複数件の取材を入れられるから、効率的ではある。
とはいえ、私はリモート取材が好きではないから少し憂鬱。慣れていかないといけないのだろうけど。

今は「仕事がいくらでもある」という状態。
この「先が見えない」感じ、久しぶりだなぁ。わくわくする。

1つ、経産省の案件で、全国で開催されている企業向けのイベントをまとめていくものがある。
以前ならその場へ取材に行っていたのだろうが、「コロナ」「納期までがタイトなのに数をこなさないといけない」「予算がない」等の理由から、動画のURLが送られてくるとのこと。
つまり、開催されたイベント(トークショー)の動画を見て記事にすることになる。
こういうのも今の時代ならではだなぁと思う。
私は自分が取材した案件に関しては、「録音から文字起こしをする」ということがほとんどないので、今からそれが少し苦痛。
音声だけでなく動画だからまだマシだが、文字起こしほど嫌いなことはない。(だから極力やらない)
でも、トークショー自体は面白そうな内容だし興味もあるので、動画を見ること自体は楽しみだ。
また、かなり大きなプロジェクトなので、私を含めて4名のライターが投入され、手分けしてやっていくことになっている。
他のライターさんと同じ立ち位置で仕事をすることなどまずないので、他の人がどんなふうにまとめてくるのかを見るのも楽しみ。こんな機会は滅多にないので、いろいろ技を盗んで勉強させてもらおうと思っている。

最近、文章を書くことに関して刺激になったのは、友達が出身の地元の新聞に短いエッセイを投稿し、それが掲載されたこと。
じんわりとくる、とてもいい文章で、感動した。
私も自分の文章をもっと書いていきたいなと思わせられた。

彼女はライターではないが、国語の先生で、文章もブログなどで書いてきた。
私は彼女の文章が大好きで、いつもブログを楽しみに読み、特に気に入ったものは夫にも「見て~、すごくいいから!」と読んでもらっていたくらいだ。
読んでいて、とにかく心地がいいのだ。音楽にたとえるなら、音程を少しも外さない上手な歌を聴いているよう。
もう一人、最近、念願の校閲者になった友がいるが、彼女の文章も美しい。基本的に1センテンスが長いのに、それを感じさせないくらいスムーズに読ませる。
この2人の文章がどうして好きなんだろうか、どうして心地がいいんだろうかと考えていて、わかった。
それは「言葉をよく知っている」からだ。
「キャプテン翼」的に言えば、「ボールが友達」。それと同じで「言葉が友達」みたいなところがある。(なんだ、このたとえ)
国語の先生、校閲者(なんなら塾の講師でもあった)という二人は、言葉の1つ1つの意味をきちんと理解しているから、それが「あるべき場所」にスッと収まっているのだ。だから、引っかからない。
もっと言うなら、文法も句読点の位置も完璧なのだ。だから、読んでいてきれいに流れていく。

少し前に国語の先生の彼女に会った時、私はあなたの文章がとても好きだけど、それは「言葉の居場所」をよく知っているからだろうね、と伝えた。
言葉には表現に合った「居場所」があって、それがずれると気持ちが悪い。まるで、音痴な人の所々半音ずれた歌みたいに。
正しい「居場所」に言葉を置くためには、言葉の意味をきちんと知っていなければならない。それができるのは一握りの人だと思う。才能というよりも、それを意識しているかどうかも大きいし、子供の頃から言葉に深く触れてきたかどうかも関わっているだろう。

私も仕事の文章を書く時は、「言葉の居場所」を考える。
少しでも「ん?」と思ったら、必ず辞書を引く。
この間も「ざっくばらん」という言葉を使ってみたものの、自分が本当に「ざっくばらん」の意味を正しく理解しているのか気になって調べた。
それでニュアンス的に少し違っていたことに気づき、使うのをやめた。
日本語って複雑で難しいけれど、やっぱり好きだなぁ、面白いなぁと思う。

先日、夫と一緒に仕事をして、まだ3分の1くらいだけどいくつか書いたコピーを提出した。
ディレクターである夫から何カ所か指摘があり、すぐに修正した。
日本酒の雑誌のデスクもそうだけど、客観的に見てくれる立場の人(今回なら夫)の指摘が的確だと、私は1.5倍くらい力を出せるように思う。
もちろん修正ゼロを目指して提出するのだが、「ここが伝わりにくい」「ここ、もう少し省けない?」など細かく指摘されると、急に目の前がパーッと開ける気がするのだ。
道筋を示されてうまく歩き出せるようになるというか・・・。
いつも夫は「かおりは修正してからの伸び方がすごい」と言ってくれる。自分でもそうだと思う。
だから、誰と一緒に仕事をするのかは重要だ。(もっと力のあるライターなら自分の力だけで良いものが作れるのだろうけど)

ついでに言えば、いろんなライターと仕事をしている夫に褒められるのは嬉しい。
今回も「わかりやすくて読みやすいから、すぐに読み終わってしまった。読者のことも考えているし、クライアントにも寄り添っている」と、最上級の褒め言葉をもらった。
やっぱりこれは現場に行って取材をしたことが大きい。社長や社員の人たちの雰囲気、社内の空気感・・・、そういうものを肌で感じているからこそ、寄り添えたのだと思う。
(だから、逆にリモート取材は嫌なんだ)

そして、25年近くもライターをやってきて、何をいまさらと思うけれど、仕事が詰まってくると、むしろ思う。
「言葉を大事にしたい。」
やっぱりこれが基本。
言葉に救われてきた人生だから、私も言葉を大事に扱ってあげたいのだ。

そこまでの想いがあるのかはわからないけれど、私の好きな文章を書く二人の友も、言葉を大事にしていることは間違いない。
良い文章にたくさん触れ、私もまだまだライターとしてスキルアップしていかなければ。
これから忙しくなるけど、1つ1つを良いものにしていこうと気合を入れた。

精神的なもの?

