散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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とりわけ

2022-08-26 07:33:16 | 日記
2022年8月26日(金)

第七 應帝王篇
 然後列子自以為未始學而歸。三年不出,為其妻爨,食豕如食人。於事无與親。彫琢復朴,塊然獨以其形立。紛而封哉,一以是終。
 〈このことがあってのち、列子は自分の学問がまったくなっていないことをさとり、そのまま家に帰った。そして三年間というものは、ひきこもったままで一歩も外に出ることがなかった。妻のために炊事をしてやり、豚を飼うにもまるで人間を養うようにたいせつにして、差別の心を去るようにつとめ、特定のことにだけ心をひかれて親しむことがないようにした。
 このようにして人為を削り去って素朴の状態に帰り、まるで心のない土くれのような姿をしたまま立ち、すべてを混沌にゆだね、そのまま生涯を終えた。〉(P.201)

 於事无與親:事に於いて与(とも)に親しむ無し
   特定のことにだけ心をひかれて親しむことがない。
 彫琢復朴:彫琢して朴に服す
   人為を削り去って素朴の状態に帰る。

 拳々服膺…
Ω


まず『荘子』

2022-08-23 11:05:01 | 日記
2022年8月23日(火)
 というわけで仙台育英の校歌が「南冥」で始まるのに触発され、木曜日と金曜日に『荘子 内篇』を、日曜日と月曜日に『老子』を和訳で通読してみた。
 「読むならオリジナルを」と常日頃主張しているのに言行不一致で申し訳ないが、原文に挑戦するのは後日のこととして、まずは取り急ぎ雰囲気を知りたい…思い出したいのである。
 「老荘」と一括りにするが、読んでみれば荘子の少なくとも内篇の思想と老子とでは、少々/だいぶトーンが違う…感じがする。
 処世(訓)など超越・離脱し、ものの考え方を根本から覆してあらためるのか、それとも違う入り口から入って結局は処世(訓)にすり寄るのか、どっちなんですかと問いつのりたい気持ちになるが、そういうdichotomy そのものが凡俗の発想で「非老荘的」ということかしらん。
 ともかく書きとめておこう。

『荘子 内篇』森三樹三郎訳注(中公新書)より

第一 逍遙遊篇
 北冥有魚,其名曰鯤。鯤之大,不知其幾千里也。化而為鳥,其名為鵬。鵬之背,不知其幾千里也;怒而飛,其翼若垂天之雲。是鳥也,海運則將徙於南冥。南冥者,天池也。 
 〈是の鳥や、海運けば、すなわちまさに南冥に移らんとす。南冥とは天池なり。〉
 北冥から南冥までひとっ飛び(P.2)

第二 齊物論篇
 夫隨其成心而師之,誰獨且无師乎?奚必知代而心自取者有之?愚者與有焉。
 〈もし、自分に自然にそなわっている心に従い、これをわが師とするならば、だれでも自分の師をもたないものはないことになる。この師は自然にそなわるものであり、あれこれと、これに代わるものを探したすえに、自分の心が選び取ったわけのものではない。だから、この心の師は、どんな愚かものでもこれを心にそなえているのである。〉
 デカルトの bon sens が連想される。(P.38)

 道隱於小成,言隱於榮華。 
 〈道は小さな成功を求める心によってかくされ、ことばは栄華とはなやかさを求める議論のうちにかくされてしまうのである。〉
 そこに儒家と墨家との是非の対立が生まれる、と続く。(P.40)

