シャンテ サラのたわ言・戯れ言・ウンチクつれづれ記

"独断と偏見" で世相・経済からコミックまで 読んで楽しい 面白い内容を目指します。 

… がいたら山口 淑子は戦後活躍したかも

2014年09月26日 | シネマ何だかんだ
上左は映画「蘇州の夜」(1941年 松竹) から。 下左は「東は東 Japanese War Bride」(1951年 米映画 Shirley Yamaguchi 名で主演)。 上中央はテレサ・テンの CD。
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元女優で参議院議員だった山口 淑子が9月7日 心不全のため死去した。 何度もこのブログで取り上げたが、満94歳でとうとう亡くなった。 大往生でしょう。

『李香蘭 私の半生』(藤原 作弥 共著/新潮社 1987) と『”李香蘭” を生きて 私の履歴書』(日経 2004) を読んで感じたものは、時代に翻弄された波瀾万丈の数奇な人生だった、のひと言ですね。 この2つの題名が示すように、彼女のイメージは ”李香蘭とその後 “ なのです。 本名 “山口 淑子の人生“ ではないのです。 なお 李香蘭/山口 淑子が出演した映画は未視聴です。
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「女優 “李香蘭” は日中にとってどんな存在だったのか」(9月19日 THE PAGE) __ ※追加1へ
『李香蘭 私の半生』から第15章<さようなら、李香蘭>__ 収容所にキャデラックで乗り付けてきた 背広姿の礼儀正しい中国人青年紳士は一応名前を名乗ったが、軍政部の紹介と説明しただけで 何者であるか身分は明かさない (※追加2へ)。
KINENOTE から __「東は東 Japanese War Bride」は山口 淑子が、日本人として戦後初の主役を演ずるアメリカ映画でジョセフ・バーンハード製作の1951年度作品 (※追加3へ)。

Wikipedia から __ 山口 淑子 (やまぐち よしこ 1920~2014) は、国際的歌手、女優、政治家。 本名:大鷹 淑子 (旧姓:山口)。 戦前の中国 (中華民國) と満州國、日本、そして戦後の香港で李 香蘭 (り こうらん、リ・シャンラン、Lee Hsiang Lan)、戦後の米国では Shirley Yamaguchi の名で映画、歌などで活躍した (※追加4へ)。

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元々 女優志望ではなかった一少女歌手 (1933年 放送だけの “満州” 歌手 李香蘭でデビュー済み) が、日中両語を話し歌が歌える女性を求めていた満映の思惑で中国人女優として38年 映画デビューさせられ、両親の勧めでそのまま中国女優として華々しく戦前の中国で活躍したのですが、”中国人と偽って女優を続ける” ことには抵抗感がありました。 なぜなら 本人は中国に溶け込んでいただけに、中国人を裏切っていることが分かっていたからです。

終戦時 彼女は25歳で、この人の名声はそれまでに ”李香蘭” で固定化し、その後 日本に引き上げてからは本名 “山口 淑子” として再活動しますが、どうしても多くの日本人は ”李香蘭” として見るし、期待する、そのギャップで “日本人” の山口 淑子はもがいていたのでしょう。
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「戦後 日本映画に復帰して山口 淑子になった彼女の立場は難しいものだった。 実はそれまで日本の映画人たちは彼女を外国人として遇していた。 戦前 北京で寄宿していた中国人の家の人から注意されて日本人に特徴的な態度 __ やたらにお辞儀をしたり、無意味な愛想笑い __ をしないよう務めたという。 しかし 日本人らしさを制御した演技者にどんな役があるか __ 日本人離れした役になるが、そういう役はそんなにない」(『山口 淑子を悼む _ 日本人の夢 演じきる』佐藤 忠男/映画評論家/日経 9月17日)
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舞台や映画に出演し、それなりに高く評価されるのですが、今 残っている話題は戦前のものが殆どです __ その ”李香蘭” のハイライトは、大盛況の日劇七周り半事件 (1941年)、上海の大劇場でのコンサートでの観客の喝采 (45年)、そして 私の独断ですが、帰国できずに上海に軟禁されて漢奸 (かんかん 中国人売国奴で最高刑は死刑) 裁判を受けていた頃 (45~46年) の出来事ですね __※追加2に詳述。
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戦後 もがいていたのは、彼女だけではありません。 彼女の家族や、戦前 羽振りをきかせた多くの日本人の困窮する様子が自伝の中で語られます。 中国語教師だった父親も引き上げ後は行き場がなくなり 夢を追いかけるだけの存在になり (最終的には彼女と “義絶” するのですが)、両親や弟妹など家族8人が彼女の両肩にぶら下がるという状況になります。 さらに戦前の恩人の娘までも一時預かった、ともあります。

