散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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松江に向かい、出雲から帰る ~ 弐

2023-05-24 12:34:18 | 日記
2023年5月23日(火)

 個人攻撃が目的ではないので敢えて名前は伏せるが、社会的な要職、それも教育関係の全国組織の幹部を務めるある人が、公の場の時間つなぎに言ったのが、

 「昔から、島根と鳥取の区別が付きませんで…」

 という言葉であった。
 それだけなら特にどうということはない、というのも直接関係のない遠方の人間にとって、確かに区別が難しくはあるだろう。
 あきれたのは続く下の句である。

 「住んでいる人に言わせると、ゼンゼン違うんだそうですね。」

 これはもう一発アウトである。ゼンゼン違うのは当たり前ではないか。
 これがスピーチネタとして成立するためには、鳥取も島根も違いがないという認識を語り手と聞き手が共有していなければならない。この言葉を冗談として受けとるよう聞き手に求めるのは、「鳥取と島根なんて、オレたちにはまるで違いがないよね」と同意を求めるのと同じことだ。しかもこの御仁が統括する組織は、島根と鳥取を含む全都道府県の利用者の存在に支えられているのである。

 あきれました。

 鳥取と島根がゼンゼン違うのは、埼玉と神奈川がゼンゼン違うのと同様であり、山形と宮城がゼンゼン違うのと同様であり、愛媛と香川がゼンゼン違うのと同様である。ノルウェーとスウェーデンがゼンゼン違い、イランとイラクがゼンゼン違い、アルジェリアとナイジェリアがゼンゼン違うのと同様である。
 いずれも遠くの人間には区別の付きにくいことで、すべての情報に通暁することが不可能である以上、誰しも無知に陥りがちになることは致し方ない。ならばこそ無知を克服することに絶えず励み、その作業を楽しむのが「教養」の基本姿勢というものだ。自分の無知が、あたかもこれらの地域の遠さや印象の薄さのせいであるかのようにほのめかし、笑いのネタにするのは、「教養」とはまったく逆向きの心理的なベクトルの表われである。語るに落ちたとはこのことか。

 やや脱線するが、島根と鳥取の区別のつかない大人が大きな顔で闊歩する現状には、今日の初等教育の問題点が鮮やかに表れている。息子たちが区立小学校に通っていた頃、「目黒区の次は、世界の話に飛んでしまう」ことがしばしば食卓の話題になった。その中間にあるはずの日本各地の学びがすっぽり抜けているのである。東京に在住するおとなの多くが島根と鳥取を区別できず、四国四県の配置が分からず、九州七県(沖縄を除く)を弁別できないのは、初等教育の当然の結果であって彼らのせいではないのかもしれない。
 その状態を放置したまま、小学校から英語を学ばせて何になるのか。仮に英語を自在に操れるようになったとして(そこからして怪しいものだが)、外国人から「シマネとトットリってどんなところ?」と聞かれたら、「知らない、その二つ区別できない」ときれいな英語で答える外はない。それがいったい国際人というものでしょうか?
 国際化の時代だからこそ、聞かれて困らないよう自分の国についてちゃんと学ばせておけというのは、理の当然であって逆説でもなんでもない。

***

 島根と鳥取の区別がつかない某氏には想像もつかないことだろうが、島根に住む人々の出自に関する自己意識は、さらに緻密で込み入っている。
 松江滞在中、関わりをもった人々に「こちらの御出身ですか?」などと聞いてみた。聞く方としてはぼんやり島根県東部(旧国名の出雲地方)ぐらいをイメージして「こちら」と聞くのだが、戻ってくる答えは常に細かい。「いえ、もともと松江ではなくて」、その後は出雲、安来などのおおどころから町や郡などの名が語られ、さらに県西部(旧・石見国)の地名が出てくることもある。太田、江津、浜田、益田、山口県境近い津和野まで、島根は愛媛などと同じく東西に長い分だけ存外に中が広い。もとより微妙に、あるいははっきりと文化も言葉も違っている。
 とりわけ宍道湖の西の出雲と東の松江は、出雲大社と松江城が象徴するとおり鮮やかな対照を為しており、住む人々の間に小さからぬ対抗意識があったとしても不思議のないことである。先に「寺社に足を向けるのに何のこだわりもない」などと書いたが、一畑電鉄で宍道湖の北沿いを西へ向かい、奥まった山懐にやおら姿を現す出雲大社の偉容に接しては、少々話が変わってくる。境内に翩翻と翻る巨大な日章旗を見あげ、この国はいったいどういう姿をしているのだったかと、あらためてため息をつくのでもあった。
 デリケートでもあり複雑でもある問題なので、ここで深くは掘り下げない。五月下旬の晴れあがった青空に、大小の雲の動きが妙に生き生きと感じられたことだけを、さしあたり書き留めておこう。「出雲」「八雲」の地名が示すとおり、古来この地は雲が次々と湧き出でる土地であり、そのことが人々を励ましもすれば悩ませもしてきたはずである。




