道しるべ
2018-08-30 | 想い
昨夜はライター友達と3人で飲んでいた。
たっぷり6時間くらいしゃべって楽しかったが(私の店での愚痴をいろいろ聞いてもらった)、久しぶりに同業者と話して、今年に入ってから漠然と思っていた「今後の方向性」が固まったように思う。
そういう意味でも有意義な時間だった。
簡単に言えば、そろそろ「文化的雪かき」は止める決意をしなくてはならない時期に来ているということ。
50歳も目前。いい年だ。普通の会社員なら課長クラスになっていてもおかしくない。新入社員の頃とは仕事の内容も質もやり方も全部変わっているはず。
それが、自分を見てみれば、25歳の頃とやっていることはそれほど変わらない。
もちろん情報誌系の「足で稼ぐ」案件(それも実際には稼げない)などはやらなくなったが、フリーの悲しい性質で、仕事がなくなって暇になると、「仕事がないよりマシ!」的な発想で「はい!何でもやります!」と言いがちだ。
フリーにとって一番怖いのは「仕事がないこと」だから。
でも、それをやり続けていたら、そこから抜け出せないばかりか、忙しいだけで儲からず、自分がすり減っていってしまう。
そういう仕事を断る勇気も必要だと言われた。自分はこれからそうしていくつもりだ・・・ということも聞いた。
私も「失う勇気」を持たないと、前には進めないんだなと思った。
夫からもずっと言われていることだ。
自分の得意分野は何なのか。私より文章力やキャリアがあるライターでも代わりがきかない、「私だけが書けるもの」は何なのか。
誰かがやらなければならないけれど、誰がやってもそれほど変わらない「文化的雪かき」としての仕事ではなく、自分だからできる仕事をしていかなければ、この先生き残ることは無理だろう。
もし、死ぬまで書いて生きていきたいのなら、だけれど。
広告制作会社でディレクターを務める夫は「業界ではまともなコピーライターがいないとよく聞くよ」と言う。
私の周りのライターはみんな優秀だが、それは関西だからなのかな。
もともと少ないパイを取り合っているから、自然と磨かれていくのかもしれない。
でも、それが本当なら、まだまだチャンスは転がっているはずだ。
作家をあきらめて、フリーライターになると決めた時のことを思い出した。
編集教室の先生に「何もしないと、あなたというライターがこの世にいることは誰も知らないよ。待っているだけでは仕事は来ない。まずは何だっていいから、自分という存在がいることを知ってもらわないと」と言われたのだ。
それは当たり前の話だけど、まだ25歳の私にとっては、道しるべになるようなアドバイスだった。
「とらばーゆ」を買って来て、アルバイトでも何でもいいから、何か「書ける仕事」がないかを探した。そこからだと思った。私は他の人と違って会社勤めをしていないし、何のつながりもコネも実績もなかったから。
あの「とらばーゆ」が、私の人生を変えた。
雑誌のコピーみたいだけど、本当に(笑)
掲載されていた「ちょっと出張行ってくる」という求人広告。
全国の店舗をつなぐ社内報を制作するスタッフ募集の記事。
あそこからすべてが始まった。
あの時は何も持っていなかったけど、今は22年というキャリアと、世に出してきたたくさんの実績がある。
あの時とは比べ物にならないほど多くのものを持ってのスタートだ。
失ったのは「若さ」くらいで(笑)
先生のアドバイスが今も生きるとき。
待っているだけでは、自分が本当にやりたい仕事など来るはずがない。誰も私が何ができるのか知らないのだから。
私が何が得意で、何が書けるのか。他のどんな優秀なライターとも違うもの、他の人では書けないものは何なのか。
それを世の中にしっかりアピールして、自分の武器にして、そういう仕事をしていかなければ。もう若くてがむしゃらだったあの頃とは違うのだから。
そんなことを思わせてくれた仲間に感謝!
たっぷり6時間くらいしゃべって楽しかったが(私の店での愚痴をいろいろ聞いてもらった)、久しぶりに同業者と話して、今年に入ってから漠然と思っていた「今後の方向性」が固まったように思う。
そういう意味でも有意義な時間だった。
簡単に言えば、そろそろ「文化的雪かき」は止める決意をしなくてはならない時期に来ているということ。
50歳も目前。いい年だ。普通の会社員なら課長クラスになっていてもおかしくない。新入社員の頃とは仕事の内容も質もやり方も全部変わっているはず。
それが、自分を見てみれば、25歳の頃とやっていることはそれほど変わらない。
もちろん情報誌系の「足で稼ぐ」案件(それも実際には稼げない)などはやらなくなったが、フリーの悲しい性質で、仕事がなくなって暇になると、「仕事がないよりマシ!」的な発想で「はい!何でもやります!」と言いがちだ。
フリーにとって一番怖いのは「仕事がないこと」だから。
でも、それをやり続けていたら、そこから抜け出せないばかりか、忙しいだけで儲からず、自分がすり減っていってしまう。
そういう仕事を断る勇気も必要だと言われた。自分はこれからそうしていくつもりだ・・・ということも聞いた。
私も「失う勇気」を持たないと、前には進めないんだなと思った。
夫からもずっと言われていることだ。
自分の得意分野は何なのか。私より文章力やキャリアがあるライターでも代わりがきかない、「私だけが書けるもの」は何なのか。
誰かがやらなければならないけれど、誰がやってもそれほど変わらない「文化的雪かき」としての仕事ではなく、自分だからできる仕事をしていかなければ、この先生き残ることは無理だろう。
もし、死ぬまで書いて生きていきたいのなら、だけれど。
広告制作会社でディレクターを務める夫は「業界ではまともなコピーライターがいないとよく聞くよ」と言う。
私の周りのライターはみんな優秀だが、それは関西だからなのかな。
もともと少ないパイを取り合っているから、自然と磨かれていくのかもしれない。
でも、それが本当なら、まだまだチャンスは転がっているはずだ。
作家をあきらめて、フリーライターになると決めた時のことを思い出した。
編集教室の先生に「何もしないと、あなたというライターがこの世にいることは誰も知らないよ。待っているだけでは仕事は来ない。まずは何だっていいから、自分という存在がいることを知ってもらわないと」と言われたのだ。
それは当たり前の話だけど、まだ25歳の私にとっては、道しるべになるようなアドバイスだった。
「とらばーゆ」を買って来て、アルバイトでも何でもいいから、何か「書ける仕事」がないかを探した。そこからだと思った。私は他の人と違って会社勤めをしていないし、何のつながりもコネも実績もなかったから。
あの「とらばーゆ」が、私の人生を変えた。
雑誌のコピーみたいだけど、本当に(笑)
掲載されていた「ちょっと出張行ってくる」という求人広告。
全国の店舗をつなぐ社内報を制作するスタッフ募集の記事。
あそこからすべてが始まった。
あの時は何も持っていなかったけど、今は22年というキャリアと、世に出してきたたくさんの実績がある。
あの時とは比べ物にならないほど多くのものを持ってのスタートだ。
失ったのは「若さ」くらいで(笑)
先生のアドバイスが今も生きるとき。
待っているだけでは、自分が本当にやりたい仕事など来るはずがない。誰も私が何ができるのか知らないのだから。
私が何が得意で、何が書けるのか。他のどんな優秀なライターとも違うもの、他の人では書けないものは何なのか。
それを世の中にしっかりアピールして、自分の武器にして、そういう仕事をしていかなければ。もう若くてがむしゃらだったあの頃とは違うのだから。
そんなことを思わせてくれた仲間に感謝!