散日拾遺

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アテネからコリントへ

2014-07-13 06:02:07 | 日記
2014年7月13日(日)
 中高生に、使徒言行録18章1~11節の話。
 パウロがコリント伝道にあたる箇所で、これといって出来事が起きないので話づらいといえばいえる。
 コリントはどんな場所か。ミケーネやスパルタのあるペロペニソス半島、半島とは言ったがほとんど島で、アシナガバチの巣が細い茎でツツジの枝に繋がっているように、幅わずか6kmの細い陸地でギリシア本土とかろうじて繋がっている。茎にあたるのがコリント地峡である。
 1893年に運河が地峡を横断するまでは、両側に迫る海からやってくる物資・情報がいったん陸揚げされ運ばれた。これが横の流れだとすれば、ギリシア本土と半島とを往来する人と物が縦の流れを作る、縦横の流れが交錯する交通の要衝として自ずから繁栄の条件を備えていた。戦火に曝されもし、新約時代のそれはカエサルによってB.C.46年に再建されたものとある。
 繁栄の内実は、富の蓄積と奪い合いであり、訪れる人と文化の多彩さであり、現世的な享楽と堕落であった。海の向こうのイオニアではエフェソスのアルテミス神殿が有名だが、コリントにはアフロディテ神殿があり、神殿娼婦は1000名を数えたという。その地のキリスト教会がどんな試練に曝されていたか、想像に難くない。
 そのコリントの教会に宛てて、パウロは4つの手紙を書いた。新約にはその二つが収められ、第一コリントの13章が『愛の讃歌』だ。コリント教会はパウロにとって最大の悩みの種であり、祈りの課題であり、そして最後には感謝の実りとなったと Interpreter's Bible の解説にある。いっぽうパウロがコリントから書いた手紙には、『ローマ』『テサロニケ』そしておそらく『ガラテヤ』が含まれるという。

 面白いのは、パウロがマケドニアからアテネを経てコリントに入っていることだ。コリントの直前がアテネ、ヘレニズム世界の人智の中心である。そのアテネでの伝道はまったくの失敗だった。パウロにはアテネでこそキリストを宣べ伝え、そこから全世界へ発信するといった望みがあっただろう。しかし、誇り高きアテネの人士は福音の愚かしさを全く受けつけなかった。
 「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った。」(使徒言行録 17:32)
 アテネからコリントへ入った時、パウロは心身ともに疲弊し、彼の伝道生活の中でどん底の時期にあったと注解者は推測する。世界の学堂であるアテネが一笑に付した福音は、しかし俗塵にまみれた享楽の都コリントで、思いがけず大きな花を咲かせることになった。

 その最初のきっかけは、アキラとプリスキラというユダヤ人夫婦と知り合った。アキラがパウロと同じテント造りの職人であったことを注解者は重く見る。同業者と共に、まずは一生活者として無心に労働に励む中で、パウロは疲れを癒され充電の時を与えられる。やがて主の言葉が与えられる。
 「恐れるな、語り続けよ、黙(もだ)すなかれ」(18:9)
 
 恐れるな μη φοβου ~ イエスのメッセージの核の核である。
 今日はこれで行こう。