Ω

松江に向かい、出雲から戻る ~ 壱

2023-05-24 12:27:34 | 日記
2023年5月23日(火)

 55年ぶりの松江再訪、足かけ五日の滞在中に起きたこと、感じたことを具に書いていったら、一冊の本になりそうだ。
 それは退職後の楽しみにとっておくとして、ここは写真数枚を限って心覚えに貼りつけておく。

 東京を発つ直前に出会った人が、絵はがきを二枚くれた。
 一枚はこれ。

 白隠の半身達磨像。白隠の遺した多数の達磨像の中でも、よく知られたものの一つか。
 白隠慧鶴(はくいん えかく)、貞享2年(1686年)~明和5年(1769年)は臨済宗中興の祖。修行中、老婆に箒で叩き回されたことで悟りを進めたと、どこかで聞きかじった。

 もう一枚は、

 仙厓の「指月布袋図」、こちらは白隠以上にファンが多いだろう。
 仙厓義梵(せんがい ぎぼん)、寛延3年(1750年)~ 天保8年(1837年)。臨済宗古月派の禅僧、画家とある。

 どちらも臨済宗か。わが家も耶蘇に転ずるまでは臨済宗の檀家だった。貴重な絵はがきをくれた人は、もちろんそんな事情を知っているわけではなく、踏まえているわけでもない。二枚の禅画が示す二つの境地をこもごも大事に、行きつ戻りつ日々を過ごすよう勧めてくれたのである。
 送り出されて飛び立った飛行機の窓、ぶあつい雲の上に薄い光の柱が立った。岐阜県揖斐郡上空とGPSが教えてくれる。この吉兆は外れたことがない。これからもけっして外れない。
 


***
 土日二日間で90分8コマの授業はなかなかの力業で、夕方から少々時間があってもとても観光などできはしない。
 泥のように眠った翌日、一日の休暇をとって懐かしい松江市内の散策に出る。路傍の掲示板に「白隠」の二文字、何とも幸先の良いことだ。白隠に池大雅(1723-1776)、風外慧薫(1568-1650)のコラボ展覧会らしい。時間の限られているのが残念。


 まずは2015年にめでたく天守が国宝指定された松江城へ。小学校の図画の写生で何度か描いた懐かしいお城だが、何となくおちつかないのは昔聞いた人柱伝説のためかもしれない。記憶にあるのもあらまし以下のような話で、そんな城なら崩れてしまえと憤った昔を思い出す。

 築城の際に天守台の石垣が何度も崩れ落ち、人柱がなければ工事は完成しないと工夫らが求めた。そこで盆踊りが催され、踊り手の中で最も美しく最も上手な少女が生贄にされた。娘は踊りの最中にさらわれ、事情もわからず埋め殺されたという。石垣はでき上がり城も落成したが、城主の父子が急死し改易となった。人々は娘の無念の祟りであると恐れたため、天守は荒れて放置された。その後も長らく天守からすすり泣きが聞こえ、城が揺れるとの言い伝えがあって城下では盆踊りをしなかった、云々(小泉八雲「人柱にされた娘」など)


 
 城よりも印象に強かったのは、昔存在も知らなかったお稲荷さんである。城の北側を西へ抜ける小道から入り込んだところにあり、小泉八雲がえらく気に入っていたとあるので寄ってみて仰天した。



 これこの通り、何百ではおそらく聞かない狐、きつね、キツネ…まことに圧巻である。


 

 


 

 近づいて眺めればわかるとおり、どのキツネも例外なく怖い顔をして前方を睨んでいる。護法の気概か、人々の安寧を犯すものへの瞋恚か、いずれにせよ堂々として立派なものだ。これらのキツネの背後に、いつの時代からどれほどの数の人々の思いがあったことだろうか。
 クリスチャンなのに寺社に出入りするんですかと聞かれることがときどきあるが、これは正直なところ意味がよくわからない。創造と救済の根拠がそこにあるとは思っていないが、このような形に表されたひたむきな信心に敬意と共感を抱くことに、何のさしさわりがあるだろうか。少なくとも自分の存念はそういうものである。

***

 城山稲荷神社は小学校4-5年頃さんざん遊び回ったエリアの辺縁にあったのに、当時は気づいてすらいなかった。キツネに活を入れられて坂を下りたとき、目の前にかかる橋がその昔に反対側から見慣れたものであることを確信した。かつて住んでいた二つの住所にやすやすとたどり着くまで、30分とかからなかった。
 不思議と言えば不思議である。近づくにつれ、顔を上げて犬のように鼻を鳴らしてあたりの臭いを嗅いでいる自分に気づいた。もちろん文字通りの嗅覚ではないけれども、あたかも臭いをたどるように見えないけれども確かな何かを追っているのである。建物はすっかり建てかわっていても、道筋が変わっていないことが助けになった。松江はそのように、姿を変えながら変わらずそこにあり続けていた。

