散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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ugoitaruku, mawattaruku

2018-01-30 20:41:28 | 日記

2018年1月30日(火)

 追加情報をいただいた:

 同類語を思い浮かべました。

  動いて歩くugoitaruku

  回って歩くmawattaruku

 どちらもそんなに広い範囲の場面では使わないように思います。広い座敷とか、教室とかぐらいです。

 その他、三河と尾張でも違いがあるように思います。

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 「動いて歩く」は何だかうっすらと記憶にある。授業時間になったのに教室内をうろうろしていて、「おい、チャイム鳴っとるがや、動いたるいとってかんぞ!」と先生に叱られたような。

 三河と尾張は確かに今でも相当違っており、桜美林卒業生の相羽君が愛知県内に職を得て、最初に驚いたことの一つがそれだったという。戦国時代にはなおさら懸絶していたはずで、織田と徳川の違いは信長と家康の個性の違い以上に、尾張衆と三河衆のメンタリティの違いに由来するところ大ではないかと思う。名古屋はもともと尾張であって三河ではないが、ブラタモリでも紹介されたように家康が手塩にかけて町づくりを進め、そのあたりから多かれ少なかれ融合に向かったことと思われる。

   

Ω


hashittaruku/帯広の朝

2018-01-30 18:23:27 | 日記

2018年1月30日(火)

「走って歩く」について、ある方からメールで指摘をいただいた。大恩ある年上の女性とだけ紹介しておく。コスモポリタンという言葉がよく似合う広い精神世界に生きている人なので、名古屋の御出身と伺ったときはとても不思議な気がした。名古屋がコスモポリタンに縁遠いという意味ではない、この方が特定の出身地をもつことが不思議に感じられたのである。以下、大略を転記:

 hasittaruku これたぶん名古屋の言葉です。
 hasittearuku ではありません。

 一緒に暮らしていた祖母が男の子の動きをたしなめるときのひびきが聞こえてくるようでした。
 私の耳の奥に残っている名古屋のコトバも、各地の言葉がまじっているので微妙ですが。

 祖母のその親は江戸の人で、父が学んだ大阪の言葉もまじっていたり、
 名古屋のことばと思っていた単語が江戸の言葉だったりということもありました。

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 現金なもので、そう言われたらケイちゃん自身が「元気に走ったるいとるがね」と口にしたのを聞いたような気がしてきた。記憶なんてイイカゲンなものだが、そうかと思えば妙に正確だったりするので厄介なのである。

 名古屋弁だとすれば北海道説はどうなるのかということだが、これは別に不思議でもなかろう。北海道の言葉は、明治以降に全国から入植してきた人々がもちこんできた多彩な素材を、その後の歩みの中で独自に練り上げていったものと想像される。名古屋の素材が採用されたことも当然あるだろう。ちなみに、屯田兵の出身地域に関するデータをインターネットでチラ見したら、あるサイトで愛知県出身者は15位にランクされていた。

 「走ったるく」・・・正しい発音でこれからも使おう。

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 折しも北海道在住の大学院生から、今朝のメール:

 今朝の帯広はマイナス20度を下回りました。 今夜は飲み会なので徒歩での出勤(50分ほど)です。 鼻水も凍ります(笑)。 添付の写真は今朝の「十勝大橋」からの一枚です。

 

 帰り道、どうぞ気をつけて。

Ω


セキレイとトンボ

2018-01-29 06:47:59 | 日記

2018年1月28日(日)

 モズが旧知の仲か何のように偉そうに書いたが、実は野鳥のことなどまるで知らない。たぶんモズではないかと思っていた鳥が正しくモズだと分かって、大いに嬉しかったのが正月の真相である。

 今朝は海浜幕張のコンビニ前でツイツイと歩き回り、人を恐れる風のない小鳥に出会ってしばし考え、「セキレイというものではないか」と根拠なく結論した。これがまた正解らしく、なぜ他ならぬ「セキレイ」の名を思い浮かべたか、謎のままに驚き喜んでいる。黒にグレーにオフホワイト、シックなモノトーンに長い尾が洒落ている。

  

 セキレイは日本神話の中で、ちょっとした大役を担っている。

 「遂に合交(みあはせ)せむとす。しかもその術を知らず。時に鶺鴒(にはくなぶり)有りて、飛び来たりてその首尾(かしらを)を揺(うごか)す。二(ふたはしら)の神、見そなはして学(なら)ひて、即ち交(とつぎ)の道を得つ。」(日本書紀 巻第一、岩波文庫版 P.30-32による)