確かに 彼女は戦前の日本という “時代が求めていた” 歌手・女優を見事に演じ、喝采を博しましたが、戦後は混乱期ともいえる時代の中で “日本が求めていた” 歌手・女優を演じきることが出来なかったように思えます。

それは敗戦で価値観が全く異なってしまい、戦後は日本そのものが山口 淑子にどういうスターになって欲しかったのか、分からなかったのではないでしょうか。 上記の佐藤 忠男氏の文章によれば、戦後 日本人 “山口 淑子” になったものの、“日本人離れしていない日本人” には成りきれなかったことも活躍できなかった原因の1つのようですね。

戦前の日本が中国に求めていたものの1つが、”従順な中国” でした。 ですから、目を覚ませと (長谷川一夫扮する) 日本人船員に殴られた (李香蘭扮する) 戦争孤児の中国娘が、いつか従順な娘となり彼に恋するという設定の映画『支那の夜』(1940年) が日本では受けたのでしょう。 そうした表現は、日本の芝居や映画ではよく見受けられますが、実はそれは中国が嫌っていたことでした。

それを本土にいる日本人の多くは気づきませんでしたが、(繰り返しになりますが) 中国で生まれた山口 淑子は気づいていたのです。 『支那の夜』は中国版では『上海の夜』と改題され上映されましたが、殴られたのに相手に惚れこんでいくのは、中国人にとっては “二重の屈辱” と映ったのです。
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戦後の日本は長く米国の占領下にありましたから、今度は “米国に従順な日本” という立場に180度転換せざるを得なくなります ( … 今でも?)。 では “米国人に従順な日本娘” を演じれば、喝采を博したのでしょうか? ところが 多くの日本人はやむを得ず 米国に従順な態度を取っているだけで、本心は必ずしもそうではなかった (!?) から、それは成功しなかったでしょう。

ある意味 “戦前の中国・日本の構図” は、そのまま “戦後の日本・米国の構図” でもあったわけです。 成功するには、日本人でありながら 戦勝国 欧米人をもうならせるような喝采を得て、日本に凱旋帰国するようなシチュエーションが求められていたのではないでしょうか? だから 1949年 日本人初のノーベル賞を得た湯川 秀樹が、当時 大喝采を博したのも理解できます。

彼女が出演した戦後の1951年の米映画「Japanese War Bride」の厳しい表情の写真を見たり 荒筋を読むと、楽しい娯楽的な内容ではなく、当時の日本の戦争花嫁も多くはこうだったのかもと想像させるものがあります。 この映画を当時の日本人が見て楽しんだだろうかと推測すると そうではなく、唇を噛むというか やるせない気分になったのではないでしょうか。

日本版の題名にもそうした当時の日本人の感情が表現されていますね。 映画は時代の雰囲気をも表現しますから、終戦を挟んで前記の40年・51年の映画に出演した山口はどんな気分になったのでしょうか __ 時代の大きな歯車が音をたてて回る中で、自分はその歯車の1つに過ぎないと無力感を感じたのかも。

また56年 ブロードウェーの舞台で『シャングリラ』(※追加5へ) 主役で果敢に米ミュージカルに挑戦するのですが、1ヶ月で打ち切りとなり、成功したのは同時期に上演されていた J. アンドリュース主演の『マイ・フェア・レディ』でした。