Ω

二十四節気 小満

2023-05-24 08:30:30 | 日記
2023年5月21日(日)に書くはずだったこと:


 小満 旧暦四月中気(新暦5月21日頃)
 小満とは「万物しだいに長じて全地に満ちはじめる」という意味です。さまざまな生き物に生気があふれる時期です。
 野山の植物が実を結び、七十二候によれば、蚕が盛んに桑を食べはじめる頃、田植えの準備もいよいよ始まります。
 早ければ、この頃から本州が梅雨入りになる年もあります。
(『和の暦手帖』P.50-51)
***
 立夏に始まったプロセスが、いよいよ本格的に展開するというイメージだろうか。実りが熟すのは秋として、実が入るのはこの時期からということか。

七十二候
 小満初候 蚕起食桑(かいこおきてくわをはむ)新暦5月21日~25日
 小満次候 紅花栄 (べにばなさかう)    新暦5月26日~30日
 小満末候 麦秋至 (むぎのときいたる)   新暦5月31日~6月5日
 
 

 麦秋(ばくしゅう)という言葉を、母はことのほか好んだ。同名の映画が小津安二郎の名作(1951年)であったことに依るのかもしれない。旧暦四月の異称ともある。
 「ジューンブライド」という言葉だけを聞き知って、六月の結婚式に憧れる趣が今でもあるのに先日気づいたが、あれはヨーロッパの気候風土に由来するものだ。彼の地には梅雨というものがなく、初夏の清々しさに麦の収穫の喜びが重なって訪れる。なぞらえるなら本邦では十月あたりだろうか。
 突飛なようだが、結婚(式)というものの価値がすっかり低落してしまったらしいのは、人が自然とかくも乖離したことと関連しているのかもしれない。ふと、こんな唄を思い出したりする。公会堂を借りて行った中学の音楽祭で、声変わりをすませた男子4~5人のチームが得意げに歌って聞かせたのだったっけ。

 ともだちができた すいかの名産地
 なかよしこよし すいかの名産地
 すいかの名産地 すてきなところよ
 きれいなあの娘(こ)の晴れ姿 すいかの名産地

 五月のある日 すいかの名産地
 結婚式をあげよう すいかの名産地
 すいかの名産地 すてきなところよ
 きれいなあの娘の晴れ姿 すいかの名産地

 とんもろこしの花婿 すいかの名産地
 小麦の花嫁 すいかのめいさんち
 すいかの名産地 すてきなところよ
 きれいなあの娘の晴れ姿 すいかの名産地

Ω

人生の短さと長さ

2023-05-21 08:37:52 | 日記
2023年5月21日(日)

   二十四節気の小満ながら、出張にて松江滞在中につき詳細は後日。
   55年ぶりの同地再訪、もくろみ通り往時のクラスメートに出張の公務先で会うことができた。先方は気づいていなかったが、その後の語らいの中で、分秒毎に戻る記憶を一つ一つ言葉にしてくれる。
   渇いた砂地から清水が湧き出してくるような、みずみずしい眺め。
   鈍色に沈んでいた宍道湖の水面が、雲間から漏れる陽射しをおもむろに照り返しはじめている。


Ω

ゆとりの語源を論じる前に

2023-05-17 08:11:39 | 言葉について
2023年5月17日(水)

 忙しいときほど、ゆとりが必要である。そうでなければやっていけない。

 そういえば「ゆとり」という言葉の語源は何だろうと考え、何気なく検索して驚いた。
 「ゆとり」とは昔からある言葉か、それとも「ゆとり教育」という教育方針を立てたときにつくられた造語なのか、本気の質問がインターネット上に複数見られるのである。

 さらに仰天したのは、以下の記事。
> ゆとりとは、総じて知識や常識がない人という意味です。
> 相手がゆとり世代かどうかは関係なく「常識・知識がない人間」と揶揄する時に使います。
> 何にせよ、あまり乱用しないことをおすすめします…。

 いくら何でも、これはぶちこわしというものである。現にそのように使われているという意味で、あながち無視できないのが悩ましいところではあるけれど。

 そうした状況の中で、「ゆとり」の本来の語源についてマジメに詳説する投稿者もある。

 そこにもある通り、「ゆたか」や「(た)ゆたふ」が言葉としても現象としても「ゆとり」と深く関わっているであろうこと、まずは手がかりになりそうである。

Ω