遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『花喰鳥 京都祇王寺庵主自伝』 上・下  髙岡智照尼  かまくら春秋社

2022-09-16 18:32:29 | レビュー
今月3日に窪美澄著『朱(アカ)より赤く 髙岡智照尼の生涯』(小学館)の読後印象を書き込んでいる。その本の奥書から本書を知った。『朱より赤く』は伝記風小説で一応フィクションとして描かれている。調べて見ると地元の市立図書館に蔵書としてあったので早速借り出して読んだ。
 本書は智照尼本人による自伝。だが、智照尼が己のこれまでの人生遍歴を地の文で書き綴った本ではない。智照尼の視点から己の人生について事実をベースにした自伝小説という形式を取っている。つまり、登場人物は実名で出てくるが、その人々との関係においてリアルな会話が織り混ぜられて、場面・状況が再現されていく。著者(智照尼)が12歳からつけていた日記がこの自伝をまとめる上で役に立ったと記されているので、それらの会話は事実を思い出して、己の視点から会話の形でその過去の状景を再現描写したということだろう。敢えて小説という語彙をここでは付け加えた。逆に、それ故に読者にとってはこの「京都祇王寺庵主自伝」がまさに小説の如く読みやすくなっている。

 本書は昭和59年(1984)4月22日に単行本として刊行された。市図書館の蔵書は同年7月の第7刷である。当時はかなり注目されたのではないかと思う。
 著者が80歳を超えたとき、「『愚かな女の一生』の全てを隠しだてすることなく赤裸々に告白して死んでいきたい。」「とにかく過去のけがれた行状を身につけて死んでいくのは良心の呵責に耐えられない・・・・。」そんな感慨にとらわれたことが契機で、この自伝を書いたと、本書「はしがき」(p6-8)に記されている。
 80歳を超えるまで、自伝執筆を躊躇した一つの理由は「他人様との関わりをなしに語れない」(p7)という側面にあったという。自伝であるからには、関わった人々の実名が現れざるを得ない。色街の水につかった著者故に、様々な政財界の著名人の名前にも触れざるを得なくなる。それなくして具体的な告白はできないということになる。
 読者にとっては、明治末期、大正、昭和前期という時代が、どのような時代だったか並びに当時の人々の価値観がどのようなものだったかの一端をうかがうことができる。そこに現代との価値観ギャップを読み取ることにもなる。

 本書の奥書に記された著者プロフィールを引用しておこう。著者の略歴が簡潔に記されているので、自伝の大筋を知ることにもなる。ここでは年表風に引用文を記して、さらに括弧書きで、本書からの情報を補足した。その補足の意味合いは、本書でご確認いただきたい。
 明治29年4月22日、大阪に生まれる。
    (難波新地近くで私生児として出生。奈良の伯母の許で養育される)
 明治41年、大阪宗右衛門町の『加賀屋』から八千代の妹分、千代葉の名で舞妓となる。
    (父により売られる。初恋の人・市川松嶌との出会い。小指を切り落とす。)
 明治44年、東京新橋の『新叶家』から照葉と改名して半玉となる。
 大正4年、妓籍を去る。
    (政財界等の著名人たちが顧客に。長島隆二さんの支援で一本立ちし芸妓に。
     大正2年、鉱山師江藤さんの妾に。大正8年妾生活[18~23歳の時期]精算。)
 大正8年、大阪北浜仲買人小田末造と結婚。 (大阪に舞い戻り、再度店出しの直後)
 大正9年、夫とともに渡米、約1年間ニューヨークに滞在。
    (現地での勝手な夫の行動。寄宿舎での勉学。同性愛。)
 大正14年、離婚。(不毛の日々。囚われの身。映画への出演。自殺の試みの果てに)
    (離婚後年下の萩原さんとの同棲。気儘な困窮。神戸で芸妓になる予定が破綻
     大阪で小堀さんの支援で「テルハ酒場」開店)
 昭和4年、奈良に隠棲、ホトトギス門下に入る。(萩原さんから逃避。原稿書き生活)
 昭和9年9月、奈良県高市畝傍町の久米寺にて出家、得度亮弘坊智照と改名。
 昭和11年7月、京都大覚寺塔頭祇王寺に入庵。

 調べてみると、智照尼は、平成6年(1994)10月22日、98歳で没した。

 著者(智照尼)が父に騙されて色街に身を売られたことから始まる人生の有為転変、波乱万丈が浮かび上がってくる。大阪で舞妓、東京で半玉・芸妓という色街での生活が赤裸々に描かれている。愛欲への嫌悪と一方で身のゆだね、酒への溺れ、舞い上がりの一方で荒んだ傲慢な生活・・・など、様々な側面が現れる。妾生活と結婚生活はともに破綻。年下の男との同棲生活。何たる人生流転を経験していることか・・・・。