 つまり、尾の振り方によって交合のしかたをイザナギ・イザナミに教授したというのだね。鶺鴒と当て字された「にはくなぶり」は、「には(=「俄か」の語幹)+くな(=お尻)+ぶり(=振り)」だそうで高速に尾を振り動かす鳥を意味し、セキレイのことと解されている。英語でセキレイを意味する wagtail も同じ語源という。国産みがすべての始まりなんだから、それを指導したセキレイは国の大恩人ということになる。

 それにしてもおおらかなものだ。国産みから降って神武東征、めでたく即位した初代天皇は国土を見渡し、「あなにや、国を獲つること。内木綿(うつふゆ)の真迮き国と雖も、猶し蜻蛉(あきづ)の臀呫(となめ)の如くにあるかな」(上掲書 P.242)と賞嘆した。蜻蛉(あきづ)の臀呫(となめ)とはトンボが交合のためにつながった形で、秋津島という日本国の別名はこれに由来する。下の写真のような図と思われるが、日本の国土のどこをどう見てこれを連想したのだろう?

 いずれにせよこの国の伝統の中で、繁栄は常に生殖のイメージの延長上にあった。その意味でも今は転機かも知れない。

実は、とても深い理由があります。
 まず連結は交尾ではありません。表示させてもらった写真の形が交尾です。...

(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1295320797 より拝借)

 なお、僕の見たのは正確にはハクセキレイという種のようである。かつては北海道や東北地方など北国だけで観察されていたが、20世紀後半に入って繁殖地を関東・中部へ拡げ、現在は東日本でも普通種になっているとある。温暖化に伴って動物が北漸するなら分かるが、逆に南へ広がっているのは不思議である。これについては「本種が他種よりも都市や埋立地など人工的な環境に適応しており、例えば建築物へ塒(ねぐら)を取る個体数が他種より多いことなどから、都市的環境への適応能力の差によるものと考えられている」のだそうだ。(Wiki:ハクセキレイより)

 海浜公園のこの群れも、その一例ということですか(写真ヘタクソ!)。記紀の時代のヤマト地域にどんなセキレイがどれほどいたのか、気になるところではある。

  

Ω

 


「あげる」と「やる」の微妙な関係

2018-01-28 07:14:12 | 日記

2017年1月28日(日)

 またまた方言の話から始まる。

 山形へ転校していって、言葉ではずいぶん新鮮な経験をしたに違いないのだが、思い出すのは意外に些細なことだったりする。学級会の時間に僕は知らない一学期の振り返りで、給食のおばさんたちに感謝を込めて「お花をやったのは、とてもよかった」と皆が口々に言う。黒板にも書記役の子がそのように書き、これは小さな衝撃だった。「あげた」のではなく「やった」のが、である。

 これがそれこそ方言の機微で、今はどうか知らないが昭和43年9月の山形市では、「やる」は目上から目下へ遣わす場合に限らず、感謝の贈呈においても使われる言葉だった。平成初年の福島県郡山市でも似たことがあり、当直の労をねぎらって「先生、お茶入れてやるかい?」と声がかかったりしたから、東北方面に通有の傾向かもしれない。慣れればそれだけのことで、「やる(遣る)」にこもった心やりが今も温かく思い出される。

 昨今の共通語や東京弁は逆の方向に振れており、犬猫に餌を「やる」などと言ったら「上から目線」「かわいそう」とブーイングが起きそうである。お花に水をあげたってもちろん構わないが、「水をやる」と言いづらくなったのは窮屈だ。ついには料理番組でも「豚肉に塩胡椒をしてあげて」などとやっている。何につけ対象を丁寧に扱うと思えば結構なようだが、言葉の丁寧度がインフレを起こすその裏に、大きなぞんざいが隠蔽されているのではないかと邪推したくなる。

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 話題の小説類を、話題になっている間は手にとる気になれず、人が忘れた頃になって怖ず怖ず読んでみるということがある。『君の膵臓をたべたい』という話題作(?)も、御多分に漏れず旬には放ってあったが、これは息子たちの手を経て渡ってきた。「この半分か三分の一で書けるのではないか」と言ったら、三男がまったく同じことを読後につぶやいていた話、前にも書いたっけね。

