散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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読んでみます

2018-12-30 08:41:47 | 日記

2018年12月29日(土)

 放送大学受講生「ちこ」さま、コメントありがとうございます。宮部作品について偉そうに書きましたが、御指摘のものはまだ読んでないのです。「ボーっと生きてんじゃねえ!」って怒らないでくださいね。

 早速アマゾンで注文しました。明日には届くようですから、今年はこれを読みながら越年ということになりそうです。明けたら感想を交換しましょう。

 大学の内幕を少しだけ。映画を授業に活用している S先生に触発され、私のほうは「古今の文学作品の中から精神疾患を扱っているものを選び、自由に論ぜよ」といったお題を出して楽しんでいます。学生さんの反応として、昨年度は夢野久作『ドグラ・マグラ』をみっちり読み込んできた自称「筋肉バカ」さん(私から見るとゼンゼン違いますが)、今年度は特定の作品の代わりに芥川龍之介の病跡学的検討を行った超・高機能のPTさんなど、とっても創造的でスリリングでした。毎回何が出てくるか、ほんとに楽しみなんですよ。

 私の方からはお返しにクレッチマーの天才類型論とか、幸田文さん(こうだ・あや、文豪・幸田露伴の実のお嬢さん)の随筆の中で御自身のパニック発作が活写されていることとか、あれこれトリビアを提供していますが、来年からそのリストにひとつ加えられそうです。ありがとうございました。

 では、年明けにあらためて。良いお年をお迎えください。

***

・コメントが届いた記事: 「バタくさい」が生きていた!

・コメントが届いた記事のURL: https://blog.goo.ne.jp/ishimarium/e/cd229c5032df333fb96bb0379cd22c64

 ・コメントを書いた人: ちこ

 ・タイトル: 名もなき毒の登場人物について

 ・コメント

> はじめまして。放送大学の講義をとっていました。

> 宮部みゆきさんの名もなき毒を読んだのですが、この小説に出てくる原田さんのような激しい人は病気なのでしょうか。境界性パーソナリティ障害よりも、過激な行動だと思いました。

> 本では、最後、原田さんは警察に捕まります。境界線パーソナリティ障害だとすると、自分自身で問題を自覚しないと治療にも結びつかないですが、原田さんは自覚がないような感じです。幼少期から両親がいろいろな相談機関に相談したと小説には書かれていました。

> 小説の登場人物について、コメントなどしてすみません。

 どういたしまして、歓迎です!(席亭)

Ω


見えないものを見えるようにする人

2018-12-26 23:52:56 | 日記

2018年12月26日(水)

 毎朝配信のm3問題、今朝はこんなのである。

 「画像1は、スイス出身の現代美術作家であるパウル・クレー(Paul Klee; 1879-1940)の死の前年(1939年)の写真である。 この写真から、クレーが罹患していたと最も考えられる疾患は次のうちどれか。」

 写真は白黒。写っている初老の男性の額は広く長く、その下で瞳がぐっと見開かれ、高い鼻筋の下で薄い唇が固く結ばれている。髪をきれいに撫でつけ、背後に作品らしいものが見えている。

 くどくど書くより著作権フリーの画像を転載すればすむことだが、ここでは控えておく。ある人の死をもたらした病気の名を当てる、もっぱらそのヒントとするため遺影を掲げることは医学の修練のためなら許容されるだろうが、お楽しみブログの分際を越えている。

 もうひとつ引っかかること、出題者の意図は分かるけれども論旨に無理がある。パウル・クレーの命取りになった「謎の病気」は、Wikipedia では「皮膚硬化症」などと書かれているが、おそらく今日でいう全身性強皮症(systemc sclerosis)と推定される。

 出題者は一枚のスナップから「仮面様顔貌を呈していたことがよみ取れる」とし、「仮面様顔貌は Parkinson病の症状として有名であるが、全身性強皮症や精神疾患でも見られる。強皮症で仮面様顔貌を呈するのは、顔面の硬化で表情が乏しくなるからである」と解説する。しかし少なくとも Parkinson病や精神疾患の場合、仮面様顔貌は表情筋の動きの乏しさの結果として生じるのだから、短時間であれ動きを観察してからでないと正確な診断はできない。一枚の静止画像では、仮面様顔貌の疑いをもつことはできても断定はできない理屈である。皮膚科のことはよくわからないがたぶん同様、全身性強皮症という結論を知っているために「仮面様顔貌」が読みとれてしまうとしたら、危険なことではあるまいか。

***

 パウル・クレーもクラムスコイ同様に懐かしい名前である。『忘れえぬ人』の 1976-7年頃の来日についてはウラが取れなかったが、1976年に東京で『パウル・クレーとその友達展 Paul Klee und seine Malerfreunde』が開催されたことは、これこの通り間違いない。忘れんぼのE君は忘れえぬ人を忘れていたが、О君の方はパウル・クレーを覚えているんじゃないかな。『友達展』とか『棟方志功展』とか、確か彼と足を運んだのだ。


 パウル・クレー(1879-1940)もまたナチに追い回されたこと、76年当時は知らなかった。似たところも別にないのだろうが、僕の雑然たる頭の中ではなぜかルネ・マグリット(1898-1967)と並んで浮かんできたりする。

