ちわきの俳句の部屋

メカ音痴おばさんの一念発起のブログです。
人生の後半を俳句にどっぷりと浸かって、…今がある。

〝軍港〟呉にある句碑

2017年10月10日 | 俳句

 昨日は朝から広島県呉市へ出掛けて行き、私の初学よりお世話になっている先生を所用があってお訪ねしました。駅で落ち合い、呉市にあるあちらこちらの句碑などを案内していただきました。

 以前から話は聞いていましたので、一度見ておきたいと思ったのです。最初に連れて行ってくださったのは、音戸の瀬戸公園にある山口誓子と橋本多佳子の師弟句碑でした。

   天耕の峯に達して峯を越す     山口誓子

   寒港を見るや軍港下敷に      橋本多佳子

 誓子の句は、「耕す」が季語で春。「広島行」と題する一連16句の中にあり、昭和37年(1962)作、句集『青銅』所収。ただこれには、誓子が後の「自選自解」で次のように述べています。「天耕」は造語で「耕して天に至る」をつめたもので、「倉橋島を裾からてっぺんまで見上げると、すっかり耕されている。それどころか、峯を越して裏側にもおよんでいる。そのような天耕ぶりに私は感動した。」と。その誓子の句と並んでいる多佳子の句も呉の港を見て詠んだものですが、何年の作かは分りませんでした。季語は「寒」で冬。二人とも初めは「ホトトギス」に拠っていましたが、秋櫻子が昭和6年(1931)ホトトギスを離脱すると、昭和10年(1935)に誓子・多佳子も離脱し、ともに「馬醉木」に移って同人となりました。誓子が昭和23年(1948)「天狼」を創刊・主宰するにあたって、多佳子もそちらへ移り、亡くなる昭和38年(1963)まで終生誓子に師事しました。 

 ここにはその他に呉出身の歌人の歌碑などもありましたが、中で印象に残ったのは、吉川英治の文学碑です。

   君よ 今昔之感 如何

 これは、『新平家物語』の執筆にあたり、史跡取材のためにこの地を訪れた際に残した吉川英治の感懐です。彼の直筆を富士形の自然石に刻み、平清盛に見立てた円形の石とともに配し、都と厳島神社の航路の近道として平清盛により切り開かれたとの伝承もある音戸の瀬戸を眺めるこの場所に建立されたものです。

 他には〝アレイからすこじま〟にある、正岡子規の句碑。この句には、「従軍する人を送る」の前書があります。

   陽炎に心許すな草枕

 季語は陽炎(かげろう)で春。この句碑は、呉市の協力を得て呉観光協会と呉俳句協会とで建立したもの。その当時呉俳句協会の会長をされていたわが先生がご尽力されて出来上がった句碑なんですよ。明治28年3月9日~10日呉に滞在し、一足先に日清戦争の従軍記者として大陸へ向う同僚古島一雄(俳号一念)と遊び、彼を見送るにあたって詠んだ句…何処でどんなふうに旅寝(草枕の意味)をしようとも、どんな些細なものにも油断をするな、いいか必ず生きて帰ってこいよ…と、そういう思いを詠んだものだということです。

 ところで、久し振りに呉に来てびっくりしました。潜水艦がズラリと港に並んでるではないですか。

 何をしているんですかと聞くと、命令が下るまで待機して休んでいるのだと。あっちにいるのは?と聞くと「護衛艦だろう」と先生。まさに嘗ての軍港さながらですよ。(戦争は知らないので、映画とかの場面で…)まだまだ見たいところはたくさんありましたが、時間がなく4時過ぎの呉線に乗って広島へ向かいました。駅前のホテルで、大学のワンゲル部60周年記念式典が18時から開始。1年振りの再会でしたので、話が弾みました。二次会は帰りの新幹線に間に合うように、構内の喫茶店で珈琲を飲んで分かれました。福岡から来た同期の彼とおしゃべりしながら帰ると、あっという間の新山口駅でした。

 朝からとても暑い1日だったので、ホントに疲れました。オシマイ!

コメント
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