 彼是方生之說也,雖然,方生方死,方死方生;方可方不可,方不可方可;因是因非,因非因是。是以聖人不由,而照之於天,亦因是也。是亦彼也,彼亦是也。 
 〈つまり彼れと是れというのは、相並んで生ずるということであり、たがいに依存しあっているのである。しかしながら、このように依存しあっているのは、彼れと是れだけではない。生に並んで死があり、死に並んで生がある。可に並んで不可があり、不可に並んで可がある。是をもとにして非があり、非をもとにして是がある。すべてが相対的な対立にすぎず、絶対的なものではない。だからこそ聖人は、このような相対差別の立場によることなく、これを天に照らす ~ 差別という人為を越えた、自然の立場からこれをみるのである。〉
 以下、彼是の対立を超越した道枢の境地 ~ 枢(とぼそ)は回転軸を意味する ~ を経て、「天地一指也,萬物一馬也」との言明へ帰結していく。 
 相依相待の説は、高校時代の少々変わった国語の授業でたっぷり聞かされたが、このあたりに源があったのだ。(P.41)
 
 萬物盡然,而以是相蘊 
 万物尽(ことごと)く然りとして、是を以て相薀(つつ)む
〈万物をあるがままによしとし、あたたかい是認の心でこれを包むのである〉
 「薀」は面白く、また好ましい字である。(P.68)

 万物斉同は荘子の中心思想だそうだが、前に読んだ時はこのあたりで気に入らないものがあったらしく、かみつくような書き込みを残している。聖人を非政治的な存在として政治指導者などと対照させて論じるのは、荘子が批判する二項対立に自ら陥っているだとか、鋭い洞察だが実践の指針にはならないだとか。
 何歳頃の感想だろう?購入の日付は昭和51年9月29日、文庫本の定価は240円とある。良い時代だった。
 なお「朝三暮四」の故事(P. 48)、沈魚落雁という後世誤用された語のオリジナル(P.65)、胡蝶の夢のたとえ(P.76)などが、いずれもこの篇に属す。

第三 養生主篇

第四 人間世篇
 顏回曰:「回之家貧,唯不飲酒不茹葷者數月矣。如此,則可以為齋乎?」
 仲尼曰:「是祭祀之齋,非心齋也。」
  回曰:「敢問心齋。」
 
 顔回が孔子に「心斎」について質問する場面。大阪の心斎橋のことを思い出したが、これは関係ないらしい。心斎橋の名は大坂の陣の後の復興にあたり、長堀川の開削を進めた商人らの一人、岡田心斎(1575-1639)に由来するという。

第五 德充符篇
 老聃曰:「胡不直使彼以死生為一條,以可不可為一貫者,解其桎梏,其可乎?」
 无趾曰:「天刑之,安可解!」

 足切りの刑にあったある人が教えを求めて孔子を訪ねたところ、思いがけず刑余者として蔑まれるような応接を受けた。そのことを老子に伝え、
 「それなら、訳の分ったものに孔子の心の手かせ足かせを解かせてみたらどうか」と老子が言うのに相手が応じる場面。
 「(自分は人の刑罰で足を切られたが、孔子は)天の刑罰を受けているから、解いてやったりできませんよ」という答えである。
 孔子と儒家の位置づけは、「荘子」全編を通して必ずしも一定しない。ここは最高に辛辣である。(P.137)

 為天子之諸御,不爪翦,不穿耳; 
 〈天子の侍女になったものには、爪を切ることをやめさせ、飾り玉を通すために耳に穴をあけることを許さない。〉
 ?
 許さない、のね。何しろ古代中国に既にピアスがあったのだ。それはそうか。(P.142)

 使日夜无卻,而與物為春,是接而生時於心者也。是之謂才全。 
 〈日夜間断なく物と接しながら、いっさいの物を春のような暖かい心で包むべきであろう。このような心境にあるものを『完全な才能』の持ち主という。〉
 「物を春と為す」こと。万物を春のように暖かく包み、すべてをそのままでよしとして是認する、万物斉同の理から当然出てくる態度と解説が記す。(P.144)

第六 大宗師篇
 本篇は荘子の運命随順の思想を最もよく表しており、斉物論篇とともに内篇の双璧であるという。

 真人之息以踵,衆人之息以喉。 
 〈真人はかかとの先から深く呼吸するが、凡人はのどの先で呼吸する。〉(P.152)