 これなどは若い作家が若い人々を描いたものだから、使われている言葉のお作法は完全に今時で、主人公(少年)は主人公(少女)に対して「丁寧に説明してあげ」たり、「残した朝食を食べてあげ」たり、「ウルトラマンを買ってあげ」たりしている。 ところで、この作品の中に(僕の見落としでなければ)ただ一カ所だけ、「~(して)やる」という表現が出てくるのだ。

 相手は誰だと思いますか?考えれば分かるね、犬猫お花では、もちろんない。

 「下の階で顔を洗い、リビングに行くと父親が出かけるところだった。労いの言葉をかけてやると、彼は嬉しそうに僕の背中を叩いて家を出ていった。彼は一年中元気だ。あんな父親からどうして僕のような子どもが生まれたのか、いつもふしぎに思う。」(P.243)

 これはなかなか面白いと思ったのだが、面白さを敷衍展開する糸口が見つからぬまま日が経っていく。「なかなか面白い」という感想だけを書き留め、いったん忘れることにしよう。さて、帰るか。

Ω

 

 


今週の相撲/レオ・ペルッツの小説に上村提督が登場すること

2018-01-27 23:46:37 | 日記

2018年1月27日(土)

  「今場所の栃ノ心はイイぞ」と家人に話していた。NHKが御嶽海ばっかり追いかけていた前半戦の段階からである。

 あとは逸ノ城、これもTVは215kgの体重ばかり連呼してるが、今場所急に太ったわけではない。変わったのは体の使い方で、ようやくノッシリ前に出るようになってきたのである。それに彼は大きいけれど右の差し身がなかなか良いのだ。どうにもこうにも脇の甘い照ノ富士に分けてやってほしいぐらいで、これなら大成の可能性が十分ある。

  そういう訳で十三日目の栃ノ心 - 逸ノ城戦は楽しみだった。果たして右のがっぷり四つ、こういう相撲をもっと見たいね。相手の上手を切りながら寄って出た栃に、今場所は一日の長があったけれど。残念なのは鶴竜の引き癖で、十一日目も十二日目も立ち会いで押し勝った状態での引きだから、体が覚えちゃってるのである。「勝ちたいと思っちゃってるのがいけないね」と反省の弁、よくよくわかっていてもやってしまう、相撲は人生と同じぐらい難しいらしい。

***

 この間、今週のマイブームはレオ・ペルッツ(Leo Perutz,1882-1957)。僕の生まれた年に亡くなった、プラハ生まれのユダヤ系作家。ウィーンで活躍したとある通り、作品はドイツ語で書かれている。

 この出自と生きた年代を手短に要約するのは難しい。世紀末の空気の中で成長し、18歳で20世紀を迎え、30代前半が第一次世界大戦とロシア革命、36歳の時にハプスブルグ王朝とオーストリア帝国が幕を閉じた。生誕の地はチェコスロバキアとして新生したが、ドイツ語で物を書くユダヤ系の30男にとっては、オーストリア人である方がよほど楽でもあったろうか。作中には当然ながらチェコ絡みの話題が散見され、革命時代のソ連を舞台とするものもある。そう、歴史は戦間期からナチの台頭へ、第二次世界大戦を経て冷戦時代へ進んでいく。戦間期には国際的な流行作家だったが、ナチ時代の迫害を逃れてテルアビブに移住、戦後いったん忘れられ90年代に再評価されたという。

 ひとりの人間が生涯の中で、主体的に経験できる範囲をはるかに超えた質と量のできごとである。

***

  「クリスマス・イブに生まれた子はたいてい司祭さまや聖職者になり、なかには説教者になる人もいるそうよ。復活祭に生まれた子はろくでなしになるそうだけどね。」

(『アンチクリストの誕生』P.92)

 そんな迷信があったんだね。迷信・俗信にまみれているのは、民衆の生活の深く根を下ろしていることの証左でもある。日本のキリスト教、特にプロテスタントはいつになっても清浄なままだ。『アンチクリストの誕生』は、どこかガルシア・マルケスに似た味がする。脱獄囚の夫と、逃亡修道女の妻とが、嬰児を間に対峙する。さあ、どうなる?