これがもしヒットしていたら、彼女の人生には二度目の花が咲いたことでしょうが、これを機に歌手・女優のエンターテインメント業界からは引退してしまいます__蛇足ですが、『マイ・フェア・レディ』映画化の際 アンドリュースも映画界では無名で、主演は A. ヘプバーンに決定、しかも歌は吹き替えで別人が歌いました。
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戦後 40年以上経って 李香蘭が主人公のテレビドラマ『さよなら李香蘭』(1989年 フジテレビ 演:沢口靖子)、『李香蘭』(2007年 テレビ東京 演:上戸彩) が制作されましたが、本来歌手ではない主演の歌唱力が弱く (私の独断と偏見では) どちらも学芸会風で、演技の個性も強くは感じませんでした。

歌唱面だけでいうと、胡弓の音 (ね) に合いそうなポルタメント () を多用するリリック・ソプラノの李香蘭の声は、戦後 “アジアの歌姫” といわれた台湾のテレサ・テンに匹敵するのかも __ かなり こじつけっぽいですが、2枚の CD を聴き比べた私の感想です。
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※) ポルタメント (portamento) は、ある音から別の音に移る際に、滑らかに徐々に音程を変えながら移る演奏技法である (Wikipedia から)。
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戦前 ”李香蘭” を企画制作したイベントプロデューサー (EP) は多く存在していましたが、戦後 エンターテイナーの “山口 淑子” を推進する真の EP はいなかった、ともいえます。 もっとも あの時代、そうした EP を求めることはかなり無理スジの話しだったでしょう。 敗戦で多くの日本人が困窮するという状況の中で、彼女を担いで敗戦で打ちひしがれた日本人の心に響く娯楽を提供することは困難だっただろうと想像します。 逆にいうと 戦後の日本は、女優 “山口 淑子” を活かし切れなかったのかも知れませんね。
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同じように “時代に翻弄された” 人として、山口の親友 リューバが自伝に登場します。 白系亡命ロシア人のリューバとは満州の少女時代に知り合い、山口の病気の肺を鍛えるためにロシア人プロ歌手の弟子となることをお膳立てし、終戦直後の上海では 漢奸の容疑を晴らすために戸籍謄本の入手に努め、と山口の人生の節目で尽力するのですが、ソ連に帰国後 夫がなぜか国家反逆罪で逮捕され、息子と夫に先立たれます。 兄も戦前の日本軍の人体実験で亡くなったらしいことが『私の履歴書』の最後で出てきます。 53年振りの再会 (1998年) 後 翌年逝ったこのリューバも、日本・ソ連の歴史に翻弄された1人ですね。
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戦後の日本で当時 受けた歌は、『東京ブギウギ』(鈴木勝 作詞、服部良一 作曲、笠置シヅ子 歌唱 1947年)、『青い山脈』(映画『青い山脈』の主題歌 西條八十 作詞、服部良一 作曲、藤山一郎 歌唱 1949年)、『リンゴの唄』(サトウハチロー 作詞、万城目正 作曲、並木路子/霧島昇 歌唱 1945年) などです。

山口 淑子のキャラクターは、これらの歌のイメージではなかったのでしょう。 やはりエンターテイナーには、その時代 時代に合った “眼力を持つイベントプロデューサー” が大事だなと実感させられますね。 ご冥福をお祈りします。
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別件です。 半世紀前に “劇団四季” を創設、日本にミュージカルを定着させるのに大きな役割を果たした浅利 慶太は劇団の運営・管理に永年 当たっていましたが、2014年6月 四季株式会社の取締役社長を81歳で退任しました。 劇団四季は年間 3,000ステージ超を上演 (興業)、年間観客動員数はリピーターを含めて 300万人 ともいわれるのですが、彼がいなくなった後の日本のミュージカル界は、彼に代わる “集客力をもたらすイベントプロデューサー” を見つけられるのでしょうか?