 不忘其所始,不求其所終; その始まる所を忘れず、その終わる所を求めず。
 「生は生のない状態からはじまり、ふたたび生のない状態にかえる。生の故郷である死の世界をいとうわけではないが、そうかといって死の世界をひたすらに慕うわけでもない。生死をひとしくするという万物斉同のあらわれであり、運命随順の思想はこの一節に最もよく現れている。」(P.154)

 夫大塊載我以形,勞我以生,佚我以老,息我以死。故善吾生者,乃所以善吾死也。 
 〈天地の自然は、私をのせるために身体を与え、私を労働させるために生を与え、私を楽しませるために老年を与え、私を休息させるために死を与えているのである。もし、私の労役である生をよしとするならば、当然私の休息である死をよしとすることになるであろう。〉
 全篇の白眉。
 ただ、このような個人の心得に照応する社会のあり方としては、その直前にある通り…

 泉涸,魚相與處於陸,相呴以濕,相𣽉以沫,不如相忘於江湖。 
 「仁は不自然な社会で求められる道徳にすぎない。満々と水をたたえた大河や湖、自然のままの社会ではいっさいの道徳は必要なく、他人の存在も意識することがない。」
 不自然に不自然を重ねて数千年を経た今の世界に、何をどうすればこれを活かすことができるものか。(P.160-1)

第七 應帝王篇
 然後列子自以為未始學而歸。三年不出,為其妻爨,食豕如食人。於事无與親。彫琢復朴,塊然獨以其形立。紛而封哉,一以是終。
 〈このことがあってのち、列子は自分の学問がまったくなっていないことをさとり、そのまま家に帰った。そして三年間というものは、ひきこもったままで一歩も外に出ることがなかった。妻のために炊事をしてやり、豚を飼うにもまるで人間を養うようにたいせつにして、差別の心を去るようにつとめ、特定のことにだけ心をひかれて親しむことがないようにした。
 このようにして人為を削り去って素朴の状態に帰り、まるで心のない土くれのような姿をしたまま立ち、すべてを混沌にゆだね、そのまま生涯を終えた。〉(P.201)

 その「混沌」について、内篇の最後に記された逸話を、前述の奇妙な国語の授業で教わった記憶がある。
 南海之帝為儵,北海之帝為忽,中央之帝為渾沌。儵與忽時相與遇於渾沌之地,渾沌待之甚善。儵與忽謀報渾沌之德,曰:「人皆有七竅 以視聽食息,此獨无有,嘗試鑿之。」日鑿一竅,七日而渾沌死。
 南海の帝を儵(しゅく)と為し、北海の帝を忽(こつ)と為し、中央の帝を渾沌と為す。儵と忽と、時に相ともに渾沌の地に遇う。渾沌これを待つこと甚だ善し。儵と忽とは渾沌の徳に報いんことを謀る。曰く「人皆七竅(七つの穴)有り、以て視聴食息す。これ独り有ることなし。試みにこれを鑿たん」と。日に一竅を鑿つに、七日にして渾沌死せり。(P.204)

Ω

校歌を耳にして楽しむこと

2022-08-23 08:06:40 | 日記
2022年8月22日(月)
 勝ちあがるチームの校歌を繰り返し聞くうちに、何となく覚えてしまうことがある。1978(昭和53)年センバツ優勝の浜松商業がその初めだった。

   朝日直刺(たださ)す 富士の秀峰(ほつみね)
   夕陽かゞよふ 浜名淡海(あわうみ)
   曳くや霞の 曳馬の野辺に 
   緑芽(みどり)伸び行く 若松我等 

 古風だが、いたずらに力むところのない和やかな歌で、とりわけ「ひくやかすみの/ひくまののべに」とある「ひく」の韻律に心「ひかれ」た。

 対照的に大いに勇ましくて印象に残るのが熊本工業の校歌:

