散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

古代ペルシアの二つの都

2021-06-29 07:28:52 | 歴史
2021年6月29日(火)
 ペルセポリスとスサはアケメネス朝ペルシアの二つの都、「夏の都と冬の都」と教わった記憶があり、季節ごとに宮廷が二都を移動したのか、さすが豪奢なと感心したものだった。どちらが夏でどちらが冬だったか、今さら気になって捜してみると、季節の話は何も出てこない。代わりに「ペルセポリスは王宮、スサは行政府」との解説あり。明快至極。武家政権時代の京都 vs 鎌倉・江戸を連想する。
 「夏/冬」説は、ひょっとしてわが妄想かしらん?

 昔は気にもとめなかったが、ペルセポリスという名称は「ペルシア」+「ポリス」つまりギリシア語ではないかと正しくも心配になり、見回せばすぐに答が見つかる便利な時代。ペルシア語では「タフテ・ジャムシード(ジャムシード王の玉座)」と呼ぶのだそうだ。ペルセポリスは征服者たるギリシア側の命名である。
(「世界史の窓」https://www.y-history.net/appendix/wh0101-107.html)

 アレクサンドロスは東征の途次、ペルセポリスの壮麗な王宮に4ヶ月滞在した末、これを焼き払ってしまった。その理由について、『対比列伝』の記載にもとづく衝動説と、歴史事情を踏まえた計画説があるという。当時ギリシア本土でスパルタなどに反マケドニアの動きがあり、それら抵抗勢力に対して今次の東征(B.C.334-330)が、前世紀のペルシア戦争(B.C.492-449)に対する報復戦であることをアピールする必要があったというのである。

森谷公俊『王宮炎上』吉川弘文館(2000)

 理由はさておき、焼かないでおいてくれればと後世は惜しむが、その廃墟だけで世界遺産の価値を立派に保っている。惜しいといえば安土城、これは木造建築の悲しさできれいさっぱり跡形もない。残念無念。
 現在の地図と見比べると、ペルセポリスはザグロス山脈に分け入った内陸の高地にあり、スサはメソポタミア平原の東北隅に位置する。祭儀は山に、行政は平地に、それぞれ中心を置いたこと、まことに理に適っている。
 「夏は涼しい山間へ」というのも、これまた理に適っているようだけれど。


ペルセポリスのアパダーナ(列柱のある広間)
上掲サイトより

Ω