 『アンチクリスト』には実は歴史上の人物のモデルがあるのだそうで、僕は最後まで読んでもそれに気づかなかった。なかなかのたくらみである。文庫本の表題になっているこの作品をはじめ、全八作の中・短編集は値打ちな一冊。よくこなれた翻訳もありがたいが、「精霊教会」と繰り返し出てくるのはたぶん「聖霊教会」が正しいはずだ。垂野創一郎氏はペルッツの作品を多数訳しておられるから、これから大いにお世話になることだろう。

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「だが曹長は楽しい歌も知っていた。えせ日本語の嘲り歌で、これはチェコ兵士のロシア贔屓から来たものだ。
   旅順港から
   馬車が来た
   上に乗るのは上村大将

がなり声の合唱でリフレインが入る。
   それからすぐに茶を、茶を立てる
   ブラックコーヒー、チョコレート

(『霰弾亭』171-172ページ)

 え~っと、これはどういうことかな。時代は日露戦争(1904-5)まっただ中、チェコの兵士らはオーストリア帝国への反発もあって親露的ということか。ロシアへの反発から日本に肩入れした国々・人々が多く知られるが、逆も当然あった訳である。ともかくロシア贔屓で日本軍を揶揄してるのだから、馬車の上の上村大将は捕虜として連行されている想定だよね。

 面白いのは揶揄の対象が、旅順は旅順でも旅順要塞に攻めかかっている陸軍の乃木大将ではなく、ロシア旅順艦隊の仇敵ともいうべき海軍の上村大将であることだ。歌っているのは明らかに陸軍の兵士らである。つまり直接の交戦相手ではないオーストリア麾下の、しかもチェコの陸兵にまで日本海軍・上村提督の威名が伝わっていたとことになる。戦争が文化間の距離を劇的に縮めるという、歴史の皮肉の一例を見るようだ。

 注もつけずに書いてきたし『霰弾亭』にも注はついてないのだが、「上村大将」と言われてピンと来る日本人が今どれだけいるのだろう?僕が分かるのは『坂の上の雲』のおかげで、猛将・上村彦之丞(かみむら・ひこのじょう)の逸話はそこに印象的に描かれている。

 『霰弾亭』には、さらにこんなくだり:

「ひとりは曹長の卓からヴァイオリンを取りあげ、尻尾を巻いて逃げた上村海軍大将を諷刺する歌を弾き・・・」

 これでいよいよはっきりしたが、現実の上村大将は「尻尾を巻いて逃げる」図とはほど遠い典型的な薩摩隼人だった。逃げるぐらいなら迷わず敵艦に体当たりして差し違えたことだろう。上村艦隊との遭遇戦を徹底して避けたのは実際にはロシア旅順艦隊の方である。軽快に遊弋して日本の補給線を脅かしては素早く旅順港に逃げ込み、上村を何度も切歯扼腕させた。正面衝突では勝算がないから、バルチック艦隊の到着を待って日本の連合艦隊を挟撃する狙い。それが実現する前に引きこもった旅順艦隊を追い出し叩かねばならないところから、例の悲惨な旅順要塞攻めが要請された。すべて『坂の上の雲』に詳しいところ。

 旅順開城後の蔚山沖海戦で上村艦隊はようやくロシア艦隊に痛撃を与えたが、その際、大破し沈みかけながらなお砲撃を止めないロシア巡洋艦「リューリク」を見て上村大将が「敵ながら天晴れ」と褒め称え、退艦した乗組員の救助と保護を命じた。このエピソードは海軍軍人の手本として全世界に伝わり、日清戦争の伊東祐享提督とともに、各国海軍の教本に長く掲載されたという。

 それはともかく、旅順艦隊が徹頭徹尾逃げまくり、上村が猟犬のように追い立てるという実際の構図が、囃し歌の中では全く逆転している。このあたりはフロイト先生の出番というもので、攻撃者との同一化などといった機制が持ち出されるところか。どう説明するにせよ、いかに上村とその艦隊がロシアに恐れられたかは疑いもなく、ペルッツがどんなソースからこれを拾ったか興味深い。

 上村提督の逸話とは関わりなく、所収の八作中いちばん心に残ったのがこの小品だった。なぜか分からないが、何かひどく気がかりなのは、たとえば主人公のこんな言葉の故かもしれない。

「だしぬけに己の過去に出くわすほど恐ろしい災難はない。サハラ砂漠で迷おうとも己の過去に迷ったよりはたやすく脱出できる。」「過ぎたことはふりかえらんよう、くれぐれも気をつけろ。」

(P.200-1)

     

Ω