答えは現場にあり!技術屋日記

「三方良しの公共事業」をモットーに、辺境の高知のそのまた辺境から、土木技術者のオジさんが泣き笑いの日々を届けます。

わたしの一人称

2016年05月25日 | ちょっと考えたこと

仕事やオフィシャルな場所では「わたし」と呼ぶことにしている。

ちょっとくだけた言い方は「アタシ」だ。

プライベートでよく使うのは「オレ」。

和太鼓を教えるときは「おんちゃん」(土佐弁でオジさんを表す)である。

その他、「自分」と言うときもある。

まれに「ワシ」も使う。

以上、わたしがわたしを表すときの一人称である。


近ごろは、仕事やオフィシャルな場で、「ぼく」という一人称を使いたくてたまらない。

ちょうど10歳上のとある経営者のかたが、「ぼく」と呼んでいるのがなんとも好ましいのを始め、何人かの年配のかたが使う「ぼく」が素敵なのに感化され、わたしも使ってみたいと思うのだ。

だが、少々理由があってなかなか使うことに踏みだせないでいる。理由、とは社会人になって最初の上司の言葉だ。

当時、自らを「ぼく」と称していたわたしに対して彼は、「僕なんて学生の言葉だ。これから使うな。社会人は自分のことを私と言うのだ」と命令した。

爾来、「わたし」である。

田舎に戻り、今の職場にお世話になり始め、周りに「わたし」と言う人がいなかったものだからいっとき「ぼく」を使っていたが、なんだか馴染めずまた元の「わたし」に戻して今に至っている。

 

ことほど左様に、日本語には自分自身を指す語が多い。

それについて、『英語化は愚民化』(施光恒著、集英社新書)で施光恒さんはこう書いている(文中の木村氏とは精神医学者の木村敏氏)。

 

英語化は愚民化

日本の国力が地に落ちる

施光恒著

集英社

 

日本語では、状況に応じて適宜、自分を指す言葉を柔軟に使い分けなければならない。自分の周りの状況を先によく知り、その後、そこでの自分が認識されるという順番となる。

木村氏は次のように述べている。「日本語においては、そして日本的なものの見方、考え方においては、自分が誰であるのかは、自分と相手との間の人間的関係の側から決定されてくる。(・・・中略・・・)自分が現在の自分であるということは、けっして自分自身の『内部』において決定されることではなく、つねに自分自身の『外部』において、つまり人と人、自分と相手の『間』において決定される」

日本語の世界では、自己は、常に状況や他者との関係との関わりで規定され、認識されるのだ。(P.165~166)

 

近ごろ仕事やオフィシャルな場で、「ぼく」という一人称を使いたくてたまらないわたし。

さて、どうしたもんじゃろのう。




 

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