 本書の上下巻それぞれに、著者の写真が載っている。舞妓・千代葉15歳、半玉・照葉16歳、渡米中24歳、渡欧途中の船中25歳、それぞれ若い時代の写真と、智照・祇王寺庵主としての晩年の写真の併載。著者は美人だった! プロマイドが売れたというのも納得できる。色街でトップクラスとしてもてはやされることもある意味で頷ける。それが逆に、著者の苦の種にもなって行ったのだろう。渡米にあたり描いていた夢が滞在中に空しく破られていく状況が、別の展開をみせていく。そこに著者には自立への意志が働いていく。

 一方で、著者には、彼女の泥沼のような流転人生を支えてくれ、頼れる人々がいた。支援者に恵まれていた。この人を援助しようとさせる何かが著者自身の生き様に見られたのではないか。単に物好きの支援ではないと思う。
 最終的に著者が出家するのは、愛別離苦からの超越にやはり必然の道だったのだろう。

 出家後の智照尼に対し、祇王寺での庵主生活を又従姉弟の髙島清一が陰で支えたいたことを本書で知った。彼は久米寺での得度式に立会い、密門快範大僧正から「いつまでも尼の後見として面倒をみるように」とじきじきに言われたという。彼は祇王寺の寺男として、智照尼を支え、祇王寺の復興にも貢献しつつ、己の半生を過ごしたそうだ。
 智照尼はその生涯において様々な支援者に恵まれた。その幸いが実に大きい、
 人生は、根っ子に本人の生きる意志があり、その上に幸と不幸が織りなされる総体ということになるのだろうか。意志あるところに道ありか。

 この自伝『花喰鳥』と窪美澄著『朱より赤く』は、自伝と伝記風フィクションという対応関係ではあるが、相互補完するところがある。また、本書を読むことで、『朱より赤く』が、事実を踏まえたフィクションとしてどのあたりに重点を置き、どの事実を割愛して智照尼の半生を描きあげているかを知ることもできる。
 少なくとも両書を併読することは、智照尼の人生を思ううえで有益である。そこに、さらに瀬戸内晴美(寂聽)著『女徳』を加えればどうなるだろうか。こちらは未読なので、今は言及できない。

 最後に、余談なのだが、2点触れておきたい。
 一つは、祇王寺のご紹介。私は2019年に嵯峨野西北部(化野)を探訪した折にその一環として、祇王寺を訪れた。智照尼のことをそのほんの少し知り、記憶には残った。ブログ記事に当時知り得たことに触れている。だが、そのことどまりだった。そして、先日、窪美澄著『朱より赤く』を出会うことに。その出会いから本書『花喰鳥』に導かれた。
 祇王寺のご紹介は、もう一つの拙ブログ(楽天ブログ)でご紹介している。「探訪 京都・右京区 嵯峨野西北部(化野)を歩く -4 祇王寺」をご覧いただけると嬉しい。
 もう一つは、「花喰鳥」という語彙である。その起源はササン朝ペルシャの染織図様に出てくるという。葡萄や草花の小枝や花唐草をくわえた瑞鳥を形どった吉祥文様だそうだ。中国・唐時代の史書にその文様が伝わったということなので、中国を経由して、日本に伝搬されたのだろう。
 愛別離苦の半生を経て、出家という形で、そこから離脱した著者の自伝には相応しいタイトルとしての語彙かもしれない。本書にはこの語彙自体は出て来なかった。それを示唆する表現もなかったかと思う。

 この自伝も一気に読み通してしまった。

 ご一読ありがとうございます。

本書に関連して、ネット検索で得た情報を一覧にまとめておきたいと思う。一部は上記『朱より赤く』と重複するがご寛恕いただきたい。
髙岡智照  :ウィキペディア
高岡智照  :「コトバンク」
TERUHA :「flickr」 ⇒ 照葉のポストカードコレクション
花喰鳥  :「コトバンク」
花喰鳥とは  :「きもの用語大全」
東大寺ミュージアムの花喰鳥 :「奈良の宿 料理旅館大正楼」
祇王寺  ホームページ
祇王寺 :ウィキペディア
久米寺 :「かしはら探訪ナビ」
南都春日山 不空院  ホームページ
岩船寺  ホームページ

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『朱(アカ)より赤く 髙岡智照尼の生涯』  窪美澄   小学館



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