もうすぐ子どもたちが、すばらしいアイデアにたどり着こうとする。その直前で、教師が結論を出してしまう。おそらくその方が、教師としては教えた気になれるし、体面も保てるからだろう。だいたいその教え方というのも全国共通で、「ヒント出そうか?」と言うのだが、その「ヒント」はたいていの場合、その教師のやりたいことなのだ。
表現教育には、子どもたちから表現が出て来るのを「待つ勇気」が必要だ。しかし、この勇気を培うことは難しい。ただの勇気では蛮勇になってしまう。経験に裏打ちされた自信が「待つ勇気」「教えない勇気」を支える。
(『わかりあえないことから』平田オリザ、Kindle版位置No.420)
平田オリザ著
講談社
う~ん、平田さんのおっしゃりたいことはよ~くわかる。だがこれは、ひじょ~に難しい。
内田樹いわく、
教えるというのは本質的に「おせっかい」
そしてまたいわく、
まず「教えたい」という「おせっかい」があり、それが「教わりたい」というニーズを作り出すのである。
そして他ならぬこのわたしは、生来の「おせっかい」者であり、その帰結としての「教えたがり」を強く自認している。つまり内田先生の見立てに全面的に同意する人だ。
そんなわたしのような人間から言わせてもらえば、そもそも「教える」と「おせっかい」が表裏一体である以上、教えられる側から出る結論を「待つ」ことは大変な苦痛と困難をともなう(ましてやスピード優先主義で「仕事という場」を生きてきたわたしであればなおのこと)。
しかし、だからこそ「待つ」こと「教えない」ことの重要性も承知しているつもりだ。
「ヒントだそうか?」
そんな言葉が口をついて出そうになったら、そこはイチバンぐっと飲み込んで、
「それは単にオレのやりたいことを教えてるだけじゃないのか?」
と自問してみる。
少なくとも、そうやって自分を疑ってかかる心持ちだけは忘れてはならない。
な~んてことを考える朝、5月30日、雨。
長いあいだわたしの周りを取り囲んでいたモヤモヤから脱け出せそうな、なんだかそんな気がし始めている今日このごろなのである。