2020-11-05 | 癌について
昨日はCT検査だった。
検査は3ヶ月ぶりで、治療をやめて放置を決めてからは5ヶ月経つ。
5日ほど前から下腹部が痛み、夜は夢にうなされ、情緒不安定になり、ほとんど仕事も手につかなくなった。
こんなにお腹が痛いなんて、何かあるに違いない。大腸にも転移して、それが痛みを引き起こしているのかもしれない・・・。そんな妄想に苦しめられる。
夫は「精神的なものだから」と言うが、これが精神的なものなんだったら、私はなんて繊細な人間なんだろうかと思う。
鬱々として何も手につかない。
気分転換にテレビでお笑いを観ても集中できない。
文章も書けない。何度もブログの画面に向かったが、書いては消し、書いては「下書き」に保存して公開せず、また書き直し。
最終的には書くことをあきらめた。
今度は後悔が始まる。
もっと何かできたんじゃないのか。お酒を飲みすぎた日があった。甘いものやお肉を食べてしまったこともあった。夜更かししたこともあった。ウォーキングもさぼった。それが全部体に跳ね返ってきているんじゃないのか。
やってきたことよりも、足りなかったことばかりに気持ちが行ってしまう。

何も手につかないと言っても、締切はやってくる。
ギリギリになって慌てて集中力を発揮して書いて、書き終わった後に気が付いた。
「あれ?お腹痛くない!」
何かに集中していたら痛みが消えていた。
夫に告げると「よかったやん!やっぱり精神的なものなんやって!」と笑って言う。そうなのか?

当日、まずはCTの前の採血に並ぶ。
ふと、この1年半くらいの期間で、2ヶ月もの間、採血や点滴の針を1回も刺さずに過ごしたのは初めてだなと気づく。
最後に点滴したのが9月11日。それ以来だ。
昨年の7月以降、毎月5~6回はどこかに針を刺していた。たくさん血を採ったし、たくさん点滴した。使える血管も減った。
右腕のほうが採血しやすいけれど、右腕は造影剤を入れるのに使うから、採血を左でやった。
案の定、看護師さんが血管を探すのに困って、1回失敗。こういう痛みも久しぶりだ。
2回目で成功し、CTの部屋の前で順番を待った。どんどんお腹が痛くなる。焦る。絶対写ったらダメ!と自分の細胞に言い聞かせる。
全細胞でクリアするんだ!

CTはあっという間に終了。結果は来週の水曜日。
絶食していたから病院を出るとお腹がグーと鳴った。
好きな洋食屋へ行き、ふわとろオムライスを食べた。オムライスなんていつぶりだろう。少なくとも今年初めてだ。とろとろの卵で一気に幸せになった。

夜は夫が「頑張ったからお疲れ様会」と言ってくれて、外食。
遠出はしたくなかったので、友達に教えてもらっていた上牧にある居酒屋さんへ行ってみた。
お造り盛り合わせ、のどぐろの塩焼き、白海老の天ぷら、生麩田楽、紅生姜の天ぷらを注文。
どれも美味しくてびっくりした。魚が美味しいという評判だったが、確かにレベルが高い。鯛のお造りが絶品だった。新鮮というより食べごろを見計らって熟成させていると思う。旨味の乗り方が尋常じゃなかった。
のどぐろは小さめだけど、焼き方が上手なのか身がふっくら。塩加減もバッチリだった。いい塩梅。
日本酒の種類も多く、料理に合うものが並んでいる。
香り抑えめでスッキリ飲める辛口や、甘みと酸味のバランスが良い食中酒ばかり。決して酒が主張しすぎない。料理を引き立てる。
日本酒のラインナップを見ると、ちゃんとこだわって選んでいるのか、流行のものや酒屋に言われるがまま置いているのかがよくわかる。この店は前者で好感が持てた。
「酔鯨」「伯楽星」を飲んだ。夫はビールの後、「立山」と「鳳凰美田」。最後に「楯野川」を二人で分けた。

美味しい、美味しいと飲み食いしていてまた気づく。
お腹痛くない・・・

そして、一夜明けて今朝。
もう痛くない。
やっぱり精神的なものだったのかな。そうだといい。

普通の人にとったら何ということもない「腹痛」も、私にとっては命取り。文字通り「命」を「取られる」かもしれない。
忘れているようで、忘れていない。いつもギリギリの崖っぷちで生きているような気がしている。

人間、そんなに強くは生きられないものだと知る。