以上


※追加1_「李香蘭」の名で広く知られ、戦後は参院議員もつとめた女優・歌手の山口 淑子 (やまぐち よしこ) 氏が9月7日、94歳で亡くなりました。 若い世代の人は、李香蘭という名前を知らないかもしれませんが、かつて日本が満州を支配していた時代には、日中両国において、知らぬ人がいないほどの有名人でした。 李香蘭とはどのような人だったのでしょうか。

李香蘭は、日中戦争開戦の翌年 満州の国策映画会社・満洲映画協会 (満映) からデビューし、日中両国で大人気となった女優です。 美しい容姿とネイティブ並みの中国語能力を持っていた山口氏は、李香蘭の名前で中国人女優としてデビューしたのです (山口氏の父親は満鉄で社員に中国語を教えていた)。

山口氏が李香蘭としてデビューした背景には、大陸に進出しようとしていた当時の日本の国策がありました。 日本は満州事変をきっかけに、清朝最後の皇帝溥儀を迎え、満州国を設立しました。 日本は軍事力で大陸を支配しようとする一方、文化的な支配も実現しようと試みており、そのために設立されたのが満映という会社でした。

当時の満映理事長には、元陸軍憲兵で、無政府主義者殺害の容疑で服役したこともある甘粕正彦氏が就任していました。 日本側は日中の架け橋となるような大女優を求めており、白羽の矢が立ったのが山口氏だったわけです。 少し古い映画ですが、溥儀の生涯を描いた「ラストエンペラー」では、音楽家の坂本龍一氏が、音楽を担当すると同時に、甘粕氏の役で出演しています。

軍部の狙い通り、李香蘭は日中で大変な人気となり、次々と映画に出演し、歌も大ヒットします。 しかし中国の人は、李香蘭が本当に中国人だと思っていました。 このため、日本が無条件降伏を受け入れた際には、日本軍に協力した罪 (漢奸罪=国家反逆罪) で起訴されてしまいます。

その後 日本人であることが法廷で証明され、ようやく日本に帰国することができます。 帰国後は、日本での芸能活動を経て、自民党から参院選に出馬し、参議院議員を3期つとめています。

山口氏は女優としてデビューすることにあまり乗り気ではありませんでしたが、父親が満鉄の関係者だったこともあり「お国のため」と仕事を引き受けたそうです。 しかし 日本人であるにもかかわらず、それを隠して中国人女優として活動してきたことについて、山口氏には相当な葛藤があったといわれています。

女優として有名になり、日本公演のために一時帰国した際には、日本の入国係官から「おい!」と呼び止められ「一等国民である日本人が三等国民である中国人の服など着て恥ずかしくないのか。 それでも日本人か」と罵声を浴びせられたと自著に記しています。 日本は大陸進出にあたり「五族協和」というスローガンを掲げ、アジア人が団結して欧米に対抗すべきだと主張していました。 しかし 現実は相当かけ離れていたようです。
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※追加2_ 抜粋 _「決して怪しいものではない。 李香蘭女士に食事を差し上げながらお願いしたい筋があって、当局の許可を得て参りました。 昼食が終わったら、また無事にお送りするので心配なさらぬよう」

着いたところはフランス租界の豪壮な邸宅だった。 広い部屋には十人ほどの恰幅の良い紳士たちが待っていた。 案内した青年が、「上海市の実力者のグループの方々です」といって一人一人を紹介したが、いずれも本名ではなさそうだった。

食事が始まり雑談しているうちに、ずばり核心に踏み込んできた。「今の取り調べが終われば、いずれ正式の軍事裁判が開かれるが、その前に起訴を取り下げてもらって自由の身になりたいと思いませんか」 向かいに座って中心人物とおぼしき風格の大人 (たいじん) が折り目正しい口調でいった。

「もし中国に永住を希望しているのなら、裁判を取りやめて この家を差し上げます。 勿論 十二分の生活費を差し上げます」 「どうして、何のために?」

「漢奸の罪を問わない代わりに、時々 東北 (旧満州) へ視察旅行に行っていただきたい。 中国語も中国人以上に上手だ。 土地勘のあるあなたに共産八路軍が進出している地方の情勢を探ってきてほしいのです」