 クレーの言葉として下記のものが知られる。

 「芸術は見えないものを見えるようにする」

 「目には見えないものも、心の中では見ることができる」と中学の同級生が教えてくれた。その下の句にあたるのがクレーの画業である。心の中でしか見えないものを、目に見えるようにしてくれるわざ、そうと気づいていたら画家になってみたかった。

 病を得るよりずっと前の、若き画家の写真を掲げておく。よい表情、とりわけ魅力的な瞳である。

Wikipedia より拝借

Ω

 


畏友が定年後に開花のこと

2018-12-26 18:05:12 | 日記

2018年12月26日(水)

 すっかり遅くなった。先週の新聞記事から。

 畏友・櫟原(ひらはら)利明君に白羽の矢が立った。日本相撲協会が暴力問題対策を進めるため、コンプライアンス委員会を発足させる。あわせて「教育研修担当顧問には元参院法務委員会調査室長の櫟原利明氏が就任」と記事の下から三分の一あたり。

 いよいよ活躍の時。彼は幼少時からの相撲愛好家だが、見るだけの愛好家でなく自らとる人だった。好きが嵩じて、自分の通った中学・高校・大学の全てに相撲部を作る。中高は残念ながら後継者が得られず続かなかったが、彼の創設した東京大学相撲部は立派に活動を続けて発展中である。

 彼とは教養課程のドイツ語クラスで出会った。ロシア・アルメニア通のE君、ミルクワンタンの О 君、高校時代からの悪友 R などが一緒である。相撲部創設の際にも声をかけられ、もともとスポーツマンのО君は初代の主力選手になったが、僕は三日と続かず逃げ出した。それでも見限ることなく、披露宴ではよく通る相撲甚句で寿いでくれた。コーラス向きの美声でもある。

 僕も相撲は大好きなので知った風なことを当ブログに書くが、そのつど後で高閲を乞うている。多少とも詳しく語れるのは彼の薫陶のおかげ、卒業後の職業経験も幸いしてこれほどの適任者は他にありえない。定年後のこの開花、彼のためにも相撲道のためにも朗報と聞く。

(記事が読めちゃうと日経さんに怒られるかもしれないので、わざと小さく転載)

Ω


ちょっとした言い換え

2018-12-25 10:48:23 | 日記

2018年12月25日(火)

 連想というのはカート・ヴォネガットの下記のくだりである。

***

 コンスタントは思い出し笑いをした ー 時間厳守(punctual)という警告に対してである。パンクチュアルであるということは、時間とおりにどこかへ到着することだけでなく、点として存在する(punctual)ことを意味する。コンスタントは点として存在している ― それ以外の存在のしかたなど、彼には想像もできない。

 かつてウィンストン・ナイルス・ラムファードは、火星から二日の距離にある、星図に出ていない、ある時間等曲率漏斗(chrono-syncratic infundibulum)のまっただなかへ、自家用宇宙船でとびこんでしまったのである。彼と行をともにしたのは、一頭の愛犬だけだった。現在、ウィンストン・ナイルス・ラムファードとその愛犬カザックは、波動現象として存在している ― その起点を太陽内部に、そしてその終点をベテルギウス星にもつ歪んだ螺旋の内部で、脈動を続けているらしいのである。

 地球はまもなくその螺旋と交叉するところなのだ。

『タイタンの妖女』

***

 まただよ、思ったのと少し違う。連想、というより記憶というものが、その本性上かならず何ほどか揺らぎを含む。DNAの複製が必ずある程度の間違いを伴い、それが変異という多様性の源になっているのと似ている。そしてDNAの複製ミスの大多数が徒花(あだばな)であるのと同様、記憶の間違いも大概は無意味であるか混乱のもとになるか、どちらかにしかならない。ただ、ごくまれにケガの功名が生じる、それをめあてに今日も記憶は間違える・・・ということにしておこう。

 ヴォネガットはさすがに凝っている。僕の妄想はずっと単純で、要するに映画のフィルムのようなものだ。人の一生が一巻のフィルムに収められているとする。そして、これまでに存在したすべての人生フィルム - すべての生物のすべての生涯フィルムと大盤振る舞いしてもよい - が、広大無辺な宇宙のあるエリアに整然と保存されているとしよう。ある人物の17歳のある日に会いたければ、索引の指示に従ってそのエリアの然るべき地点に行けばよい。そこでいつでも出会うことができる。時間は全てを無に帰するが、このように時間が空間に変換されたところでは、何ものも決して消え去ることがない。このように、すべて存在したものは常に存在し続け、あらゆるものが永遠に生きる・・・のかどうか。

 そのように静止したフィルムは、命の設計図ではあっても躍動する命ではない。命をあらしめるためにはフィルムを上映せねばならず、そこで初めて anima が animation になる。地球は宇宙の映画館であり、人生は上映されたフィルムなのだ。人生という映画は一定の上映時間をもち、初めがあり終わりがある。しかし一回の上映が終わったからといって、その作品の存在が失われた訳ではない、むしろ上映の完結によって存在が証明されたのである。

 君、なに言ってんの?

 「現実にないことも心の中では見ることができます。」

 友達がくれたこの言葉を、少し言い換えてみたかった。それだけだ。

Ω