答えは現場にあり!技術屋日記

「三方良しの公共事業」をモットーに、辺境の高知のそのまた辺境から、土木技術者のオジさんが泣き笑いの日々を届けます。

教える人

2016年05月09日 | ちょっと考えたこと

以下、太鼓の話である。

 

太鼓(を打つの)が上手になるために教えてるんじゃない。

太鼓(の演奏や表現)を通じて、オープンマインドな人になってほしいのだ。

 

と常々広言してきたわたしである。

今でもそれが変わったわけではない。

昨夜も昨夜とて女房殿を相手に、ネットで取り寄せた磐城壽(いわきことぶき)山廃純米生原酒をちびりちびりとやりながら、昼間の太鼓教室であったことを肴にそんなことを語っていた。

だが、うんうんと相づちをうってくれる相方がいるのをいいことについつい熱くなりかけたそのとき、ふと気がついた。

 

「あれ?間違ってるんじゃないかオレ」

 

「教える人」としてのわたしの考え方が、ではない。「教える人」として優れている人間はそんなことを口にしないのではないか、と思ったのだ。

たとえば「ケンカに強くなりたい」とボクシングをする。

たとえば「女の子にモテたい」とギターを弾く。

動機づけとして、どちらも何ら問題がない。

色いろなな入り口があり、さまざまなプロセスがある。それを否定して、「いや、こうでなければならない」と押しつけるのは、チトおせっかいが過ぎるのというものだ。

「教える人」になるというのは、元来がとても「おせっかい」なことであり、「押しつけ」を多分に含んでいる。むしろそうでなければ、好んで人を教えることなどできないし、ましてや「教える」という行為をつづけることなど、とてもできやしない。

だからこそ、「入り口」や「行く道」やそのプロセスを、「こうでなければならない」と押しつけてはならないのだ。

 

「そんなのもあっていい」

もしくは

「それはそれでアリだよ」


ぐらいの心持ちでなければ、「教える人」が本当に伝えたいことは伝わらないのではないか。

太鼓はどこまでいっても太鼓でしかない。

「それを通じて人間教育を」と考えるのは、あくまでわたしの勝手な「思い」であって、それを押しつけられても迷惑なだけの話でしかないかもしれない。

ぐらいの心持ちでなければ、「教える人」が本当に伝えたいことは伝わらないのではないか。

 

昨夜、磐城壽(いわきことぶき)山廃純米生原酒をちびりちびりとやりながら、そんなふうなことを考えていた。


以上、太鼓の話である。

(ばかりではない、かもしれない)

 

 

 

 

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