要するにスパイになってほしいという誘いだった。 この人たちは国民党政府の諜報組織関係者なのだろうか? 向かいの大人がさらに続けようとするのを私はさえぎった。

「漢奸の罪を許すといわれましたが、私は漢奸ではありません。 李香蘭という中国人の芸名で女優活動をしてまいりましたが、私は日本人、本名は山口 淑子です。 日本の国策には協力したけれど、それは私が日本人だったからです。 そのことをはっきりさせるために取り調べを受け、裁判を待っているのです。 私はこれまでにスパイ行為を働いたことはなく、今後ともスパイをする積りはありません」

「よく分かった」 真ん中の席の大人が思い切りよく腰を上げ、「苦労をかけた」といった。 それにならうかのように、全員が立ち上がった。 一人一人、握手を求めてきた。 本当に国民党政府側からのスパイの誘いだったのか、私の “思想” を試してみたのか、未だに分からない。 いずれにしても、中国服の大人たちに囲まれた あの食卓の1時間は、私にとっては裁判における最終弁論のようなものだった。
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※追加3_ 朝鮮戦線で重傷を負い、日本の米軍病院に収容されたジム・スターリング中尉 (ドン・テイラー) は、日本看護婦清水妙子 (シャーリー・山口) と知り合い、烈しく愛し合うようになった。 妙子は祖父英太郎に育てられていたので、ジムは彼に結婚を求め、許されてカリフォルニア州サリナスのジムの両親の農場へ帰ってきた。

ジムの兄嫁フラン (マリー・ウィンザー) はかつて彼を想っていたので、妙子の出現に嫉妬しさまざまな冷たい仕打を行なった。 妙子は近所にささやかな農場を営む長谷川四郎 (レーン・中野) と親しくつき合うようになり、彼の妹エマに何くれと親切をつくしたが、それをみたフランは妙子と四郎の仲を邪推しはじめた。 

ジムは近くの丘に新居を作る計画をたて、更に妙子をゲイシャ・ガールと罵った米人と闘うなど、心から妻のためにつくし、やがて妙子は黒髪の男児を生んだ。 ところが この時家に手紙が舞い込み、赤ん坊は四郎の子であると中傷してあった。 一家中が気まずくなり ジムは両親と口論をはじめる始末に、妙子は書き置きをして家出した。 モントレイの日本人農場で働き、帰国の旅費を稼ぐつもりであった。

ジムは手紙の主がフランではないかと感付き、問い詰めて白状させた。 一家のものはすべて妙子に対する態度に至らぬものがあったことを反省し、手分けして彼女を探しはじめた結果、ジムは彼女を見つけ出した。 妙子はジムの姿をみると逃げ出し、断崖から身を投げようとしたが間一髪追い付いたジムは、固く彼女を抱きしめて家族のあやまりを詫びるのであった。
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※追加4_ 帰国後は、旧姓 (当時の本名)・山口 淑子の名前で芸能活動を再開し、日本はもとより、アメリカや香港の映画・ショービジネス界で活躍をしたが、1958年に結婚のため芸能界を退いた。 そして 1969年にフジテレビのワイドショー『3時のあなた』の司会者としてマスメディア界に復帰、1974年3月まで務めた。 後に 1974年から1992年までの18年間は参議院議員をも務めた。 2006年に日本チャップリン協会 (大野裕之会長) の名誉顧問に就いた。
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※追加5_ シャングリラ (英語: Shangri-La) は、イギリスの作家ジェームズ・ヒルトンが1933年に出版した小説『失われた地平線』に登場する理想郷 (ユートピア) の名称。 ここから転じて、一般的に理想郷と同義として扱われている。 この小説により「シャングリラ」という言葉は有名になり、1930年代後半以後 ヒマラヤ奥地のミステリアスな永遠の楽園、外界から隔絶された地上の楽園というような語と同義になった (ウィキペディアから)。

以上

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