   山は大阿蘇 地軸揺りて
     大空焦がす 久遠の神火
   川は白川 昼夜分かたず
     清流滔々 巨海へ放る
   大なり山河 我等の揺籃

 インターネット知恵袋に「ひらがなで書いていただけませんか? 難しい漢字ばかりなので困ってます」という書き込みがあったが、今どき無理もないか。親切で正確なベストアンサーが下記:

   やまはおおあそ ちじくゆすりて 
     おおぞらこがす くおんのしんか
   かわはしらかわ ちゅうやわかたず
     せいりゅうとうとう きょかいへいたる
   だいなりさんが われらのようらん

 質問者はさすがに卒業生ではないはずだから、当方と同じく何らかの事情で関心を抱いたのだろう。
 熊本工業といえば1996(平成8)年の「奇跡のバックホーム」で敵役を演じた往年の強豪・松山商業、こちらは同郷人の心得というもので…

   石鎚の山 伊予の海
     金亀城頭 春深く
   緑の旗や 商神の
     もすそに匂ふ 百千草
   秋万頃の 波打てば
     空に黄金の響きあり
 
 石鎚(いしづち)山を、ここでは石鎚(せきてつ)と読む。金亀(きんき)城は松山城の愛称で、姫路城を白鷺城、広島城を鯉(り)城と呼ぶが如し。
 「あきばんけいの/なみうてば、そらにこがねの/ひびきあり」と言葉もカッコよく、リズムに乗って朗らかな歌である。

 そして今回、仙台育英が準々決勝を制したとき、たまたまTVを点けていて「おや」と思ったのがその冒頭。
 
   南冥遙か 天翔る
     鴻鵠棲みし青葉城
   ああ松島や 千賀の浦
     天の恵める青葉郷
   ここに根ざしし 育英の
     我が学舎に 栄光あれ

 土地の名勝を読み込むのは常道、「ああ松島や千賀の浦」はメロディーに乗ってよく伸びる。ちなみに二番の歌詞が興味深い。

   平和の光 民主国
     護憲の教え あきらかに
   我が日の本の 国のはな
     学びの園に咲き匂う
   斯の道守る 育英の
     我が学舎に 栄光あれ

 「民主」や「護憲」を戦後のものと受けとるなら変哲もないが、「我が日の本の 国のはな」には違う空気がある。実際「加藤利吉作詞/服部正作曲、昭和5年2月22日制定」とあり、その経緯に興味がもたれる。
 それはさておき「南冥」と聞いては、連想が働かずにいない。そこへいく前に三番は「見よ北辰は 燦として/理想の彼岸に 輝けり」の歌い出しで、「北辰」が一番の「南冥」と対句を為す。
 北辰は北極星の謂であり、古代中国の宇宙観においてひときわ貴いものと見なされた。
 
Ω

空に映った雲の影

2022-08-22 10:54:12 | 日記
2022年8月22日(火)

 さかのぼって7月30日(土)、国中が猛暑にあえぎ、東京も日中35℃まで上がった日の夕暮れ時である。ベランダから眺める西の空にふと注意を牽かれた。


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 分厚い雨雲の向こう側、低い地平線沿いに夕陽がある。その放つ光が手前の雲を下から照らし、影が高空の白い雲に映って尾を引いている。
 雲の影が空に映るということ、初めて見た気がする。逆天のきざし…

Ω

付記

2022-08-21 09:35:21 | 日記
2022年8月21日(日)
 だから…

 「宗教的寛容」と「政治的異議申し立て」は一事の両面、歴史的にも理論的にも不可分に結びついている。
 両者をもろともに根絶やしにした点で、徳川レジームの罪はきわめて重い。
 そのアンチテーゼを鼓吹して登場した明治の新体制は、この点ではほとんど見るところなく、徳川スタイルの近代版を提示するに終始した。
 「押しつけ憲法」と(ある面では正しくも)非難される基本法を奉じて出発した戦後民主主義、その最大の歴史的役割はこの点の刷新にあったはずだが、残念ながら器は用意されたもののこちらのアタマがついていっていない。
 それやこれやで、周回遅れの現状があいかわらず続いている、ように見える。

Ω